国破れて山河あり

かなり離れた太平洋上から眺めても、東京の空にはどんよりとした雲が覆いかぶさっているのがはっきりと見えた。
機体が降下してゆき、その雲の中に入ると気流の乱れで機体が上下に何度も激しく揺れた。
揺れがようやくおさまると、雲の下の風景が見えてきた。
厚い雲に太陽光が遮られて、正午近いのに夕方のような暗さだった。
着陸寸前に、北の空遠くの方で稲光が見えた。
強烈な閃光と土砂降りの雨の中で空港に到着した。
とはいえこれは、木星の空の積乱雲よりはまだまだちっぽけなものだと理沙は思った。
手続きと手荷物受け取りをさっさと済ませ、地下の駅から東京へと向かう電車に乗った。


どんよりとした空模様のせいか、車窓から見える郊外の風景は色を失っているように見えた。
まだ正午を少々まわった時刻だというのに辺りはさらに暗くなり、走る車はみなライトを点灯していた。
30分ほどの移動時間の間、車窓の風景の変化を眺める。
やけに廃棄物処理施設が増えたな、と理沙は思った。
瓦礫が高架橋のそばまで山になっていて、重機が瓦礫を砕き、ブルドーザーが整地している。
都市の新陳代謝といったところか。
しかし、何か様子が違うということに理沙が気づいたのは、列車が緊急アラートで突然に停車した時だった。
住宅地と商店街が混在した場所の真ん中に、瓦礫が山になった広場が見えた。
しかもまだ新しく、火がくすぶっているのが見えた。
警察車両と、軍隊の車両も何台か停車している。ちょっとした人だかりも見えた。
5分ほど停車している間に、理沙はふと気になって今日のニュースをチェックした。
ちょうど今見ているのと同じ光景を、ニュース映像の中に見つけた。
今日の早朝に、今見えている商店街の中で暴動が発生し、死傷者が何人か出ていたようである。
軍が出動し、暴徒たちはすでに制圧されていたが、沈静化して数時間でダイヤを再開させている事に、
理沙は8年前の世の中と全く異なる世の中になっている事を知った。
軍が出動するような暴動が、今では日常の生活の一部になってしまっていた。


東京駅の商店街内のレストランで食事をしながら、このあとは店に向かおうかと考えたが、
天候が回復して空が明るくなってきたので、理沙は少し東京の市街地を散策しようと、電車に乗り下町の駅で降りた。
ここでも暴動の爪痕があり、路上に瓦礫が散乱していたり、ところどころに簡易検問所があり、
警察官から身分証の提示を求められたりした。
とはいえ理沙にとって、そのようなものは日頃慣れ親しんだ儀式程度でしかないが。
どちらかといえば、ショックを受けたのは下町の風景の劇的な変化だった。
確かあの辺りだっただろうか、千葉に店の場所探しをしていた頃に、一時的に生活していた下町の長屋。
生活感が昔のままの下町人情の街に住み、その時は心が休まるのを感じたのだが、
最寄り駅を降りてからしばらく歩いてみたものの、道の両側には工事用のフェンスばかり。
建物の痕跡すら分からないので、理沙は携帯端末で昔の風景を呼び出し、今の風景と重ねてみた。
画面の中に見える、商店街のちょうど裏手あたりに、8年前に住んでいたアパートがあるはずだった。
しかし、小さな路地を左に入ったところ、行けども行けどもフェンスばかり。
ちょうどフェンスの一部が壊れている部分があった。
フェンスの切れ目から覗いてみると、中には戦争の跡のような光景が広がっていた。
取り壊されて更地になっている部分と、残っているが廃墟となっている建物がある。
予想はしていたのだが、理沙が昔住んでいた長屋はその痕跡すらなくなっていた。

*     *     *     *

その後、再び電車で新宿方面へと向かう。
眼下には、空港から都心に向かった時に見たのと同じく、戦争の爪痕のような光景がところどころ広がっていた。
それでも秩序を保っているように見えるのは、掘っ立て小屋のようなキャンプが見当たらない事。
いや、たぶん被災者は郊外に強制移住させられて、不自由な生活をしているのかもしれない。
交通インフラが正常に機能しているのが、とりあえず不幸中の幸いといったところか。
新宿の駅から、高層ビル街に向かって歩き始める。
ビルそのものには被害はなく、道路も公共設備も正常のようである。
公共ホールの前の広場には、被災者なのか元からの生活困窮者なのか判別はつかないが、
炊き出しの前に大量の人々が列をなしていた。


夕方近く、天気も回復して夕焼けが見えたが、
西の空に見える、どす黒い雲と夕焼けの非常に異様なコントラスに、不気味な感じがした。
新宿北口の繁華街は、過去に横浜で見た、1ブロック全体が外貨目当ての売春街よりもさらに無法地帯になっていた。
まだ横浜の売春街の方が整然としているように思えるほどだ。
身の危険を感じながらも、その無法地帯を歩く。
ゴミが路面のあちこちに散乱して悪臭を放っている。
客引きが路上で貪欲に獲物を狙っている。
店の女までが路上に遠征し、下着姿で客の視線を奪いつつ強引に客引きをする。
よく見ると、その客引きと店の女のことを、遠巻きながら武装警察が監視をしていた。
何か事が起きたならば、すぐにでも実力行使するつもりなのだろう。
路上をよく見ると、ところどころに血糊がべったりとはりついていた。
生々しい戦場の風景である。


その日は日付が変わる時刻まで新宿の街を歩き、駅前の安全地帯の屋台で遅い夕食をとった後は、
西洋の古城のような雰囲気のラブホテルで一泊した。
愛の営みの場所ではあるものの、しっかりした食事は提供されるし、セキュリティーも万全である。
また、神経質なほどに各部屋のプライバシーについて配慮がされているので、
繁華街のホテルよりは快適かつ安全だった。
ほぼ半日歩き回ったせいか、理沙は横になるとすぐに寝落ちしてしまった。

*     *     *     *

翌朝、理沙はビジネス街に向かう人々の流れとは逆方向に向かい、
午前中は新宿からさらに郊外へと、自由な空気に包まれた文化の発信の地を歩き回った。
ここでは都心部分での喧騒や、暴動とは無縁である。
静かな空気が街全体に漂っていた。
老人の姿ばかりが目にとまり、若者の姿が見当たらないというのは、どこでも共通に言える事なのだろうか。
理沙は喫茶店に入り、自分と同じ年の店員に、街の風景の移り変わりについて尋ねた。
かつて文化の発信役であった若者たちは、そのままこの地域とともに成長し、老人となってしまった。
土地と同様に、彼ら住民もまたタイムカプセルのように温存され続けた、と言った方が正しいかもしれない。
コーヒーを何杯も飲みながら店員と語り合っているうちに、午前中はあっというまに終わってしまった。

*     *     *     *

店にたどり着いたのは、夕方近くになった頃だった。
昨日の荒れ模様の天気とはうって変わって、終日晴天しかも湿度が低いので快適な一日となった。
れいなと美紀には、あらかじめ今日の午後には店に行くとは伝えてあったが、
午後に木更津の商店街を歩き回っているうちに、あっというまに夕方になってしまった。
商店街は荒れ果てた廃墟の並びと化していた。
営業している店を探すだけでも至難の業。
営業している店であっても、客の姿はなく、
単に自己満足のためだけに営業しているようなものである。
店員は店の奥で昼寝をしていた。
観光エリアである[Star-City]だけは別格で、8年前に理沙が店を開店した時よりも店舗数はさらに増えていて、
夕刻に遠くから眺める[Star-City]は、光り輝き浮かび上がっている不夜城のように見えた。


店の前に立つと、ドアには「準備中」のプレートが掛かっていた。
しかし店内は灯りがついており、理沙はためらうことなくドアを開けて中に入った。
「なんだ、もう準備出来ているのね」
バッグをどっさりと床に置き、その音でカウンター席で準備しているれいなと美紀がびっくりして顔を上げた。
2人とも予想はしていたのかもしれないが、突然の出来事に手が止まってしまった。
「あ、荷物は私が」
ようやく2人はカウンター席から出てくると、理沙に抱きついた。
木星での後進育成に時間がかかった事、また、新型感染症の事もあり3年間のブランクが非常に長く感じられた。
「ちゃんと店を守ってくれて、ありがとう」
理沙もまた、2人をしっかりと抱きしめた。
6月から9月までの夏の期間は、客に夜の時間を楽しんでもらうために営業開始を夜の20時に変更していた。
開店までの2時間ほどの間、理沙は店の準備を手伝い、
れいなと美紀は、馴染みの客に対して、理沙が今しがた店に戻ったとメールを打ちはじめた。
やがて開店時刻になり、客がぞろぞろと店に入ってきた。


今日は理沙は客扱いだった。
一番中央のテーブルに座り、馴染みの客が代わる代わる理沙の周りを取り囲み、
とりとめもない楽しい話が盛り上がった。
一部、新型感染症の犠牲になった客もいた。在りし日の写真のみでの参加となり、一時場内はしんみりとしたが、
弔い酒だとばかりに、全員で乾杯をした。何度も何度も。
「長寿と繁栄を」
乾杯に紛れてそんな声も聞こえた。理沙は言い出した客をたしなめる。
「それはやめようよ」
長く続いた感染症の被害、並行して世間を覆い尽くした不景気。暴動。
様々な悪い要因が皆の生活を翻弄し、破壊し、そして今はようやく復興に向けて歩み始めている。
「皆さん、今日はどうもありがとう」
馴染みの客ひとりひとりの表情を見ながら、理沙は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「こうして会う事ができて、本当に嬉しいです」
振り返れば、自分のやりたいことも分からず、迷いの中で米国本土に向かったのは50年前。
そして今、理沙は馴染みの客に取り囲まれて、一緒に楽しいひとときを過ごしている。
自分のやりたいことが何なのか、理沙は今ようやく分かったような気がした。



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