帰還とリハビリ

氷点下に近い救命ボートの中で、眠ったようにまったく動かない理沙。
作業船により救助され、作業プラットフォームBの救急センターに運ばれた時、一目見てもう助からないだろうと医師たちは思った。
しかし、弱いながらも臓器は活動を続けており、1分間に1回程度のゆっくりとした呼吸により脳は生き続けていた。
医師たちは、彼女の眠ったような非常に穏やかな表情を確認し、徐々に蘇生作業に取りかかった。
低体温状態が続いたことも、不幸中の幸いだった。
内臓の状態は良好で、細胞が壊死していることはないようだった。
全身を特殊な液体の中に浸しながら徐々に温度を上げる。
意識のレベルは低く、元のように意識が戻るかはまだわからなかったが、
まずは生体の状態を元に戻し、その後に軽い刺激を与えながら意識を戻してゆくことになった。
救助から2週間後、搬送に耐えられるまでに体が回復したことを確認したのち、旅客船に乗せられ理沙は地球へと搬送された。

*     *     *     *

時間の感覚はなく、もやもやとした状態の中で夢を見ているような、そうでないような曖昧な状態が続く。
何かをしなければいけないことは分かっているのだが、具体的に何をすべきなのかがわからない。
今日は起きて仕事に行かなければいけないのか、それとも休日なのか。
とりあえず起き上がろうとしたのだが、なぜか体が全く動かない。
動けない事によるストレスが徐々に溜まってゆくが、まぁ、どうでもいい事だとそのうち諦めに近い気持ちに変化する。
そして再び無意識の世界に沈んでゆく。
寒いという感覚が徐々に薄れてゆき、全身がぬるま湯のようなものに包まれ、しばらく経つとかなり暖かくなった。
非常にありがたいと理沙は思った。
全身が温まってくるとともに、思考も徐々に回り始めてきて、自分が何をしなくてはいけないのかについて考え始めた。
自分がどこかに行って誰かと話をしなくては行けないという、使命感のようなものがあったような気がした。
そのためにはまずは起き上がらなくてはいけない。
ベッドから起き上がり、身支度をして、すぐそばにあるハンガーに掛けられている軍の制服を着た。
寝室にある物の位置が微妙に違うような気がした。
ベッドの上の枕を取り上げると元の場所に再び置く。
寝室から出ると、台所でまずはいつものように紙パック入りの牛乳を探す。
冷蔵庫を開けてもなぜか見つからず、諦めていたところ居間のテーブルの上にそのまま置かれていた。
たぶん、昨日置いたことを忘れてそのままにしてしまったのだろうか。
居間のソファーに座り、カーテン越しに見える外の風景をしばらく眺めていた。
そこで、午前中に上司に話さなくてはいけないことを思い出し、話の内容を頭の中で整理した。


「今日は休日だよ」
目の前で上司に言われて、理沙は飲みかけの牛乳をテーブルの上に置いた。
「でも、あなたも今日は仕事なのかしら」
お互いにいつものように制服を着て、いつものように仕事をしようとしている。
「今日は月曜日だと思ったのに」
「いや、違う」
上司はすぐに否定した。
「カレンダーの方が間違っているんだ」
理沙は上司の部屋を出て、自分の事務室へと向かって廊下を歩き始めた。
廊下の人通りがいつもより少ないように思える。
やはり今日は日曜日なのではないかと再び思った。
自分の事務室へ入ると、あまりの雑然とした状況に少々困惑した。
机の上には書類の山、まるで嵐の後のように散らかっている室内。
先週金曜日にいったい何があったのだろうかと、思い出そうとしたのだが思い出せなかった。
まずは山になっている書類を、机の上から一気に駆逐した。
腕でぐいと押し、書類の山をなぎ倒すのは気持ちが良かった。
ちょうど降り積もった雪を腕で振り払うように、そして書類は雪のように粉々になり床の上でそのまま融けた。
雪が融けると、その下にはコンクリートの地面が見えていた。
雑然と散らかっている床の上の雪を、デッキブラシのようなものを見つけると丁寧に部屋の隅へと押しやった。
少々時間がかかったが、部屋はまるで何もなかったかのように綺麗に片付いた。
片付けが終わったちょうどその時、上司から連絡が入った。
「午前中の会議資料の用意はどうなりました?」
しかし、机の上には書類は1つもなく、どうしたらいいものかと内心焦った。
「会議は、10時からだったでしょうか?」
とってつけたような返事をするしかなかった。
しかし、上司からの反応はない。


上司と一緒に、外出することになった。
港湾施設の片隅、コンテナヤードのようなところに、貨物の受領に立ち合うようにとの上司命令である。
「そろそろだと思う」
上司が上空を見上げているので、理沙も同じように空を見上げた。
しばらくすると、強力な噴射の炎が見えた。
ヘビーリフターが3機、大きなプラント施設のようなものを抱えながら、自分たちのところに着陸しようとしていた。
噴射の炎が自分たちのところに迫っているのだが、なぜか上司はその炎を見つめているだけで、逃げようとしない。
「よし、こっちだ」
手を上げて、ヘビーリフターに向かって合図し、上司は目の前の広場にヘビーリフターを誘導しようとしていた。
噴射の炎はもうすぐ頭上に迫っていた。
体が熱くなり、やけどをするのではないかと思われたが、
「理沙、その場所では運転席から見えない、こっちだ」
そう言うと、上司は炎の中に入り、そのまま見えなくなってしまった。
これはまずい事になったと、理沙は反射的に動いて彼の後を追って炎の中に入っていった。
あたりが急激に明るくなり、全身が熱くなる。
しかし体の自由がきかず動けない。
誰か助けてくれ。このままでは自分も融けてなくなってしまいそうだ。

*     *     *     *

連絡船が地球に到着すると、理沙の体は搬送カプセルに入れたままで軍の医療センターへと運ばれた。
2か月間の搬送中、体温は平熱より20度以上低く保たれたままで代謝を低く抑える処置がとられていた。
生と死の境目のような状態で、とにかく眠ったままの状態にすることが大事だった。
意識はわずかながらあり、脳が死ぬことがなければ、何か月でも何年でも同じ状態で保存するということは、
技術的に可能であった。
人工冬眠と呼ぶにはまだ早いが、重篤な病気の患者を、手術が可能になるまでの間長期間冷凍保存するという事は、
限定的ではあるがすでにごく一部では行われていた。
軍の医療センターに到着すると、理沙の体はいったん機械部分と生体部分の切り離しが行われた。
生体部分は不活性液体の中に浸され、意識レベルに影響がない程度にさらに温度が下げられた。
機械部分については精密検査が行われ、不具合が発見された部分は交換され、
1週間のオーバーホール作業ののち、再び生体に結合された。
結合が完了すると集中監視のもと徐々に体温が上げられた。

*     *     *     *

再び穏やかな眠りについて、何度か夢の中のような、起きているような感覚の繰り返しが続いた。
今日こそ起きなくてはと理沙は思った。
確か今日で長い休みは終わりのはずだった。
自分を呼んでいる声が、遠くから聞こえてきた。
起きる時刻かどうか、まずは確認することにしよう。
腕を伸ばして時計を確認した。
いつも起きる時刻の30分前だった。あともう少し寝ていてもいいはずである。
しかし、自分を呼ぶ声はまだ続いていた。
今度はもっと違う人の声だった。
そうか、ディスプレイの電源を入れて、朝のニュースを見ているはずだった。
いつものアナウンサーの声だろう。
時計を再び確認すると、さきほどと同じく起きる時刻の30分前だった。
再び自分を呼ぶ声がした。
しかも今回は自分の耳元で非常にリアルな声で、はっきりと聞こえる。
目を開けると、白い天井、柔らかではあるが目に飛び込んでくるような明るさの光。
全身が、ベッドに沈み込んでいるような感覚。
体が鉛のように重く言う事をきかない。
「私の事が見えますか?」
マスクと防護服の、おそらく女性だろうか。
人の姿がはっきりと見えた。
見えます。と自分では言ったつもりだったのだが、もぞもぞと声にならないことを口走っていた。
「ああ、わかりました。無理はしなくていいです」
そのあとは特に何も尋ねられることもなく、彼女も含め何人かの人が顔を覗き込んできた。
彼らが医療スタッフであることを理沙が認識するまでに、少々時間がかかった。
その日は結局のところ体を動かすことはなく、目を開けたり閉じたり、やがて再び眠くなり眠りについた。


頭の中の整理がつき、状況を理解するまでには5日間ほどかかった。
寒い救命ボートの中で救助を待っている間に、徐々に意識不明になり、その後2か月間の地球への搬送、
10日間の蘇生手術、そして地球での目覚め。
救命ボートでの漂流に至るまでの事も、記憶を遡りながら徐々に思い出していった。
自分は結局のところ助かったのだが、他の人々はどうなってしまったのだろうか。
再びの目覚めから2週間後、自分の言いたいことは相変わらずうまくは言えなかったが、
まわりの事を認識できるようになり、上体を起こして軽い食事もできるようになった。
他人の手助けが必要ではあったが。
集中治療室から個室に移された翌日、30分ほどかけた食事の後でぼんやりと過ごしていると、
主治医に付き添われて、男女2人が部屋に入ってきた。
ジェシーと元上司の祖父であることはすぐにわかったが、理沙は2人の名を呼んでいるもののきちんと声を出すことができなかった。
「いいから、無理しないで」
ジェシーが手を握った。柔らかく非常に暖かかった。
祖父もまた、ジェシーの後ろに立って笑みを浮かべていた。
とはいえ、なんとなく表情がぎこちない。



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