心を包むもの
まわりの風景がぼやけてゆき、小さなコクピットに座っているものと思いきや、
直子の体は宙に浮き、眼下には木星の雲海が広がっていた。
自分の体はまだ作業プラットフォーム内のリモート操縦室内のはずなのに、自らが核融合ラムジェット機と一体化し、
飛行を続けているような感覚だった。
先ほどまで途絶えていた管制室との交信が復活した。
「TRX-004、何かありましたか?」
その声は直子の耳に聞こえているというよりは、自分の意識に直接語りかけているように思えた。
「こちらTRX-004。一時的に交信が切れましたが、異常ありません」
そのまましばらくの間は、規則的な縞模様の雲海の上を順調に飛行を続けた。
システムが機械的に管制室と交わしている、機器のチェック情報が直子の感覚の中に直接飛び込んでくる。
うっとうしいと思ったので、直子は感覚にフィルターをかけて機械任せの部分は意識に混入しないようにした。
少し静かになったので、辺りの風景をしばらくの間眺めていた。
2日後、いよいよ今回の目標である、大赤斑が左前方に見えてきた。
緩やかに盛り上がった山のように見えるが、そのスケールは地球の台風とは桁違いに巨大である。
そもそも木星は地球の11倍の直径なので、視覚で見えているもののスケール感が大きく異なる。
数百キロ先に見えているように思えても、実際のマップ上では数千キロ離れた場所である。
流れる雲といっしょに動きながら、徐々に大赤斑に接近してゆく。
「これから上昇し、回り込みながら渦の中に入ります」
マップ上の飛行コースを、直子は再度確認する。
大赤斑の雲の厚さは、数百キロもある。
木星には固体の表面がないので、雲がどこまでも深く続いてゆき、
徐々に大気圧が上昇し、いつのまにか液体と気体の混じり合った層になり、水素とヘリウムの海に突入する。
その情報は、今までにいくつも投下された大気観測用の探査機からのデータによるものだが、
今回は大赤斑に突入後、可能な限り雲の底まで降下して、再び上昇して帰還する飛行プランである。
帰還できるかどうかの確率はかなり低いが、核融合ラムジェット機による探査は人間の操縦感覚に非常に近い。
というのは建前で、直子は自分の体の限界にどこまで挑戦できるのか知りたい為に、今回のテスト飛行に志願した。
やがて大赤斑は視界のほとんどを覆い尽くすほどになってきた。
推力を最大にして、まずは雲の頂上を目指す。
大赤斑の外側を左回りに回り込みながら上昇する飛行コースをたどっているのだが、
回転力により生み出された風は強烈で、風の動きをセンサーでしっかりと観測しながら、巻き込まれないように注意した。
大赤斑は地球の台風のように、低気圧が中心部に風を吹き込む時に、コリオリの力で渦を生み出すのではなく、
木星赤道部の西向きの風と、南部中緯度の東向きの風の力で渦を形成しているという点が非常に異なっている。
そのため地球の低気圧と比べ渦は安定的で、その寿命は数百年とも言われている。
地球から最初に観測された17世紀の頃と比べて、かなり小さくはなったものの、
22世紀になっても、いまだにその大きさは直径数万キロもある。
直子はやがて大赤斑の上に出た。
「雲の頂上に出ました」
一段高くなった雲の上から、眼下の縞模様の雲海を眺めるのは、ある意味新鮮な気分だった。
「これより雲海に突入し、渦の流れに乗りながら中心部を目指します」
一瞬、遠くに何か光るようなものが見えたような気がしたが、特に気にせずに直子は機体を降下させた。
* * * *
雲の中は気流の乱れがあり、機体は翻弄された。
10年以上前に作られた、最初の核融合ラムジェット機から数えて、この機体は4世代目のバージョンである。
操縦性能、過酷な木星大気中での耐性、そして推進システムは最初の世代と比べて各段に性能が向上している。
木星周回軌道と木星大気中を往復し、資材を輸送するための輸送機としてこの機体は設計され、
どこまで木星の過酷な環境に耐えられるのかが今回のテストの目的である。
直子もまた自分の体の限界と、一度は失われたと思っていたシステムとの一体化の能力を試すために、
今回のテスト飛行を志願した。
もしかしたらシステムと一体化したまま、機体と一緒にこの過酷な環境で破壊されるかもしれない。
その事についての一抹の恐れもあったが、それも社会に対する貢献だと思えば大したことはない。
視界は暗くなり、レーダーからの情報だけが直子にとっての頼みの綱となった。
管制官の声も遠くなり、システムを介した情報も届かなくなってきた。
非常に心細い状況だったが、さらに困った事に機体が大気圧上昇とともに軋む音が聞こえてきた。
降下するのをいったん止めて、直子は水平飛行を続けることにした。
機体の状態をチェックし、いちおう問題がない事を確認したその時、何者かの声がした。
よく聞き取れなかったが、機体が限界に近い事を知らせているアラート音ではないかと思った。
しばらく進むと、視野が突然に開けた。
それは渦の回転力によって生み出された、雲のクレバスのようなものだった。
回廊のような雲のクレバスが前方にどこまでも続き、遥か数十キロ上方には空が見えた。
わずかながらではあるが交信が回復した。管制官の呼ぶ声が聞こえる。
「雲の切れ目に出ました。今のところ機体に問題なし」
「まわりの風景の映像をこちらでも確認。これほどの過酷な環境を乗り越えたとは、素晴らしい」
しかしそれが、直子自身の拡張能力により実現している事については、管制官も技術者たちもまだ知らない。
実体としての体の直子と、いまこの核融合ラムジェット機と一体化している直子が、果たして同一の存在なのか、
実際のところ直子自身にもよくわかっていなかった。
しかし今、自分自身意志と感覚で木星の大赤斑に突入し、この壮大な雲のクレバスを眺めている事は事実である。
はるか前方に、再び光るものを見たのはその時だった。
今回は、かなりはっきりとしたものとして見えていた。規則的にその存在は点滅をしている。
「前方に光る物体。私と同じスピードで前進しています」
しかし、管制官からの返事はなかった。通信の状態が悪いのか。
とりあえずはその光る何者かを追いかけることにした。
光の点が、雲のクレバスから再び雲の中に突入していったので、直子もまた雲の中に突入した。
正体は不明である。大きさはなく、単なる光の点のようなものなのか。
雲の中に入っても、その光はよく見えた。そしてごくわずかではあるが音声信号のようなものが発信されているようである。
アラート音にも聞こえるが、そのアラート音の中に自分に語りかけているような音声も含まれている。
システム回線を通して、直子はその存在に語りかけてみることにした。
すると、さきほどまでの規則的な光の点滅が、不規則な点滅へと変化した。
その光の点滅パターンを記録し、分析したが、どんな気持ちが込められているかはわからなかった。
機体は徐々に降下し、雲のクレバスを出た場所からさらに機体にかかる圧力が増加していた。
光の点はまだ不規則に点滅している。光の点を追い続けているのだが追跡が徐々に困難になってきた。
圧力限界が近い事を知らせるアラートが鳴った。
すると、直子の感覚に直接に語りかける声がした。
[そろそろ上昇しないと]
非常に聞き覚えのある声だった。
でも、まさかこんなところで聞こえるはずがない。しかし、語りかける声は再び聞こえた。
[もうここまでね、さぁ、戻りましょう]
圧力限界のアラートはまだ鳴っていた。光の点を追うのはもう諦めようかと思ったその時、
突然に光の点は上昇を始めた。直子は降下するのをやめて光の点のあとを追い上昇することにした。
光の点が上昇するスピードは速くなり、直子は最大推力で光の点を追いかけながら、問いかけた。
[あともう少し。うまくいけばまた衛星軌道に戻れるかも]
問いかけに対しての返事ではなかったが、光の点のその声は、自分のことを励ましているかのように思えた。
そのあとも、直子はその光の点に導かれるように進み、機体は再び大赤斑の雲の上に出た。
光の点はさらにスピードを上げて上昇し、追跡が不可能なスピードでやがて視界から消えた。
管制官の心配する声が感覚に入ってきた。
追いかけていた光の点の事はいったん忘れ、管制官に状況を伝える。
「機体に特に異常なし。これより周回軌道に帰還します」
* * * *
直子は再び作業プラットフォーム内のコクピットに戻った。
作業スタッフ達が窓の外から直子のことを覗き込んでいた。
予定しているミッションを全て完遂し、皆満足そうな表情だった。
両脇をスタッフに抱えられながら直子はコクピットを出た。
「ご心配をおかけしました。皆さん、どうもありがとう」
開口一番、直子の口から出たのはそんな一言だった。
しかし、近づいて直子の手を握った技術チーフは、直子のその言葉に恐縮しているようだった。
「いえいえ、感謝するのはこちらの方。ミッションは100パーセント以上の達成、完璧です」
その日はホテルの部屋に戻って休息し、翌日に報告会と称した今回のミッションの振り返りのミーティングに参加した。
フライトデータの分析とともに、大赤斑の中を飛行した映像が画面表示される。
深い、雲のクレバスの映像で、直子は突然に登場した光の点のことに触れようと思った。
しかし、光の点は画面に登場せず、雲をかきわけて上昇する間も、視界には光の点はなかった。
ようやく雲から脱出し、追いつけないほどの速度で光の点が上昇していくこともなかった。
結局のところ、直子は大赤斑の中で出会った光の点と、心の中に語りかける声について、会議の場で触れる事はしなかった。
* * * *
ふと気になることがあった。
直子も、今は亡き姉も、意識だけが身体から抜け出して自由に飛び回り、行動することが可能であったが、
では、それは幽体離脱といったものに相当するのだろうか。
身体から意識だけ抜け出しているその間に、身体が失われてしまったら、意識だけで生き続けることは可能なのだろうか。
意識だけで生き続ける事が可能であるとしたら、それはいったい何を意味しているのだろうか。