居住区の開所式
行政官の合図で、スイッチを押す理沙。
暗い天井が、徐々に夜明けのようにぼんやりと赤くなってゆき、朝焼けの空になった。
居住区の中心通りに集合した、50人程の人々は、空の変化をただ眺めているだけだった。
空は遠方に向かって湾曲していて、なだらかな坂のようになって上空に向かい、消えてゆく。
どこまでも高く見える青空が、ガラス天井越しに見えるような不思議な風景。
天井モニターが映し出した青空は、高さ40メートルしかない居住区の天井とは思えないほど、すっきりと晴れ渡っていた。
見上げていた全員が、やがてばらばらな拍手を始めた。
「今日、狭いながらも素晴らしい居住区が完成しました」
行政官のその言葉を笑う者はいなかったが、皆の表情は晴れ晴れとしていた。
やがて皆は中心通りを歩き始めた。
幅100メートルほど、1周約1キロメートルの居住区は、当初は骨組みむき出しの空間だったが、
1年ほどの整備期間でようやく人が生活しやすい空間となった。
理沙と直子が今歩いている中央通りは、プレハブ造りの商店街が立ち並んでいる。
入居しているテナントはまだまばらではあるが、それでも人が生活を始めると風景は激変するものである。
ここ数か月の行政官の更迭に関する後処理、管理の引継ぎにともなう後進の育成等で、2人とも多忙な日々が続き、
居住区を一緒に散歩する機会が減ってしまい、そのせいか、久しぶりで訪れた居住区の風景に、
2人は無言のままだったが、表情は明るかった。
「いいわね」
商店街を抜けると、並木のある住宅街になっていた。理沙は立ち止まった。
「やっぱりいいわね」
直子もまた立ち止まった。道路の真ん中で先を歩く行政官や管理職の人々の背中を眺める。
管理職全てを巻き込んで、喧々諤々の口論になっていた、つい先週の事がうそのように思えてしまう。
理沙は直子の方を見た。
行政官の交代に関連して、事業団と軍の間での権力争いが再燃し、直子とも口論したばかりなのに、
今日の彼女の表情は穏やかだった。どこまでも続くように思える青空を見上げ、直子は目を閉じた。
「深呼吸すると、気分が爽快になるよね」
理沙もまた、目を閉じて深呼吸をした。
気のせいか、または粋なBGMとしてなのか、鳥のさえずり声が遠くの方で聞こえたような気がした。
* * * *
恒星間への旅のプランはいまだに白紙ではあるが、船のインフラ設備は着々と準備が進められていた。
居住区とともに、旅客用ターミナルの整備が進み、完成したのは先月の事。
この船は、作業プラットフォームと同様に、港湾設備を備え、全体が1つの巨大な基地としての機能も備えているのだが、
恒星間の旅においては、目的の星に到着後、船体内に収納した輸送船の発着ターミナルとなり、
恒星を周回する居住可能な惑星への移住に役立つはずだった。
居住区は、移住する星に到着するまでの間の生活空間となり、予定収納人数は最大で5000人。
無理をすれば1万人までの居住が可能である。
何世紀もかかるであろう、恒星への旅の間にここではいったいどのような営みがあるのだろうか。
まだ入居が始まっていない住宅地を2人は歩き、時々立ち止まっては、家を眺める。
「あたしが住んでいた家もこんな感じだったかな」
ちょうど理沙の目に留まったその家は、広い芝生の庭に、平屋建ての白壁の家であった。
「テキサスに住んでいた家ね」
以前、住んでいた家の事、家事手伝いとして生活を共にしていたジェシーの事を、何度か直子には話した事があった。
庭に入り、窓ガラス越しに部屋の中を眺める。
残念ながら、部屋の間取りは理沙が住んでいたテキサスの家とは全く異なっていたが、
久しぶりに懐かしいものを見たように思えた。理沙はこの居住区の事をますます好きになった。
「直子は、どんなところに住んでいたの?」
直子もまた、窓から部屋の中を覗き込んでいた。
「軍から与えられた住宅。基地の中にあるアパートだから殺風景な感じだったな。でも、1年のうちほとんど出張ばかりで、
あまり家で過ごすことはなかったね。しかも1年のうち半分は宇宙生活」
部屋の中を見ている彼女の昔話を聞きながら、互いに切り離され、断絶した50年近い日々のことを理沙は改めて振り返った。
直子と再会して1年少々になるが、結局のところ仕事とお互いの職業上の立場ゆえの権力争いに追われて、
互いに身の上話をすることもできなかった。
時々、表面を撫でるように、当たり障りのない程度に、50年の断絶された日々について理沙から話すくらいである。
なので唐突に、直子から話を切り出してくると理沙は想像していなかった。
「こんなところでゆっくりと生活したいよね。2人一緒に」
遠くで呼ぶ声がした。
振り返ると、行政官が道路を挟んだ反対側の広場で手を振っていた。
直子はまだ部屋の中を覗き込んでいたが、理沙に手を引かれて一緒に広場へと歩き始めた。
「一緒に住むのも、いいかもね」
* * * *
広場でバーベキューパーティーが始まった。
船内で火を使った屋外でのパーティーなどまずあり得ない事である。防火対策は万全で、その事を証明するためのパーティーだと、
行政官は冗談半分で言っていた。実際、火災発生の際には天井から消火剤シャワーが雨のように降る様になっている。
「ここは、スペースコロニーの実験施設でもあるわけですから」
直子が居住区の生活インフラ設備について、バーベキューグリルを囲んでいる管理職に説明している間、
理沙は少し離れた場所で、直子と一緒に先ほどまで覗いていた家の事を考えていた。
別に、スタッフだからといって居住区に住めないという規則はない。
半ば本気で、理沙は彼女と一緒にあの家で生活することが可能だろうかと考えていた。
そんな物思いにふけっているところに、行政官が割り込んできた。
「また、肉が焼けましたよ」
そして彼は、理沙の空になったトレイに厚切り肉を2つほど置いた。
「ありがとう」
まだ管理職に説明している直子たちから離れて、2人はベンチに座った。
「今回が私の最後の仕事ですね」
彼は深くため息をついた。ここ数か月は自身の責任問題で翻弄され、顔のしわがかなり増えてげっそりしたように見える。
「よかった、こんなに素敵な場所になって」
「いえ、まだまだ」
理沙は、すぐそばに置いてあるクーラーから缶ビールを1つ取ると行政官に手渡した。
「あなたには、まだまだやって欲しい事がありますから」
管理職達へのへの説明を終えた直子が、2人のもとにやってきた。
「ようやく説明終わったのね」
理沙は彼女にも缶ビールを手に取り、渡そうとしたが、やめた。
「ごめんなさい。あなた飲めなかったよね」
小さく頷き、直子は行政官に頭を下げた。
「もうちょっと歩いてみない?」
理沙は立ち上がり、直子の後を追った。
* * * *
住宅地を抜けると、行政区画の建物が見えてきた。
この居住区は人が住むための場所であるとともに、小さな世界のモデルケースのような場所でもあった。
ここで生活する数千人の人々が、自立した生活をして、自治を行い、独立した世界を作る。
閉鎖世界での生活の維持は、月や火星でその礎が築かれて、タイタン基地においてはさらに太陽のエネルギーに頼らない
独立した世界の維持をテーマとした実験が行われ、この小さな居住区画ではさらに違うテーマの実験が行われる事になっている。
白い小さな自治会館のロビーに入り、ガラス張りのロビーから通りの風景を眺める。
2人は、ロビーに置かれた休憩用ソファーに座った。
「なんか、この場所に見覚えない?」
しかし、唐突に直子にそう言われても、理沙には思いあたる事はなかった。
「何か?」
直子はしばらくの間反応しなかった。
「あと少しすると、わかるかも」
何も思いつかないまま、2人はしばらくの間身の回りのどうでもいい話題をしながら時間を過ごした。
まもなくやってくる、次の行政官についての話題。理沙も直子もお互いの立ち位置にどのように影響するのか、
気になることは様々あり、互いに牽制し合いながらも共通の心配事になっていた。
地球政府から見て、木星に住む1万人少々の人々は単なる労働者というよりも、別な世界の別な価値観を持った人類として、
違った目で見られるようになってきているのではないか。
しかし、その事に気づいているのはごく少数。大部分は日々の生活に忙殺されている。
「もうそろそろかな」
理沙が物思いにふけっているところで、直子は外の風景を何か気にしているようだった。
やがて太陽の光が徐々に傾いてゆき、明るさが徐々に落ち始めてくる。
夕方になったのか。
空の色が、夕暮れ時のオレンジ色に徐々に変化してゆき、自治会館のロビーも徐々にオレンジ色に染まってきた。
目の前のガラス張りの向こうには、テラスがあり、その先には芝生が。
あっ。。。。考え事をしていた理沙はようやく気づき、小さく声を上げた。
その表情の変化を見て、直子もまた笑みを浮かべていた。
「わかった?」
理沙は頷いた。
「あのテラス席?」
ただし、目の前には海はない。それでも夕日の綺麗なテラス席は理沙と直子にとっては思い出の場所だった。
「もう50年も経つわけだね」
今あの場所はまだ残っているのだろうか。
横浜の、東京湾がよく見えるあのテラス席と同じような風景が、この小さな居住区に再現されていたとは。
偶然にすぎないかもしれないが、2人の心の中にはあの時の風景がまだしっかりと残り、思い出として共有されていた。