史上最凶の美女

木星の作業プラットフォームCの管制室では、数時間ほど前に地球に向けて出発した高速艇からの機器異常の連絡を受けて、
軌道上での交通整理が行われていた。
「帰還軌道に入ることを承認、作業プラットフォームCで受け付けます」
システムトラブルの詳細の説明を受けながら、管制担当はバックエンドのサポート部隊に作業を引き継いだ。
「こちらでも障害分析を手伝いますので、リンクをリモート接続のままにしてください」
そして、手続きにのっとり、後続の宇宙船に地球への軌道を明け渡した。
400人乗りの旅客船がパーキング軌道から出発軌道に移行した。
高速艇の船長が、作業プラットフォームCへの帰還コースをセットすると、管制室のディスプレイ上のステータスが変化した。
管制官の注意はすでに地球へ向かう旅客船に向けられていた。
すると突然に管制室全体に響くアラート音が鳴った。
ディスプレイに注意を向けると、ついさきほどまで点灯していた表示が消えていた。
「高速艇の軌道上を捜索せよ、衛星を至急そちらへ」
管制官は高速艇の船長に呼びかける。何度か呼びかけて反応を待つがなにも反応はなかった。
レーダー観測衛星がどんなに小さなものでも見逃すまいと、軌道上の捜査を始める。
小さな野球ボールほどの物体も見逃さないレーダーは、やがて粉々になった物体を多数捉える事となった。
警戒レベルが上がり、捜索救助艇が出発した。
しかし、その粉々になった破片からかなり離れたところに、もう一つの物体が漂っていたのだが、
そちらに注意を向けられることはなかった。


*     *     *     *

自動通報システムが頼みの綱だった。
理沙はスイッチが入っていることを確認し、誰かが見つけてくれることを願った。
しかし、このような時のために備え付けられているはずの通信機が、まったく役に立たないことに理沙は苛立った。
再びシートに座り、気持ちを落ち着けて、自分がいま置かれている状況について頭の中を整理した。
遡る事2時間前、高速艇の個室で仕事の資料を眺めていたところ、非常アラートが鳴ったので部屋を出て技術者とすれ違う。
システムのトラブルだということで、作業プラットフォームCへと向かうことになり、
再び部屋で待っているところで船長から救命ボートへの避難を指示される。
通路でリーダーとすれ違うが、先に救命ボートに入るように指示されてひとり先に救命ボートで待つ。
待っていたところで突然に救命ボートの出発動作が始まり、中断しようとしても秒読みは止まらず船を離れる。
そして高速艇は大爆発して粉々になり、ただ一人自分だけが救命ボートで軌道上を漂う。
救命ボートの出発動作は、理沙自身がなにもしていないのに突然に始まった事だった。
シートに座って待っていただけで機器の操作は一切していない。
ではなぜ、と理沙は何事が起きたのだろうかと、操作パネルを慎重に開けて、機器に不具合がないかどうか眺める。
しかし非常時に備えて、どんなアクシデントにも耐える高品質の部品を使っているはずで、異常動作の事例は聞いたことがない。
動作テストモードで機器の状態を確認するものの、もちろん不具合は見つからない。通信機を除いて。
自動通報システムに全てをまかせ、ボートに備え付けの備品類を調べた。
食料と水は規定通りきちんと装備されていて、水、空気、有機物リサイクルシステムも完璧のようだった。
動力系も全く問題ない。
国際標準仕様にもとづき、この救命ボートは12名の人間を最低限2週間生存させることが可能となっていた。
もし宇宙船にトラブルが発生してこの救命ボートで漂流しても、
地球/木星間の軌道上であれば2週間以内に救出可能というのが国際標準仕様の根拠となっていた。
しかもまだ木星周回軌道上での事故であり、今頃は管制室でしかるべき対応が始まっているはず。
理沙は再びシートに座り、救助艇がやってくるのを待つことにした。


*     *     *     *

救助艇は高速艇の破片が漂っている場所に到達した。
破片は大きなものはアームで回収し、小さなものもできるだけネットで拾い集めた。
デブリとなり作業プラットフォームを直撃することをできるだけ減らすためである。
回収した物体の中には見るもおぞましい肉片もあり、ネットを船内に収納すると、格納庫内で地道なより分け作業を始めた。
誰の体のものかも判別がつかず、持ち帰りDNA鑑定することになった。
作業は2日間ほどかかり、もうこれ以上探しても意味がないというところまで作業を行い、作業プラットフォームへの帰途についた。


*     *     *     *

12人が生活可能な救命ボートは、理沙一人であれば十分すぎるくらいの生活空間だった。
できるだけ最低限の食事をして、体はできるだけ動かさずに、定期的に自動通報システムの状態を確認した。
1日目が終わり、2日目も何事もなく過ぎ去り、3日目になったところで何事もないのはどうしたことかと疑問に思った。
窓の外から木星の位置を眺め、軌道上の位置を示すモニター表示と見比べる。
特に違和感はなく、一番近い作業プラットフォームからはそれほど離れていないはずだと考えた。
にもかかわらず何事もなく3日目も終わる。
理沙は頭の中で、木星の周回軌道上に配置されている灯台衛星や、レーダー衛星、高解像度のモニター衛星のことを考えた。
衛星のおおよその位置を理沙は把握している。
24時間体制で作業プラットフォームの管制室で監視し、どんな小さな物体でも見逃すことはないはずだった。
じれったい思いのままで4日目も終わった。
一時的に避難するつもりだったので、私物は書類カバンしか持っていなかった。
しかし、いまさら資料を眺める気にもなれない。


*     *     *     *

救助艇が収集した物体の分析が、作業プラットフォームCで始まった。
DNA鑑定の結果、人物の特定はすぐにできた。
高速艇のフライトプランも事前提出されていたので照合はたやすかった。
しかしその先に進んだところで問題が発生した。
本来搭乗していない人物が合計5人ほどいることがわかったからだった。
その結果を分析チームが上司に報告すると、それ以上の調査は不要と一方的な指示があり、遺留品はすべて機密扱いとされた。
分析チームも捜索スタッフも通常の業務に戻った。
管制室もすでに何事もないように多忙な日々に戻った。


*     *     *     *

できるだけ体力を消耗しないように、シートに座り、余計な事を考えないようにした。
一日のうち8時間を眠り、16時間を8つに区切って、2時間おきに船内の機器と備品の状態をチェックした。
いまだに何の音沙汰もないことに不安を感じながらも、なにも出来ないのであれば心の中の不安を払拭すべく、
自分で日々の行動パターンを決めて、発見され救助される日を待った。
1週間が過ぎ、10日が過ぎ、遭難時の生存限度となる2週間が過ぎた。
しかし、一人であれば船内の備品は十分すぎるくらいで、空気も水も動力も問題はないはず。
シートに座っている間、できるだけ気分を紛らわせるために、自分の仕事の現在の途中経過について考えた。
新型揚陸艦のラフなデザインは既にできあがっていて、タスクチーム各人には設計に向けての課題事項を指示していた。
自分からの連絡が途絶えても、果たしてタスクは動いているのだろうかと思ったりもした。
あんがい、自分がいなくてもチームは自分で考えて動いてくれているのかもしれない。
頼もしいような寂しいような気分になった。
設計がすべて完了し、自動建造システムでの建造が始まり、進宙式を見る事ができるのだろうかと理沙はふと不安になった。


*     *     *     *

大統領のもとに、その知らせが入ったのは今日の仕事が終わり執務室を出ようと思っていた時だった。
補佐官から短いレポートを渡されるとすぐに彼は目を通した。
先日はタイタン基地での事故について、調査チームからの報告のレポートに目を通したばかりだったのだが、
今日はそのレポートを作成したチームが全員、地球に向けて木星を出発した直後に事故で死亡したとの知らせだった。
調査チームのメンバーひとりひとりの名前を見た時、大統領の手が止まった。
「6人のうち、5人が死亡ということか」
はい、と補佐官は頷いた
「残りの一人は行方不明で、捜査は先日打ち切られました」
大統領の顔色が変わった。
「まだ死亡とわかったわけでもないのに、なぜ打ち切るのかね?」
声は明らかに苛立っていた。
これほどまでに焦っている大統領を、今まで補佐官は見たことがなかった。



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