道を譲るとき

事業団長官からメールを受け取り、しばらくの間はその内容を無視していようと思っていたものの、
やがて気が変わり、理沙は事業団本部に足を運ぼうと思った。
去ってから8年近い月日が流れていたが、それ以上に遠い昔の事のように思われた。
生死の淵をさまよい、軍法会議にかけられていた期間が非常に長く感じられ、
軍を退役してからの日々は自分のやりたいように過ごしていた。
もうこれで終わりだろう、世の中の出来事を傍観者として高いところから静かに眺めていようと思っていたのだが、
それは自分には許されない事なのだろうか。
そんな事を考えつつも、とりあえずは自分を求めている人たちの声に応えようと事業団本部のロビーに立った。
見上げると、未来へ向かって躍進する事業団の事業内容、現場で生き生きと働く技術者の映像、
木星の生産プラント群や作業プラットフォームのプロモーション映像が流れていた。
理沙にとっては首をかしげたくなる内容だったが。
受付嬢に、自分の名前と、長官に会う約束をしていることを告げる。
清楚で落ち着いた受付嬢は、名前を告げると表情がこわばった。
受付嬢は立ち上がった。
「お待ちしておりました。ご案内いたします」


*     *     *     *

長官のオフィスに入る。
長官はさきほどの受付嬢と同じような清楚な秘書と、デスクを挟んで会話をしているところだった。
部屋まで案内してくれた受付嬢は部屋を出てゆき、長官は立ち上がった。
秘書は理沙の方を見て丁寧に頭を下げた。
「どうぞこちらへ」
と長官はソファーに座るように理沙を案内する。
「長官、相変わらずお元気そうですね」
理沙はソファーに座り、長官と秘書を見上げ、交互に眺めた。
秘書は上品な笑みを浮かべていたが、理沙の事を見て明らかに何かを疑っているように見えた。
理沙の服装が気になるのか。
当初は普通にビジネススーツを着ようかと思っていたのだが、おそらくこんな事態もありうると勝負服風のドレスにした。
秘書が長官に視線を向けた時に、明らかに冷たい何かを感じた。
「では私はこれで、打ち合わせが終わりましたらお呼びください」
秘書は部屋を出ていった。
理沙は長官と2人だけになった。


*     *     *     *

お互いにソファーに座り、部屋の調度品の事についてのたあいのない話がしばらく続いたが、
「心配していました。返事をいただけないようであればどうしようかと思っていました」
理沙は、そうですね、と返事を待たせた事については申し訳ありませんと長官に言った。
「もう疲れたし、ゆっくりと余生を過ごしたいと思っていました」
事業団退職後の、8年間の事については長官も十分知っているはずだった。
「エンデヴァー」乗組員のOB会には特別会員として毎年参加し、
タイタン基地での事件のことや、軍法会議にかけられたこともOB会会長である元大統領から聞いているはずだった。
しかし、当時は誰も助ける事が出来ず、助けようようとしたならば世間のバッシングは避けられないであろうという世の中の空気もあり、
今では理沙について語る事は事業団の中ではタブーのようなものになっていた。
そして理沙も事業団を避けていた。
「あなたもついに長官に、お偉くなったのね」
理沙は長官を直視し、そして言った
「さて、誰のおかげかしらね」
部屋の空気が一気に冷え切って、長官の表情はますます苦しくなっていった。
「ごめんなさい。ちょっと苦言を言いたくなっただけ。それで、私はいったい何をしたらよろしいのでしょう?」
長官はたどたどしい口調で語り始めた。
「あなたを事業団にお招きしたい。そして、新型宇宙船の指揮官になって欲しい」


ロビーで見かけたプロモーション映像を再び思い出し、今長官から知らされた現在の事業団の現状を比べ、
理沙は非常な違和感を覚えた。
「あの映像を見て、本当のことを説明しているのか疑いたくなりました。何が未来へ躍進する開発事業団かと」
理沙の苦言は止まらない。
「官僚に翻弄されて、働く人の待遇も考えずに、ただ機械のように働かせて、これでは技術者はやる気を無くします。
木星の生産設備が完成して、フル生産体制が始まって、でもこのまま満足してはいけない。私は課題を部下に託しました」
理沙が話している間、長官はなかなか話すことができずにいた。
お説教口調の理沙の話だけがしばらく続く。
「私は軍に入ってから、システムが完成した先のことを考えていました。早くから次の世代を担う人材を選別して、
新型揚陸艦のデザインのプロジェクトを通して、次の世紀にリーダーになるような人物を育成してきました。
残念ながら軍を退役することにはなりましたが、リーダーは育ちました。事業団と協業すれば必ずうまくやれると彼らに言い残しました」
身を乗り出して話していたが、理沙はそこで再びソファーにゆったりともたれかかった。
「でも、その大事な芽を大切に育てる事もなく、事業団は自動化プラントの維持管理だけを淡々と進めてきましたね」
「それは認める。しかし」
「私は、言い訳は聞きたくありません。長官であるあなたの怠慢です」
理沙は、彼が動けない理由については知っていた。
大統領が交代し、太陽系開発に対する方針が大転換し、前任の長官は事実上更迭されて、
木星開発部門のトップである元リーダー男が長官に就任したものの、彼は大統領から常に脅しをかけられていた。
「ごめんなさい、あなたにはついきつい事を言ってしまうのね」
「いや、その通り。どうしてこうなってしまったか。とにかくコントロールが出来ていない」
皮肉な事に、人間のコントロールが出来ていない状態でも、現場では粛々と業務が動いていた。
「それでも、現場は回っているから、皆そのままでいいんじゃないかと思ってしまう。なぜここで投資の必要があるのだ、
多額の投資をして、今は回収だけを進めればいいのではないかと。あなたも含め、昔の優秀な人が今も残っていたらと思う」
木星の開発が佳境だったころ、自分も含めて最前線で現場を指揮していた技術者はもういない。
[ミスター核融合]も、つい昨年に亡くなったとの知らせを理沙は聞いていた。
「皮肉なものね、その弱点を軍に突かれて、あなたは今困っている」


長官に対する一方的な苦言と、ひたすら防戦するだけの長官との会話は終わり、
そのあとは長官と2人で食事をして、長い時間仕事とは関係のない他愛のない話が続いた。
翌日も事業団本部に行くと、担当者から現在の事業についての説明を受けた。
理沙は初めて聞くことのようにあれこれと担当者に質問したが、
実は軍退役後も、事業団OBとはコンタクトをとっており、内容については既に知っている事ばかりだった。新型宇宙船の事を除いて。
新型宇宙船については、かなりの情報統制が行われていて、
分かっているのは、大きさと太陽/地球L3の自動化工場で建造されているということだけ。
軍主導で進められているプロジェクトについては、目的含め全貌はまだわかっていない。
軍の元上司が理沙の店にやって来たとき、かなり巨大な動きが国の一部の人だけの管理の元進められているとの話があったが、
事業団長官のもとにも、ごく限られた情報しかなかった。
「この、実施責任者と呼ばれている方についてなんですが」
理沙は担当者に質問した。
「プロフィール情報を閲覧できないのには、何か理由があるのかしら?」
「それはわかりません」
資料に記載されいることをただ淡々と説明する担当者。
ここでも事業団の軍に対する現在の窮状を見る事ができた。
「とにかく、このプロジェクトが軍主導で進められている以上、どうにかしてコントロールを取り戻したいと思っています」
同席している長官に、理沙は単刀直入に尋ねる。
「それで、私を?」
「そうだ。軍に顔が広くて上層部にも意見が言える」
理沙は苦笑するしかなかった。
確かに軍のメンバー、特に上層部の人間については理沙に対しての負い目があるはずだった。
冤罪で軍法会議にかけられて、士官学校の卒業式で皮肉交じりの訓示をして、
気持ちよく退役をした軍からは、何かを言われる筋合いはない。
「わかりました」
理沙は小さく頷いた。
「ちょっと考えさせてください」


*     *     *     *

帰宅した翌日に、長官から新型宇宙船に関するプロジェクト資料が大量に届いた。
宇宙船の基本的なスペック、設計資料を見て、理沙は退役直前に担当者から説明を受けた、
新型揚陸艦の発展型プランのさらに発展型であることを知った。
大きさは新型揚陸艦の2倍以上もある。
詳細設計まで目を通すと、何日もかかりそうな量があったが、要点だけ目で追っていくと単に大量の人員輸送だけではなく、
もっと大きな目的のために作られているのだろうということが推測できた。
週に4日の店での仕事。
昼から夜遅くまで店で働いて、週の残りの3日間のほとんどを割いて渡された資料を読む。
全容を読み取るのに2週間ほどかかった。
読み終えたところで理沙は再び長官に連絡して、会う約束をした。
「長官、考えた末での私の結論ですが」
目の前の長官が、息を飲んで理沙の答えを求めているのが雰囲気で分かった。
「お断りします。私が事業団の先頭に立ってできるような事ではありません。軍と対等の立場に立つのは無理だと思います」
しかし、理沙の結論はそれだけが理由ではなかった。



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