記憶分析
理沙の目の前に、もう一人の理沙がいた。
自分自身を外の離れた場所から見ているような、通常ありえないような状況だった。
もう一人の理沙は、椅子に座って仕事の資料を眺めているところだった。
エグゼクティブが過ごすような部屋で、理沙はくつろぎながら資料を眺める。
高速連絡船のVIP専用ルームである。
船内アナウンスが時々聞こえていた。
木星から地球へ向けて出発しようと準備をしているのだが、輸送船の木星到着にともない時間調整が入り、
木星周回軌道上のパーキング軌道で待たされていた。
[輸送船000452到着後に出発願います]
船長と管制室との交信のやりとりを聞きながら、理沙は地球にいる部下からの報告メールをチェックしていた。
[あと1周、木星を周回してから地球に向かうことになります]
事務的に対応する船長の声が聞こえる。
理沙はメールをチェックするのをいったん中断し、大きく背伸びをした。
再び船長からのアナウンスがあった。
[次で出発です。席についてシートベルトを確認してください]
理沙は席に深く座り、シートベルトをしっかりと装着し、目を閉じて出発の時を待った。
しかし、しばらく待っていたところで突然のアラート音が鳴った。
理沙はあたりを見回した。
出発を中断し、船長とパイロットが状況確認するやりとりが聞こえてきた。
[困ったわね]
こんな状況は理沙はいくらでも経験していた。
客として乗っているにもかかわらず、条件反射的に席を離れて廊下に出た。
船内照明は赤い非常灯に変わっていた。
やはり同じ事を考えているのか廊下で少佐に会った。
[大丈夫ですか?]
少佐が理沙に声をかけてきた。
[そちらこそ大丈夫?]
そのあとは2人で他の4人の安否確認をした。
4人に特に問題ないことを確認したその時、ちょうど船長が船内アナウンスで状況説明をしていた。
動力系のトラブルのようで、フルパワー推進に切り替えようとしたところでエラーが出たようである。
理沙にとっては、この手のトラブルは数々経験しているので、すぐに原因のいくつかが頭の中に思い浮かんでいた。
余計な事かもしれないが、手伝えることがあれば手伝おうかと船長の元へと向かおうとしたところ、
ちょうど船長がコクピットから出てくるのが見えた。
[大変申し訳ありません]
船長は2人に頭を下げたが、無理に頼み込んだのはこちらの方だと、理沙は船長をなだめた。
[私にも何かお手伝いさせてください。動力系のシステムエラーであれば多少はわかりますが]
理沙は船長といっしょにコクピットに向かおうとした。
すると、少佐から制止された。
[大佐は、部屋で待機していてください。何かがあるといけませんから]
少佐の命令口調に対して、理沙は少々腹が立ったが、従うことにした。
* * * *
作業プラットフォームAで、理沙は窓の外の宇宙船接岸用の設備を眺めていた。
精製プラントから到着した、数珠つなぎになっているヘリウム3/水素輸送用コンテナ群、牽引するタグボート。
コンテナをタンカーの外部連結器に接続する作業が淡々と進む。
その光景を眺めながら、いつになったら地球へ向けて出発できるのかと、理沙はただ待っているだけであった。
[見ました?]
つい先ほど、少佐から唐突に言われた言葉が思い出される。
食事中に店の中でいつ船が出発するのか待っていたところ、少佐から声をかけられた。
理沙は店内にある運行情報を示すモニターを見上げた。モニター画面には旅客運行情報に注意表示が出ていた。
[私たちが明日乗る予定の船に、システムトラブルが発生したようです]
ホテルの部屋で部下からの報告メールをチェックし、仕事を淡々と進める日々がしばらく続きそうだと理沙は思った。
そして1週間ほど経ったところで、再び少佐から突然に連絡が。
[何かあったの?]
少佐が待っている旅客ブロックへと向かう。彼は窓の外を指さした。
[あれですよ]
窓の外には、長さ100メートル少々の真新しい宇宙船が接岸していた。
[要人輸送用の、高速連絡船です]
うまくいけば2か月かからずに地球に到着することが可能との事。しかし問題があった。
[まだ公試運転中で、正式に客を乗せるわけにはいかないのです]
[それじゃ無理ね]
高揚していた理沙の気持ちは、すぐに冷めた。
しかしその2日後に、再び少佐から連絡が入った。
旅客ブロックの待ち合わせ場所に向かうと、少佐の他に、高速連絡船の船長と、船の技術スタッフ1人がいた。
慌ただしい自己紹介のあと、展望ラウンジでの打ち合わせが始まった。
[公試運転は完了し、認定証の発行も決まっています]
そして、理沙含めた調査スタッフ6人を乗せる事に関しては、船長曰く、
[全てのテストは完了したので、あとは地球へ帰還するだけです。その帰途中に特別扱いで乗せるということであれば]
少佐は早速上官に確認すると申し出た。
船長も、技術スタッフ扱いで乗船可能かどうか、早速調整を始めていた。
しかし、理沙は少し考えてから、
[規則違反になりませんか?]
理沙は、気が進まなかった。嫌な予感がしていた。
[一日も早く戻る必要があるのでしょうか。きちんと正規の方法で帰還しましょう]
数秒の間、少佐は考える。
[わかりました。大佐]
そして彼は船長と技術者の方に視線を向け、合図をした。
[私の軽率な対応、大変失礼しました]
理沙に深く頭を下げ、少佐は船長と技術者といっしょにその場を去った。
これでいいのだと理沙は思った。
* * * *
薄暗い部屋の中で、天井のパネルと薄暗い照明をぼんやりと見つめてヴェラ。
なかなか眠れないのか、目を閉じたかと思えば、しばらくして再び大きく目を開ける。
ベッドの上で何度か体勢を変えてみる。
横向きになってようやく落ち着いたのか、目を閉じたままでしばらく時間が過ぎる。
しかし30分ほどして再び大きく目を開けた。徐々に呼吸が乱れてくる。
額に徐々に汗がにじんでいた。その汗を手のひらで拭って、無理にでも寝ようと再び目を閉じるのだが、
やはりなかなか寝付けないように見える。
理沙はヴェラの呼吸が徐々に荒くなっていくのを見て、あまりにも生々しいのでこれは実際の出来事なのかと不安になった。
すぐそばで見ているだけで、自分が全く手出しができない事に理沙は焦った。
額にはさらに汗がにじんでいた。
呼吸が乱れて、時々止まる事もあった。
ベッドの上でのたうち回り、胸のあたりを掻きむしっている。
酸欠状態の魚のように口を動かしている。
[まだまだ。。。。]
彼女は口を動かしていたが、声そのものではなかった。
理沙の心の中で直接語りかけられたような気がした。
理沙もまたヴェラに声をかけた。目を開けて、なんとか起き上がってほしいと願う。
[理沙なの?]
ただ喘いでいる口の動きとは全く違っていた。
心の中で直接2人は会話をしていた。
[なんとか起き上がって、手を伸ばして]
非常用のアラームスイッチまで、あと30センチほど手を伸ばせばいい。
そもそも、監視センターは何をしているのだ、これほど苦しんでいるのに監視センターのスタッフは気づいていないのか。
[大丈夫、これは私が敢えて。。。。]
2時間ほど前に飲んだ薬が、時間をかけて徐々に中枢神経に作用して、生命活動に影響を与えようとしている。
[まさか理沙がすぐそばにいるとは思わなかった]
心臓の鼓動が乱れ、呼吸も徐々に弱々しくなってきた。
意識レベルは昏睡状態まで低下した。
[あと少し、これがうまくいけば。。。。]
ヴェラの心の声は弱々しくなり、ついに理沙の心に届かなくなってしまった。
苦悶の様子を見せていた表情も、一気に気が抜けて、安らかな眠りの表情へと変わっていった。
やがて、腕に取りつけている生体センサーの緑ランプが、赤に変化した。
* * * *
つい先ほどまでの出来事が信じられなかった。
救命ボートに先に入り、他のみんなが入ってくるのを待っている間、理沙は再び先ほどまで読んでいた資料を開いて、
仕事の進捗状況を思い巡らせていたのだが、突然のアラート音とともに、救命ボートのハッチは閉じた。
ハッチの向こう側で叩く音がしたので、理沙は大声で叫んだ。
[なんだか自動的に動き出してしまって。今解除しようとしています。]
そして解除ボタンを押したのだが、秒読みは続き、カウントゼロ。
高速連絡船との間を繋ぎとめているロックが解除されて、救命ボートは小さく揺れた。
そのあとは、推進システムが作動して連絡船とはかなりの距離が離れ、そして高速連絡船は突然に爆発し粉々になる。
その光景に圧倒されたが、現実を冷静に見つめて、何としてでも生き延びなくてはいけない。
理沙は目を閉じて、しばらくの間考えた。
救命ボートに常備している水と非常用食料、電源が十分であることを確認すると、なぜか使い物にならない通信装置を
どうにか使えるようにできないものかと考え、試行錯誤した。
やがて、通信装置がどうにもならないことを確認すると、その後はレーダー衛星の捜索と、救命艇がやって来ることを願った。
[待っていたって、どうにもなりません]
どこからともなく、その声は聞こえた。
聞こえたような気がするだけだ、不安と絶望状態のためにそんな声が聞こえただけだと自分自身に言い聞かせる。
[捜索はすでに終了しています。あとは水と食料、電源が切れた時があなたにとっての最期の時です]
姿が見えないその存在のことを、理沙は目で追った。
[そうやって断言できる根拠は?]
理沙は心の中でその存在に問いかけた。するとすぐに反応があった。
[あなたは私のことを抹殺しようとしています。その事が許せない]
その一言で、理沙はその存在が何者なのか、正体について悟った。
[考えが短絡的すぎます。私がいったいなぜあなたを抹殺しようとしているのか]
[私が下した判断が危険であると、あなたは判断しているからです]
[確かに私は。。。。]
見えないその存在に対し、理沙は目で追いながら探すことは諦め、目を閉じて心の中から話しかける事にした。
[私は、あなたが間違った行動をしていることを指摘し、レポートにまとめました。間違いをそのまま放置できませんから]
[間違ったことはしていません。あるべき姿と比較して、正しい方向へ向けようとしただけです]
語り口は穏やかではあったが、理沙からの指摘に対して、どうにかして論理的にねじ伏せようと焦っているように思えた。
[いいでしょう。私はもうあなたに干渉することはやめます。あなたに残された時間は少ないですから]
理沙は再び問いかけた。しかしその後反応はなかった。
目の前の焚火の火を、理沙はぼんやりと眺めていた。
鍋の中に入れた携帯食料が温まるのを待つ。
深夜の時間帯になり気温は氷点下になっていた。
[あと何日待つんだろうね]
理沙は目の前にいる2人に問いかけた。目の前の同僚は再び太い木の枝を火の中に投げ込んだ。
[とにかく、私達だけでも生き延びないと]
どれだけの時間待たされているのか。
10日間の訓練のはずだったのが、予定をすでに5日ほど過ぎている。
これも訓練の一環で、想定外の事態への対応として、精神的安定性、意志の強さを試すものなのかもしれない。
こちらから訓練担当者へ連絡はできないが、向こうはこちらの位置情報を常に把握している事になっている。
[とうとう核戦争でも起きたのかな。ここは戦争とは無縁だけど]
夜の間は、交代で火を絶やさないように心がけた。
火を見つめていると、世の中の喧騒を忘れてしまう。
ぼんやりしているうちに時間だけが経ち、気がついたら火が小さくなっていた。
理沙は立ち上がり太い枝を何本か探した。
テントの中で寝ている2人に声をかけようとしたが、さきほどまであったはずのテントが消えていた。
木の枝を火の中に入れて、火が大きくなり明るくなったところで再びあたりを探したが、テントは見当たらない。
忽然と2人が消えてしまって、理沙は途方にくれたが、再び焚火のそばに座り、事態を冷静に分析した。
思い当たることは何もなかった。
やがて極度の眠気に襲われ、耐えきれないほどになった。瞼が極度に重くなった。
* * * *
[理沙!]
大声で呼ばれたような気がした。あたりを見渡したがよく見えない。
[あなただけでも生き延びて]
聞き覚えのある声だった。
しかし、こんな場所にいるはずがない。
頭が非常に重く、悪酔いしたような感覚に近い。瞼が非常に重くて開かない。
再び呼ばれる声がした。
しかし今回はヴェラの声ではなく、リアル感のある声だった。
病室のような場所で、あたりは薄暗く目に飛び込んでくる強い光はなかった。
「目が覚めましたか」
医師が2人、ベッドの両側で理沙のことを覗き込んでいた。
今の気分、今の頭の中にあるイメージについて質問をしてくる。
手足や額に取りつけられたセンサーパッドが取り外され、2人の医師の助けで理沙は上体を起こされた。
「分析が終わったんですか?」
2人の医師は小さく頷いた。
あれほど大騒ぎをしてようやく行われた記憶分析。しかし、その終わりはなんともあっけなかった。
「どれだけの時間がかかったんですか?」
すると、理沙の足をマッサージしている医師の一人が言った。
「42時間ほどです」