避難開始

作業プラットフォームの住民を、維持管理に必要な要員以外は、すべて宇宙船内に避難させることが正式決定し、
シャトルによる住民の移送が開始されることになった。
宇宙船居住区の環境整備は既に完了しており、狭いながらも住宅が整然と並び、生活インフラも整えられている居住区は、
住民たちから予想したほどの不満が出る事はなく、報告を聞いた理沙はとりあえず安心した。
その間も、刻々と木星に向かってくる2隻の揚陸艦の位置情報は、リアルタイムで船内のどこからでも情報共有が可能となっており、
木星到達予定日時のカウントダウン表示は、宇宙船スタッフだけでなく、住民たちの緊張感も高めていた。
不測の事態に備えて、船内各所にはシェルターを整備し、90秒以内の全員避難を目標とした避難訓練も始まった。
抜き打ちで昼夜関係なしに行われる避難訓練について、管理職からは住民たちから苦情が出るものと想定されたが、
苦情は全くなかった。
住民たちは、不便な生活に対する不満よりも、地球から日々伝えられるニュースでの、木星の住人たちについての
偏見だらけの扱い、資源を独占する悪者との発言に嫌気が差していた。
地球側から声明があるたびに、理沙が感情的にならずに理性的に反論している事も、住民たちから評価が高かった。
既に地球の側に取り込まれてしまった、月や火星の居住地とは違い、木星の住人たちは抵抗を続けていた。
願いはただ一つ。木星を太陽系の新たな中心となる場所にすること。
理沙は再び画面の中から、木星の住人たち、そして地球を含めた全太陽系の人々の前で話し始めた。


「私たちは今、もう一度原点に立ち返り、考えるべきだと思っています。
太陽系の開発は、今から150年近い昔に始まりました。
当時は地球上は大国間での冷戦と呼ばれる戦争状態にあり、常に全地球人類が緊張状態にありました。
核兵器により、もしかしたら明日にでも全人類が破滅するのではないかという恐怖が、常に目の前にありました。
その後は、大国間のパワーバランスも複雑化し、また、核兵器を脅しの手段に利用することはあっても、
現実には使う事はない、使うことができないという、暗黙の了解のもと不安定で混沌とした状況が続きました。
とはいえ、戦争はなくなったわけではありません。
核兵器を実戦で使うことがどれだけ大きなリスクを伴うのか、わかっているので手出しできないだけです。
そのような状況が続く中で、太陽系の開発が本格化したのは2050年代。
核融合推進システムの実用化により、距離と時間の制約のハードルが格段に下がり、
太陽系内の移動が容易になった事がブレークスルーとなりました。
木星の核融合燃料開発が本格化したのもその頃からです。
不思議な事に、複雑化した国家間のパワーバランスにもとづいた緊張状態も、その時からいったん休止状態になりました。
核融合燃料生産が軌道に乗り、プラントがフル生産状態になると、好循環が始まりました。
しょせん、国家間のすべての問題の根本には、エネルギー資源問題があり、
化石燃料や原子力以上に膨大なエネルギーを生み出す核融合は、地球のエネルギー問題を解消しました。
ということで、めでたしめでたし、
といった簡単な結末には、残念ながら至りませんでした。
人間の欲望というものは、非常に根が深いものです。
エネルギー問題の解消の裏側には、国家間の利権の問題がまだ残っています。
私は、木星開発のプラン策定に参画することになった当初から、もっと先の目標を設定していました。
核融合燃料開発は、単なる通過点であり次の段階への足掛かりにすぎません。
目指すべき目標は、木星を太陽系の新たな中心とし、太陽系内の各居住地と連携した場所とすることです。
地球がただひとつの中心と考えるのではなく、太陽系全体をひとまとまりとして捉える必要があります。
そして、その目標を達成したならば、さらに遠くを目指します。
視点を変える事によって、国家を越えて争う必要もなくなります。
今回の、核融合燃料輸送停止の真の目的は、考え方の変化を促すためです。
地球中心の、固定観念とも言える考えを変えることです。
地球国家であるとか、月や火星は植民地であるとか、そして木星も資源供給基地であるとか、
そんな固定観念は改めて、太陽系は巨大なひとまとまりとなるべきなのです」

*     *     *     *

そんな事は全くの綺麗事だと、合衆国大統領は理沙の発言にすぐに反論した。
2隻の揚陸艦は引き続き木星へ向けて航海を続け、到着後は速やかに反逆者を制圧すると大統領は公式の場で述べた。
大統領の発言が徐々にヒートアップし、本音がむき出しになっていくのを理沙は冷めた目で観察していた。
その翌週には、揚陸艦には核ミサイルが搭載されていることも公表された。
国防総省の作成指令パネルには、木星へ到達後の予定作戦コースも登場した。
もちろん、単なるパフォーマンスであり、徐々に外堀を埋める方法で精神的に追い込もうという作戦であることも、
理沙にはすべてお見通しだった。

*     *     *     *

理沙と同じように、大統領の演説を単なるパフォーマンスだと見抜いている人々は他にも存在した。
新型感染症の影響で経済が疲弊し、その事を口実に、なぜ自分たちが犠牲にならなければいけないのか、
月と火星の居住地の住民は、以前から理不尽な気持ちを味わっていたのだが、
会見の場で理沙が繰り返し発言していた一言が、彼らの気持ちに火をつけた。
私たちは、単なる植民地人ではない。
きちんとした生活と文化があり、独自のアイデンティティを作り上げようとしている、市民なのだ。
地球も、月も、火星も、木星も、そして他の太陽系内の居住地も、皆が平等であり、
太陽系は巨大なひとつのまとまりとなって、共存すべきだと。
彼らの抑圧された気持ちは、巨大なパワーとなり、
月と火星の居住地内ではデモ活動が活発化し、地球政府の警察力も抑止することができないほどになっていた。
もしかしたら、暴動に発展し流血騒ぎになるのではないか。そんな予想もされた。
さらに、地球国家もまた一枚岩ではなく、
住む場所、惑星がどこであろうと差別抑圧すべきではなく、権利を認め平等に扱うべきではないかという意見は、
徐々に大きくなり無視することができない程になっていた。
木星に向かう揚陸艦を引き留めて、木星の住人の意見を聴くべきではないのか。
地球国家のトップたち、そして合衆国大統領は、決断を求められていた。


合衆国大統領の緊急声明に、太陽系内のすべての居住地の人々は注目した。
「私たちは、非常に難しい事態に直面しています。
2つの道が目の前にあります。一つは、再び皆がひとつにまとまって協力して生き続ける道。
そしてもう一つが、分裂と混乱そして皆が争い合って破滅へと向かう道。
どちらを選ぶのか、判断するために残されている時間は残り少なくなりました。早急に決定しなくてはなりません」
木星に揚陸艦2隻が到着するまで、残り1か月程となり、もしこのまま木星で戦闘が始まれば、
月や火星でも同様の争いが始まるという事は目に見えている。
とはいえ、揚陸艦に引き返すように命令を下せば、政府は弱腰だと強行派の暴動も起きるかもしれない。
大統領は少しの間を置いてから、再び画面の向こう側の100億人以上の人々に語った。
「私たちは前に進むことにしました。反乱と混乱の世の中に向かう事を、私たちは望みません」


執務室で合衆国大統領の声明を見ながら、理沙は再び自分の気持ちを強くした。
最後の最後まで、諦めるわけにはいかないのである。
今まで、数々の重大決定の場に直面してきた理沙だったが、
核融合燃料開発プロジェクト続行是非の決定など、これと比べたら夕食のメニューを考える位に軽いものだと思えた。
前世紀の冷静時代、核戦争勃発の一歩手前での決断にも等しいかもしれない。
大統領声明が終わると、すぐに理沙は管理職会議を招集した。
「レーザーのターゲット設定に関して、最終判断をします」



「サンプル版ストーリー」メニューへ