雲海を眺めながら
中央制御室での当直時間が終わり、自分の部屋に戻っても良かったのだが、
理沙はまだ読んでいる途中の資料を持って、会議室に入った。
壁面ディスプレイに中央制御室の画面を表示させた。
非番の時間であっても、いつ何時緊急事態に対応できるようにとの心構えからだった。
自分の部屋でも対応は可能なのだが、会議室のテーブルの方が落ちついて資料を読むことができる。
中央制御室のディスプレイには、現在実施中の大気突入探査船のテスト映像が映し出されていた。
理沙が当直の時間帯には、探査船が木星の大気に突入する段階で、システムが正常に作動するかどうかと気にしながら画像を見ていたが、
機器は正常に動作し、核融合ラムジェットも問題なく稼働しているのを確認すると、ようやくほっとひと息つくことができた。
映像では木星赤道付近の雲海が広がっており、探査船は乱気流に巻き込まれることもなく、安定して飛行を続けていた。
「ここにいたのね」
ノックをせずに直子が会議室に入ってきた。
彼女も非番の時間だった。
「よくここにいるとわかったわね」
理沙は彼女に目を向けたが、すぐに資料に視線を戻した。
* * * *
管制室では、定期的に機器の状態を確認するチェックリストが読み上げられたリ、探査船のオペレータとの交信が定期的に行われていた。
特に問題はなく、非常に退屈なやりとりが続く。
膨大なモニターデーターはシステムが自動的に処理してくれるので、管制官も今この時間帯は特にやることはない。
理沙はただ黙々と資料を読み続ける。
直子もディスプレイ画面を見ながら特に何も言わなかったが、直子は画面を操作し音声チャンネルに切り替えた。
異様に響く雷鳴の音と、大気中を飛行する風切音が異様だった。
音声調整を間違えて雷鳴が会議室に響く。
「ごめんなさい」
理沙は目を上げて怪訝そうな表情を見せたが、大きく背伸びをして画面に目を向けた。
「もう夕方なんだね。それにしてもすごい雷」
雲海のはるか向こうに太陽が沈もうとしていた。
あたりは暗くなり、雲の中で大きな稲妻が空を明るく照らす。
資料を脇に置いて、理沙は音声チャンネル操作してBGMを切り替えた。
ゆったりした音楽が流れる。
「これなんかいいんじゃない」
木星の雲海の上空を安定飛行する探査船。
地球とは比較にならない規模の入道雲と、強烈な雷鳴。
人間などすぐにひねり潰されそうな過酷な世界ではあるものの、その音楽は木星の雄大な雲海にぴったりだった。
雲海をただよう巨大なクラゲ状の生物や、気球のような生物。
グライダーのような生物が自由に飛び回る世界。
本当に木星に生物が存在するかどうかは、これからの調査で判明することだが、作曲者の自由な想像力には感服させられた。
「姉さん、そういえば」
椅子に深く座り、目を閉じて音楽に聞き入っている理沙に直子は言った。
「3年契約が終わったら、どうするつもり?」
理沙は起き上がり、宙を見つめながら少しの間考えていたが、
「地球に戻って、今までの生活に戻りたいね」
そして再び椅子に深く座った。
「何か心配事でも?」
直子はディスプレイ画面の方を見て、探査船の様子を気にしているようにも見えたが、
「この時期に、果たしてそれが許されるかしら。先行きいろいろとあるわけだし」
「それはわかっている。でも」
事業団長官と最初に会話した日の事を、理沙はいつも気にしていた。
自分がリードして立ち上げ、本格生産まで見守った木星の核融合燃料生産事業だったが、優秀な技術者は徐々に引退し、
着実に技術力を向上させている軍側に主権を握られそうになり、てこ入れのために理沙に白羽の矢が当てられた。
軍主導の次世代巨大宇宙船のプロジェクトは、とりあえず理沙が事業団の前面に立ち影響力を示してはいるが、
もし、理沙が去った日には、果たして誰が中心人物となり得るのか。
「軍人のあなたが心配することかしら?」
まさにその通り、別に心配することではないのだ。
直子は軍の先頭に立ち、次世代巨大宇宙船のプロジェクトを粛々と進め、主導権を握ればよいのだ。
この巨大宇宙船には、危機にさらされている人類の生存の切り札になる可能性がある。
今はまだ極秘に進めなくてはならないが、もしその時がやってきたら、
直子は人類の生き残りのために軍の代表として行動するという重大な任務がある。
事業団側代表の理沙を、直子は常にライバル視していた。
しかし、半年前の再会の日以来、その気持ちは徐々に変わり始めていた。
「前に話したと思うけど、やりたいことがあって。だから戻るの」
事業団長官に対しての約束もあったが、また別な約束もあった。
3年間の期限はそのための心の中での歯止めだった。
「そのために後進を育成して、育成が完了したらそのあとは遠くから見守る。それでいいと思う」
中央制御室での毎日の当直で、部下たちが徐々に後進育成を進めるのを見守る。
慣れない業務に戸惑う場面や、アクシデントも多々あったが、着実に後進は育っていた。
それでいいではないか。
「あなたが気にしている本心が知りたいわね」
理沙からの問いかけに、直子はなかなか言いたいことが言い出せなかった。
* * * *
ディスプレイ画面の映像は、漆黒の闇の状態だった。
しかし、時々光る雷が、あたりの雲海を照らしていた。
ゆったり流れるような音楽が耳に心地よい。
理沙は、直子と再会した、宇宙船の到着ロビーでの心境を、まだ忘れてはいなかった。
時が止まったような感覚。直子以外の人物が全く視界に入ってこない。
40年近い時の断絶を無視して突然に自分の前に登場し、軍人として淡々と訓示を述べる彼女。
しかし、移動用シャフトの中で会話した時、彼女は昔のままの直子だった。
「まぁ、これ以上問い詰めても仕方ないか」
理沙の方から話を打ち切られて、直子はほっとするとともに重苦しい気持ちが残った。
「あたしはもう引退したい。それだけだよ」