時代の終わり
「手が、止まってる」
二度呼ばれて、理沙ははっと我に返りツナサンドを作り始めた。
モーニングセットを待っている客は、いつもと違う理沙の動作に違和感を感じていた。
「何かあったの?」
「いえ、別に」
理沙はようやく出来上がったモーニングセットを手に取り、カウンター席の向こう側の客の元へ。
ディスプレイ画面のニュース映像は、先日亡くなった合衆国大統領の葬儀を中継していた。
なぜか避けるように画面の方は見ずに、再びカウンター席へ戻ると食材の下ごしらえを始めた。
「しかし、まさかお亡くなりになるとは思わなかったな。退院したから大丈夫かと思った」
客のその言葉に、理沙はまるで他人事のように言った。
「運が悪かったのね」
* * * *
その前日に理沙は、報道関係者よりも早く、大統領夫人からの直メッセージでその事を知らされた。
彼女からの悲しみを押し殺した声が、さらに理沙の気持ちを締め付けた。言葉が出なかった。
世界中での変異ウィルスによる感染症は毎日の定例のニュースになっており、大統領が感染しても特段驚くべき事ではなかった。
既に有効な治療薬が普及しており、適切な治療さえすれば間違いなく助かるというレベルに達していた。
ただし、全世界的には発展途上国での大量感染と日々うなぎのぼりの死者数が、先進国と発展途上国間の経済格差と併せて
国際紛争のたねになっていた。
そんな重大な局面での大統領の感染と入院は、世界危機とも言える状態の中で、
はやく回復して早々に通常業務に戻って欲しいとの願いの方が強かった。
やがて退院したとのニュースが流れ、理沙もほっとしていたその矢先の出来事である。
まさかそんな事はないだろうと夫人からの言葉をまず疑った。
「昨日までは、普通に食事をして、夜にはおやすみと言ったばかりなのに」
今朝になって冷たくなっていたところを夫人が発見し、救命措置を行ったが既に時遅し。
死因は、感染症が直接の原因ではなく、突然の心不全によるものだった。
なんの前触れもない寝ている間の突然死である。
店が休みの日なのでその日は何も手につかないまま一日を過ごし、翌日とりあえず店に出勤し普段と同じように仕事をしようと思ったものの、
なぜか大統領夫人の悲痛な言葉が脳裏に残ってしまって、なかなか手が動かない状態だった。
理沙は、できるだけニュース映像の方には目を向けずに、副大統領の演説を聞くだけにとどめた。
* * * *
「突然の訃報に接し、私たちは深い悲しみを感じています。
心張り裂けんばかりの状態で、私はこのニュースを皆様にお伝えしています。今朝早く、大統領は息を引き取りました。
最初の発見者である大統領夫人の言葉によれば、いつもとかわらない穏やかな表情で眠るように亡くなられたとのことです。
朝は誰よりも早く、大統領に声をかけて起床をうながし、モーニングコーヒーを渡すのがここ30年近い毎日の習慣でした。
特に最近は感染症の治療に専念していたこともあり、彼の体の事を夫人は特に気にかけておられました。
治療の効果もあり快方に向かい、来週からは公務に戻れるだろうとの医者からのコメントに、私も安心していた矢先でした」
「誰もがこの感染症の恐怖におびえ、いつ自分も病魔に襲われるのではないかという思いはありますが、
その点では誰もが確率論的には同じ立場です。しかし、治療の機会は平等ではなく、経済格差が大きな問題になっています。
大統領はいつもその事を気にかけておられました。有効な治療薬の発展途上国への大量供与は、先日議会承認されて、
まもなく実行に移されます。大統領は非常に喜んでおられました。
自国民だけではなく、全世界のために常に考え、行動し、議会を動かし、迅速に対応を行ってこられました。
その原点は、遡れば軍の士官時代の頃の経験だとおっしゃられていました。
[自分にしか出来ないことを、今このときに最善を尽くし実行せよ]これが彼の座右の銘でした。
その言葉の通りに、軍から宇宙開発の道に進み、宇宙船「エンデヴァー」での最初の木星・土星探査を指揮しました。
文字通り、自分にしか出来ないことを先頭に立って行い、部下を指揮してミッションを成功させました。
その後はいったんは宇宙開発から離れた場所での事業に専念しましたが、彼の目標とすべきところは変わりませんでした。
国を指揮する立場に就き、人類を未来へ向けて前進させること。
国家間の対立は今でも続いていますが、その根本原因であるエネルギーと資源の問題について、彼はさまざまな有識者と接触し、
意見を訊き、根本的な解決は、無限のエネルギーとフロンティアを求め、太陽系の開発を推し進めることであると結論しました。
長くて困難な時もあり、対立候補から苦渋を味わうことはあったものの、諦めなかった結果彼は大統領に就任しました」
「今や太陽系は22世紀へ向けての発展前夜の段階にあります。
木星の核融合燃料生産事業は、多くの困難はあったものの、事業化は完了し、本格生産が始まっています。
木星は太陽系の中核拠点、太陽系外への足がかりとなる重要拠点になりました。
大統領は、木星開発事業を裏から支える立場として、実は大統領就任以前から、精力的に参画しておられました。
開発事業体企業の株主のように、役員には口を挟むことはあっても、現場最前線で働く技術者をいつも心配しておられました。
いまやその彼はもうこの世にはおりません。
夫人からの、穏やかに眠るようなお顔だったとの言葉だけが私にとっての救いです。
彼の功績を静かに思い起こし、彼の意志を継いで合衆国および全世界の未来に向けて何ができるのか、
今は私達ひとりひとり静かに考えましょう。
空を見上げる時、そこにはいつでも彼がいます。ありがとうございました」
* * * *
大統領は常々、自分が亡くなったら宇宙葬にして欲しいと言っており、
その願いに従い、遺体の一部を凍結加工して、宇宙葬にすることになった。
死の翌月に遺体の一部がチタン製のカプセルに入れられて、深宇宙灯台衛星に積み込まれることになった。
灯台衛星の出発は、全世界に中継され、理沙も自宅のディスプレイ画面で見守った。
事業団の管制センターで出発を見守るセレモニーが行われ、理沙にも事前に招待状は届いていたが、返信することはなかった。
秒読みが行われ、灯台衛星を軌道まで輸送するスラスターの噴射が始まる。
その日は結局のところ、店で終日なにもせずに過ごした。
軍を退役して3年ほど経ったが、理沙は自分の時代の終わりを実感した。