中核部品
[今日は新たなスタートの日です]
新たに行政官に就任した理沙の訓示を、実施主任は感慨深く聞いていた。
もしかしたら、自分が行政官の立場であの訓示を述べていたのかもしれない。
3年前の作業プラットフォームでの事故がなければ、その後自分はこの木星を管轄する責任者として、
そして現場の人々の思いを受け止めて、地球政府と対峙する立場にいたのかもしれない。
しかし、既に起きてしまった現実はもう変えることはできない。
[これからも、私たちは地球の皆様の生活を支えるインフラ設備を維持し、重要なエネルギー供給拠点であり続けます]
そして理沙は、有名なある言葉を引用し、訓示を終えた。
[木星の人々は、これからも地球の人々と共存し続けるでしょう。では、長寿と繁栄を]
実施主任は、中断していた作業を再開した。
理沙の訓示の裏で、実施主任はある目的のために動いていた。
もちろん、理沙からの公認のもとに行っているものである。
今回の行政官の交代と、現場での自主的な選挙による行政官の選出は、地球国家との間に軋轢を生むことになった。
そして、事業団からの命令に従わずに現場人員の整理に反発し、
さらには木星側が独自にプロジェクトを立ち上げて、深宇宙さらには太陽系外開発に足を踏み出したことで、
地球政府の理沙に対するイメージは最悪なものとなった。
その理沙が、今回の選挙で木星の行政官に就任した事は、地球から見れば反逆以外の何者でもない。
レーザー発振基地の建設計画は、地球政府との関係がいずれ険悪になることを見越して計画されたものである。
計画の初期段階から、実施主任はレーザー発振基地を兵器化するために水面下で動いていた。
元々、探査機のレーザー推進用として計画されているものだが、レーザー発振に必要なエネルギー量は、
作業プラットフォームが使用している核融合炉レベルでは足りず、
木星磁場に捉えられているプラズマの巨大なエネルギーを利用できないものかと、検討が進められていた。
理沙が事業団に持ち込んだプランでは、木星プラズマのエネルギー利用について触れられてはいたが、
具体的な方法については要検討事項とされており、具体化に欠けていると事業団側から一笑に付されて終わった。
しかし、ここから理沙の根回しが始まった。
いったんは諦めたように見せかけて、有識者にコンタクトして実現に向けて前に進む。
早速理沙は、旧知の仲である[ミスター核融合]にコンタクトをとった。
すでにSTUを退職して、なんとか苦労して中国大陸から呼び寄せた家族と一緒に、温暖なフロリダで悠々自適の生活をしているのだが、
理沙からの顔つなぎにより、実施主任は考えているプランについて目的と概要を彼に伝えた。
[ミスター核融合]は、少しの間考えてから言った。
「確かに、前例はないし非常にハードルが高いですね」
しかも、いくら理沙と旧知の仲とはいえ、国家レベルではこれから敵対関係になるかもしれない人々に、
自分は協力してもいいのだろうか。
そんなジレンマも感じているのだろう。
「ちょっと考えてみます」
彼のその短い返事に対して、よろしくお願いしますと実施主任は頭を下げることしかできなかった。
正式に回答を貰えるかどうかすら非常に怪しい。
早速返事の内容を理沙に伝えると、理沙は喜んでいた。
「その返事であれば、大丈夫」
* * * *
さて、始めるか。
実施主任は、[ミスター核融合]の自宅から2か月かけて届いた手紙の封をペーパーナイフで切った。
封筒の中には紙が一枚。メモ紙のようなものである。
こんな紙一枚を、わざわざ金と時間をかけてなぜ送ってきたのか。
メモ紙の内容も、世間一般のビジネス文書例に載っているような挨拶から始まって、最近の仕事の近況が書かれているだけ。
最後には、木星での仕事が無事に終わったら、自宅に立ち寄って欲しいと書かれていた。
実施主任は、5分もかからずにその手紙を読み終え、趣旨を理解した。
そして、画面に向かい[ミスター核融合]からつい最近受け取ったメールを開いた。
その内容は、先月に理沙から頼まれて送ったものに対する返信である。
木星の資源開発の黎明期から、困難な時期を乗り越えてようやく2080年代に事業を完成させるに至るまでの、
理沙が集めた記録の集大成である。
その中には、この事業の一番の功労者といっても過言ではない、[ミスター核融合]の事についても触れられている。
技術資料として事業団のライブラリーに収納する前に、内容の確認を理沙が彼に依頼したもので
今回、確認し内容に修正の必要な部分については加筆修正を行ったと、彼はメールの中で述べていた。
「頼まれたメールの返信が届きましたね」
実施主任が理沙にそのメールの事を連絡すると、理沙は喜んでいた。
「それじゃ、早速始めてちょうだい」
メールに添付されているファイルを開き、実施主任はお目当てのページを早速開いた。
木星の大気組成と、気象について説明したページには、数百の画像とグラフ表示が並べられている。
[エンデヴァー]の最初の調査から始まり、その後の定期的な観測、
2060年代前半までには、数基の気象観測衛星による定常的なデータ収集が始まり、
画像とデータの精度はその後飛躍的に向上し、2070年代前半には木星全体の大気モデルがほぼ完成した。
初期の画像データに、実施主任は注目した。
彼はいくつかの別々な角度から撮影した木星の画像を並べて、各々の画像の差分データを取り出した。
宇宙空間に浮かぶ木星の画像が、単なる数値のデータになった。
とはいえ、ひとつひとつの画像の粒子に対応した数値データなので、全体として膨大な量の数値の羅列になった。
こんなものを分析して手作業で処理するとなると、素人であれば悩んでしまうところだが、
その数値データに対して、実施主任はある値をキーとしてフィルターをかけた。
しかし出力されたデータは、まだ膨大な数値の羅列であることには変わりはない。
実施主任は、その出力データに、さらにフィルターをかけた。
同じ操作を再び行い、内容を確認し、そして再び操作、そして再び操作。
何回か操作を行ったのちに、実施主任は粒子のデータに再び変換し、画像に加工した。
これか。。。。
図面が画面上に現れた。
何かの設計図のようである。とりあえずは画像データから設計図一枚分への変換が完了した。
理沙に早速連絡し、その図面を見せると、
「私もすぐにそちらに行きます」
そして5分ほど経って理沙は彼の部屋に到着した。
「いい仕事をしてくれましたね」
いえいえ、と実施主任は首を振った。
「ローテクも、使い方次第ですよ」
そして[ミスター核融合]から受け取った手紙を理沙に手渡した。
「手紙は横に読むばかりでなくて、たまには縦に読まないと」
* * * *
その後、非常に根気のいる作業の末、実施主任は画像データから設計書のデータ60ページ分を取り出した。
レーザー発振システムの要となる、大容量電力変換システムの中核部品の設計図である。
事業団がSTUに将来的に必要になるものとして、過去に研究開発を依頼していたものなのだが、
技術的にハードルが非常に高く、公式にはいったん開発を断念していたものである。
しかし、理沙は[ミスター核融合]から、いつかは必ず必要になる技術なので、Metal-Seedシステムと同様に、
細々と開発を続けていると、昔小耳に挟んでいたことがあった。
その日から約10年、STUの技術チームは、技術的に一番難しい難しい部分は乗り越えて、
あとは量産技術開発と、コスト的に見合うかどうかといった判断のみとなっていた。
設計データをすべて確認すると、理沙はさっそく[ミスター核融合]に短いメールを送った。
[お気遣いありがとうございます。先日いただいた文書は確認しましたので、これから校正に回します]