引き際について考える
木星の核融合燃料生産プラントが、本格生産体制に向けて準備が進められていたのと同じ頃、
地球/月L3では、重量物キャリアーが出発に向けて準備を進めていた。
4年ほど前から進められていた、土星の衛星タイタンでの基地建設のために、資材の運搬を行うのが今回の目的である。
建物の建設はほぼ完了しており、今回運搬するものは、総重量3000トンの核融合炉ユニットの中核部品である。
管轄部署は、理沙の所属している資源開発グループとは別なので、今回の件で直接のかかわりはなく、
キャリアーが土星に向けて出発するのを見守るということもなかった。
作業プラットフォームから、キャリアーがゆっくりと離れてゆく。同じ頃、ニューヨーク州郊外の研究施設では、
ヴェラがその様子を会議室のモニター上で眺めていた。
土星への出発を見届けると、彼女はモニターの表示を切替して、会議資料を表示させた。
「さて、では私達も準備を始めましょう」
* * * *
「ようやくこれで一段落、としたいところですが、これから先のことを今から考えておく必要があります」
理沙の目の前にいるのは、開発局の管理職たち。
しかし、彼らはまだ赴任してまもない。
長官からの依頼で、理沙は新任の管理職達に、木星資源開発プロジェクトの発足まもないころから今までの経緯、
加えて今後の課題について説明し、ひとりひとりが事業を担う中核的な存在になるようにとの訓示をすることになった。
「かれこれ30年以上前に、私はちょっとしたアイディアを携えて、事業団の門を叩きました。
木星のヘリウム3の資源開発のプランについては、私が考える以前からあったようですが、
私が参画した同じタイミングで事業推進のタスクが立ち上がって、私は軍から出向してすぐにタスクに参画することになりました。
探査船の青写真ができあがった頃に、私は核融合推進システムの開発タスクに参画し、その後木星、土星探査に参加しました。
この探査計画は、私の今までの人生の中で本当にエキサイティングな経験でしたが、それは単なる始まりでしかなく、
地球へ帰還すると、休む間もなく、核融合燃料開発の事業化タスクへの参画を命じられました」
事業団の面接試験のために、木星を太陽系のハブ拠点にするというレポートを、ホテルの一室でまとめていた時の事が、
遥か昔のことのように思えた。
30年少々の月日、しかしその月日は激務の日々だった。
「あと2年以内には、木星での核融合燃料生産が本格化します。すでに月での生産能力を超えて、さらに加速しています。
私が30年前に思い描いた、太陽系のハブ拠点になるのは、もう目の前だと思っています。
では、次に何が考えられるのか、その事を私は皆さんに問いたい」
長官から今日の訓示を依頼された時、理沙からも長官に同じような問いかけをした。
「私は、これから先のことは皆さんに託したいと思っています。将来のために何ができるのか、皆さん自身で考えてください」
「お待たせしました」
しばらくの間連絡のなかった軍の同期から、ようやく連絡が入った。
「揚陸艦の設計タスクが、正式に立ち上がることになりました。あなたの力を借りたいと思っています。
時期は1年後。その間に事業団の仕事の引継ぎを進めておいてください。こちらもあなたの受け入れ準備を進めます」
会話はそれだけだった。具体的なミッションについては追って連絡するとのこと、
しかし、今まで事業団の中で様々な無茶振りに適応してきた理沙にとっては、今から内容を知る必要もないと思っていた。
「了解しました。よろしくお願いします」
翌日には早速、事業団長官に軍からの帰還要請の件を報告し、引継ぎの件はすぐに承認された。
誰も引き留める人はいないのかと、心の中では少々不満に思ったりもしたが、
事業がしっかりと軌道に乗り安定化に向けて着々と進んでいる今、役員、リーダー達から聞こえてきたのは、
30年以上の理沙の出向に対する感謝の言葉だった。
新任の管理職に対する訓示を終えると、早速その日から管理職に対する引継ぎが始まった。
管理職の中から、理沙は何人かを選び出し、彼らに対して集中的に引継ぎを行うことにした。
マンツーマンでもよかったのだが、30年以上の経験とノウハウについては、事業団のデータベースに既に保管されており、
膨大なドキュメントに含まれているもの、含まれていないもの全てを、1年でレクチャーを終えるのは難しいと思えた。
概要は1ヶ月ほどで説明し、あとは日々の業務や開発タスクを彼らに任せ、仕事の中で身に着けてもらうことにした。
翌月から理沙の仕事は一気に減った。
軍の同期とは、月に一度会うこととし、新たに建造する予定の揚陸艦の概要について、徐々に情報を得る事にした。
要求仕様としては、全長400メートルから600メートルの規模になるもので、
数千人の兵員と、惑星での作戦行動を行うための着陸船、資材運搬用のヘビーリフターを搭載可能とし、
無補給で2年以上の作戦行動を可能とすることが求められていた。
木星へ資材を運搬するために開発された、重量物キャリアーに、すでに就航している200メートル級の巡洋艦を合わせたものと、
理沙は頭の中で早速イメージした。
「方向性としてはそれでもいいと思いますが、無補給で数千人の兵員を維持するという点では、もっと考慮が必要かと」
大佐との会話の中で、課題が徐々に明確になってゆき、
次に会う時までの課題は持ち帰り、自宅でゆっくりと考えることにした。
「実は、閉鎖空間の中での数千人の生命維持については、既に実証実験の準備が始まっています」
そこで理沙は、今回の揚陸艦開発タスクと、タイタンでの基地建設が裏で繋がっているということを知った。
* * * *
「あと1年で、事業団を離れる事になりました」
STUには何度足を運んだかわからないが、いったいあと何度通うことになるのだろうか、
そう思うと、事務所のビルも非常に愛おしい存在に思えてしまう。
「あなたには非常にお世話になりました。今までの強力なリーダーシップに感謝します」
「いえいえ」
コーヒーを飲みながら、STUの技術担当者としばらくの間昔話が続いた。
そして[ミスター核融合]の話題も。
「退職後はどうされたんでしょう。全くその後の話がありませんが、便りがないのはご無事という事でしょうか」
「中国に戻って、故郷で静かに暮らしているらしいですが」
ならばよかったと、理沙はとりあえず安心した。
ちょっとお見せしたいものが、と、担当者はディスプレイに資料を表示させた。
「まだ計画段階です。この事を知るのは限られた人だけですが、まぁ、あなたなら大丈夫でしょう」
一見、木星で稼働している原子力ラムジェット機かと思った。
黒くてすらりとしたその姿は、見慣れていて親しみあるものだったが、
「核融合ラムジェット機です。まだ、推進システムの完成までに時間がかかりそうですが」
胴体下の推進システム部分に、まだモザイクが入っていて、企業秘密だということがよくわかった。
高速燃焼型の核融合ユニットは、まだどの国も実用化していない。
しかし、Metal-seedシステムについても、STUから実用化が伝えられたのは実証実験の数年後であり、
ひょっとして今回もと思い、理沙はそれとなく担当者に探りを入れたが、担当者はそれ以上のことを語ることはなかった。
「これを作る目的は、木星本体の資源開発も視野に入れたプランを考えているからです」
そして彼はいくつかの資料を理沙に見せた。
木星の大気中を浮遊する、巨大な風船状の物体。
事業団のライブラリーにある資料で見たことのある、空想上の木星の生物に似たようなものだった。
大きさは数百メートルから数千メートル。
核融合炉の莫大な熱を利用して浮力を維持し、巨大な風船の下には精製プラントが取りつけられていた。
木星大気中の有機化合物を採取、精製したのちに、衛星軌道上のプラットフォームに製品を輸送するというプランで、
その輸送を担うのが、核融合ラムジェット機である。
将来に向けての思いは膨らむ一方で、話は尽きなかった。
これらのプランの実現は、次の世代に任せる事にしよう。
木星の過酷な自然を相手に、さらにハードな計画ことになる事は間違いないと、理沙は思った。
* * * *
40人乗りの小さなシャトルが、地球/月L1で待機している連絡船に向けて出発した。
体力勝負のいかつい姿の作業員に混じって、数人の技術者、その中にヴェラがいた。
1か月前に土星に向けて出発した、重量物キャリアーの後を追うように、連絡船でタイタンに向かう予定である。
今回が2度目のタイタン行きである。
前回は自宅に残してきた夫と娘の事が気になって仕方がなかったが、
今はすっかり気持ちは落ち着いていた。
というより、腹をくくっていると言った方がよいだろうか。
「2年も出張?」
前回が最後、と言っていたはずなのに、帰宅して半年もしないうちに、次の出張の話を持ち出すとはどうしたものか。
夫はすっかり取り乱していた。
感極まってとうとう離婚のことも彼の口から出た。
「ごめんなさい」
しかし、ミッションの詳細については、前回同様に夫に対しても明かせない。
「今回のミッションが片付いたら、引退しようかと」
窓の外を見ている、タイタン基地の行政官に赴任予定の男にそう語りかけると、彼は振り向いた。
彼はしばらくの間考えていたが、やがて、
「わかりました」
今までの長い付き合い、仕事での数々の思い出、彼女の表情を眺めながら、彼は改めて目のあたりに増えた皺に気づいた。
今回予定している実証実験が、彼女の最後の仕事として無事に終わることを彼は願った。