2人だけの秘密
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「ちょっと、お話したいことがあって」
元事業団長官からの非常に短いメールが届いたのは、直子がちょうどこれから寝ようかと思っていた時だった。
場所はハワイから。2年ほど前にハワイに小さな家を購入し、奥さんと2人だけの悠々自適の生活のようである。
添付されている画像ファイルには、ハワイの早朝の風景が記録されていた。
返事は明日にしようかと思ったが、お久しぶりですお元気で何よりですと短い返信をした。
再びベッドに入り、しばらくして返信のアラート音が鳴ったが、直子はそのまま寝てしまった。
翌朝にメールを確認すると、そこにはこう書かれていた。
「近いうちに東京に行く用事があります。宿泊するホテルは決まっているので、その近くで話がしたいです」
メールの最後に、ホテル近くの高級レストランの場所が記されていた。
* * * *
10日後、直子は元長官から指定された店で待ち合わせをした。
高級感があるものの、派手さはなく落ち着いた感じの店だった。
空港のラウンジのような雰囲気で、2階ほどの高さのある大きなガラスパネルの向こうには、大きな池のある庭が。
外は湿度が高くまだ夏の暑さが残っているが、庭にある池のおかげでひんやりとして涼しげな雰囲気がある。
ガラスパネル前の奥の席で彼は待っていた。
「あまり変わらないようで、よかった」
元長官は立ち上がって握手を求めてきた。握った彼の手にはまだまだ力がある。
コース料理を注文し、最初に出された食前酒に口をつけながら2人はお互いの近況について話をした。
直子も元長官も、単調な毎日であること、そしてその単調な日々をそれなりに楽しんでいる点では同じだった。
毎日同じ時刻に起きて、朝の空気を吸いながら体を動かして、物思いにふける日々。
前菜に手をつけながら、悩み事について先に話を切り出したのは元長官の方だった。
「限界寿命が近いと、この前言われてね」
直子はすぐに反応しなかった。
いったん手を止めて、そうなんですねと相槌をついた。
21世紀後半にブレークスルーを迎えた、再生治療による延命治療は、健康寿命を飛躍的に伸ばした。
100歳を超えてもなお現役、結婚して子供もいる夫婦も珍しくない。
彼は今年で114歳になるのだが、見た目には50代でもまだ通用する身体に見える。
しかし、人間の寿命を左右する根本的な要素は何も変わっていない。
細胞核の遺伝子内の、細胞分裂回数を制御するスイッチは何も変わっておらず、
そのスイッチに対して、分裂回数を増やす試みは世界各地の研究所で行われているが、まだ成功した科学者はいない。
治験中に、異常な細胞分裂の副作用による多臓器不全で死亡した例は数多く、ブレークスルーはまだ見えていない。
どんなに健康に見えても、新陳代謝が止まったところで寿命を迎えて突然に亡くなる。
それを世間では限界寿命と呼んでいた。
「あたしも同じような事を言われました。主治医から体の限界が近いと言われて」
メインディッシュのステーキを味わいながら、直子もまた自分の悩みを口にした。
生体の限界寿命とサイボーグの体の寿命との間には根本的な違いはあるが、先が長くないという点では同じような悩みだ。
「それで、今日あなたに話したい事は」
彼は話の本題に入った。
* * * *
元長官と姉との間に、目に見えない壁のようなものがあるのではないかという事は、以前から薄々感じてはいた。
木星での管理職会議の場、長官からのリモートでの指示命令の際に、
なぜか理沙に対しては遠慮がちなところがあるという事には気づいていた。
事務的な話の内容であるのと、一方的な話になってしまうということを差し置いても、
直子の目から見て、姉に対してはなぜかわだかまりがあるように察してしまう。
木星での管理職を解任されて地球へと更迭される前日に、2人だけでリラックスして会話をしたあの日、
直子は今日こそ真相を聞き出してみようと思った。
しかし、その願いは叶わなかった。
「姉との間の、その、何かというやつね」
彼は頷いた。
結局のところ、聞き出す前に姉は亡くなってしまったので、永遠の謎になってしまったと直子は思っていた。
ならば、ここで真相を聴いてやろうじゃないか。
再びワインに口をつけて、リラックスした気分で彼の話を聴く。
こんな酒の席で、さらに湿っぽい話を聞かされるのか。
姉が航空機事故で瀕死の重症を負い、生死をさまよい、成功の見込みがかなり低いものの最後の希望をかけて、
サイボーグの体になって復活し、彼の前に突然に見違える姿になって現れたというのに。
姉が彼の前に再び現れて、まずやった事といえば2人で夜を共にしたという事。
非常に低レベルの、人間の性欲のままにとにかくお互いの体を求め合い、そしてその結果はと言えば、
「本当にすまない、そんな気持ちしかなかった」
ほろ酔い状態だからなのか、次第にあたりの視界がぼんやりとしてきた。
不思議な事に、目の前の彼の姿だけは今まで通りにはっきりと見える。
まるで、直子と彼だけが狭い空間に閉じ込められて、2人だけの世界を共有しているような感覚。
あたりは暗くなり、2人でベッドの上に座り、熱くまとわりつくような夜の空気が全身を包んでいた。
「ごめんなさいね」
その言葉がまず口から出た。
燃えるような熱い欲望はついさっきまでの事。
今はその熱い気持ちも冷めてしまって、倦怠感だけが残っている。
薄い毛布を胸のところまでたくし上げて、彼とは視線を合わせる事もなく反応を待つ。
「いや、そうじゃないんだ」
予想外の答えが彼の口から出てきた。
「ものすごく寂しかったとは思ってる。ずっと待っていたんだよね」
もちろんそうよ、と心の中で思った。
成功する保証のないサイボーグ手術を行って、内臓と神経だけの不気味な姿に分解されて、
その後は気の遠くなるような生体再建手術、そして生体インターフェイスとの結合手術。
長い手術の間、無意識状態に近いままで動くこともできず、ひたすら待つことしかできない。
なんとか生き続けたいという気持ちだけで待って、ある日突然に現実の世界に戻る。
そしてその後には激痛に耐えながらのリハビリ生活。
体が言う事を聞かずに自暴自棄寸前になる日もあったが、
彼に再び会いたいという執念とも言えるような強い気持ちで、生き続けた。
寂しかったという気持ちをわかってくれただけでも、心の底から嬉しいと思った。
「その気持ちを、何といったらいいのか」
別にいいのよ、と思った。謝る必要なんて全くない。
「リハビリも進んで外出の機会が増えたら、もっと頻繁に会えると思うよ」
いやそうじゃないんだ、と彼は再び強く否定した。
「どうかしたの?」
別にあたしに対して謝る事などないのに、と思った。
サイボーグの体になり、言葉は悪いが自分は性的欲求を満足させる事が目的の、セクサロイドになったような心境だった。
もうこの先彼とは結ばれることはないかもしれないが、一度は夜を共に過ごしてみたい。
「もう、結婚したんだ」
そうか、やっぱりヴェラの事が好きだったのだ。
月のクラビウス基地に向かう前にも、ヴェラと彼が言い争うところは何度も目撃していた。
自分との仲が深くなって、その事を快く思っていないヴェラが自分より先に出て彼の心を掴み、結婚したのだ。
「わかった」
もう、全てが終わったのだ。
今夜の事は2人だけの秘密にして、あと腐れなく別れようと思った。
「お幸せに。あたしはもうこれで満足よ」
そんな言葉が自然と口から出た。しかし、彼はまだ何かを隠しているように見える。
「いや、そういう事ではなくて」
彼は、机の引き出しからフォトプレートを取り出して、こちらに向けて見せた。
ヴェラではない女性と、彼が並んで撮られている画像だった。
何のことだか良くわからなかった。
しかし、彼が肩を抱いているその女性は、満足そうに微笑んでいる。
「これって、どういう事?」
状況がよく理解できず、彼の目を見つめて答えを待つことしかできない。
数分の間の沈黙ののち、彼はようやく口を開いた。
「来月には、子供が産まれるんだ」
その一言で、気持ちに一気にスイッチが入った。
頬を平手打ちする、鋭い音で直子は我に返った。
立ち上がって、元長官の頬を思いっきり平手打ちしていた。
静かな店の中で、周りの客の視線が直子に集中していた。
直子は、放心状態で彼の傍に立ったまま彼の眼を見つめていたのだが、やがて彼は言った。
「お姉さまと同じ事をされてしまったか、でもこれで私の気持ちはスッキリしたよ」
直子は再び席に座り、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい」
目の前に置かれたデザートに口をつけて、しばらくたってからようやく言った。
「つい、気持ちが高ぶってしまって」
元長官からの打ち明け話に触発され、姉との間の2人だけの出来事を自分も追体験することになるとは思ってもいなかった。
そのあと2人は、メニュー最後のコーヒーを飲みながらお互いの日々の過ごし方についてとりとめもない話をした。
しかし、話をしながらも直子は、彼の左頬があざのようなって変色しているのを気にしていた。
* * * *
その2か月後、元長官が亡くなったという知らせが直子の元に届いた。
ちょっとした風邪がきっかけで、その後多臓器不全であっというまに亡くなってしまったとの事である。
限界寿命を迎えた人が亡くなる、よくあるパターンだと言われているが、
しかし直子は、姉との間の秘密を打ち明ける事ができて、彼はもう思い残すことはなくなったからなのか、
または、自分の平手打ちが生命力に最後のとどめを刺してしまったのではないかと思ったりもした。
元長官が亡くなってしまった今、直子が彼に対して抱いた気持ちは、
[なんだ、結局のところクソ野郎だったわけね]