では、003-21の試し書きをしてみました。
●003-21【試し書き】:誰にも知られずに
最初のうちは、理沙の近況についての話になった。
1年近くの理沙の米国での生活。
生活の不安を抱えながら暮らした最初の一カ月。
交通管制センターの仕事を見つけた日の事、交通管制センターで同僚と仲良くなった事。
今思えば、リストラも人生経験の一つになっていた。
シアトルでの仕事も、さらに高いレベルの仕事への貴重な経験であり、
今は、技術士官への道を選択しようという目標もできた。
小川は、そんな理沙の苦労話を楽しそうに聞いていた。
気づけば、お互いにカウンター席で立ったままで一時間も話をしていた。
疲れたのですぐそばのBox席で話を続ける。
小川は開口一番、「HALUCA」を半年前に辞めたことを理沙に話す。
一年前に、まりあの近況報告の映像を見たその日、小川と直接会話した時の彼女の口調から、
小川が会社の方針との間で板挟みになっていることを、理沙はなんとなく察していた。
なので、「HALUCA」を辞めたことについて、理沙はそれほど驚かなかった。
理沙が渡米したあとの「HALUCA」の状況についての話が続く。
まりあの近況報告の映像は、ごく自然に世の中に受け止められ、
不自然な突然の引退について疑惑のコメントが世の中に拡散しても、いつの間にかなかったことにされて、
マリア・エレーナの曲もまた、自然な形で徐々に世の中に受け止められていった。
「HALUCA」はその後芸能プロダクションの看板を下ろし、
マリア・エレーナの曲の著作権を管理するだけの小さな会社に規模縮小した。
小川は、規模縮小以前に「HALUCA」を退職した。
彼女は柴原社長に、まりあの真相について公表すべきだと何度も助言はしたが、
柴原の意志が変わる事はなく、結局のところ小川は柴原と喧嘩別れすることになった。
あの日から一年間の小川の話を、理沙はただ静かに聞くことしかできなかったが、
話を聞きながら、昨日までの理沙の心の中にあった、小川に対しての緊張感のような気まずさは消えていった。
二人は店を出て歩き始める。
少しばかり小腹も空いたので、近くのカフェに向かう。
夜風がひんやりとして、肌に心地よかった。
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はい、003-21「誰にも知られずに」の試し書き、拝見しました。
今回の節は、第3章の中でも、少し特別な位置づけになると思います。
これまで第3章では、理沙がアメリカで生活基盤を築き、仕事を通じて成長し、新しい人生の方向を探していく姿を描いてきました。
ところが今回は、理沙が去ったあとの日本で、何が起きていたのかが初めて明らかになります。
しかも、それを語るのは、かつて理沙の才能を見いだし、メジャーデビューへ導こうとした小川美奈です。
003-20が「理沙の中に残っている未練」を描いた節なら、003-21は「美奈の中に残っている未練」を描く節ともいえそうです。
基本構成はこのまま活かし、今回も小説化前に5点ほど調整したいと思います。
1. 冒頭の理沙の近況報告は、説明よりも二人の会話を中心にしたいです
003-20のラストでは、美奈が「Heaven」に現れ、理沙が振り返ったところで終わっています。
その直後から、久しぶりに会った二人の会話が始まります。
最初は少しぎこちなくても、やがて以前のように自然に話せるようになっていく。
この変化を描きたいですね。
理沙がロサンゼルスで経験した就職難、交通管制センター、カーリーとの出会い、シアトルでの仕事などは、すでに読者が知っています。
ですので、ここで詳しく繰り返す必要はありません。
例えば、
「で、結局どうしてシアトルに?」
「ロサンゼルスで仕事をクビになったから」
「え?」
「いや、正確には契約終了だけど」
そんな会話から、理沙が渡米後の生活を面白おかしく話す。
美奈も時々驚いたり、笑ったりする。
そして士官学校の話になると、
「今度は軍人になるの?」
「まだ分からない。審査中」
と、理沙は少し照れくさそうに答える。
この程度で十分でしょう。
なお、前節からのつながりとして、二人はカウンター席に座っていますので、気づけば座ったまま一時間も話し込んでいたとし、その後、落ち着いて話せるボックス席へ移る形が自然で
す。
2. HALUCA退職の話は、美奈の口調が少し変わるところから始めたいです
今回、話題が切り替わる重要な瞬間です。
それまで楽しそうに理沙の話を聞いていた美奈が、ボックス席へ移ったあと、少し表情を変える。
「そういえば、私ね」
「うん?」
「HALUCA、辞めたの」
理沙は少し驚く。
しかし、すぐに思い当たることがある。
一年前、まりあの近況報告の映像を見たあと、美奈と直接話した際に感じた、何とも言えない違和感です。
当時の美奈は、会社の方針に納得していない様子だった。
理沙はそれを明確に理解していたわけではありませんが、何かが引っかかっていました。
この記憶を短く挿入すると、美奈の退職が突然の出来事ではなく、第2章から続いていた問題の帰結として描けます。
また、理沙は、
「……そうなんだ」
と静かに答える程度でよいと思います。
大げさに驚くより、当時の美奈の様子を思い出す方が、二人の関係らしいでしょう。
3. マリア・エレーナのその後は、「騒動が静かに忘れられていく過程」として描きたいです
今回、物語全体としても重要な部分です。
マリア・エレーナの突然の引退。
近況報告の映像。
世間に広がった疑惑。
そして、その疑惑が解決されたわけでもないのに、いつの間にか話題にならなくなっていく。
ここは、美奈の話を通して、時間の経過とともに世間の関心が薄れていく様子を描きたいです。
例えば、美奈が、
「最初は、いろいろ言われたのよ」
と話し始める。
映像への反応。
ネット上での疑問。
説明を求める声。
しかし、新しいニュースや新しい歌手の話題が出てくると、少しずつ関心が移っていく。
その一方で、マリア・エレーナの曲は聴かれ続ける。
曲だけが残り、本人のことは語られなくなっていく。
ここでは、何者かが意図的に疑惑を消したと断定する必要はないと思います。
美奈自身が、
「結局、みんな忘れていくのよね」
と感じている。
その方が、静かな怖さが伝わります。
また、HALUCAが芸能プロダクションとしての活動をやめ、楽曲の著作権管理を中心とする小さな会社へ縮小していく過程も、この流れの中で自然に説明できます。
4. 美奈と柴原社長の決別は、感情を抑えた会話として描きたいです
試し書きでは、美奈が柴原社長に何度も真相の公表を求め、最終的に喧嘩別れしたことになっています。
ここは、少し丁寧に描きたいところです。
美奈は、理沙やまりあの才能を世に送り出そうとしていた人物です。
だからこそ、まりあの真相が語られないまま、会社が何事もなかったように事業を縮小していくことに納得できなかった。
ただし、ここで柴原を一方的な悪役として描く必要はありません。
柴原にも、会社や関係者を守ろうとする立場や事情があったのかもしれない。
そのうえで、美奈はどうしても譲れなかった。
例えば、
「社長には何度も言ったの。ちゃんと説明すべきだって」
「それで?」
「最後まで、考えは変えてくれなかった」
少し間を置いて、
「私も、引けなかったのよ」
この程度の会話でも、二人の決裂は十分に伝わると思います。
美奈は声を荒らげるわけでもない。
むしろ、今となっては少し疲れたように話す。
理沙も簡単な慰めの言葉をかけない。
ただ、静かに聞いている。
ここに、今回の人間ドラマの中心を置きたいです。
5. ラストは、理沙と美奈の間にあった気まずさが消える様子を描きたいです
今回の試し書きで、特によいと感じた部分です。
話を聞きながら、昨日までの理沙の心の中にあった、小川に対しての緊張感のような気まずさは消えていった。
この変化は重要だと思います。
003-20では、美奈との再会を前にした理沙が、歌手としての道を断った過去について、どこか落ち着かない気持ちを抱いていました。
ところが、今回の美奈の話を聞くうちに、理沙は気づきます。
自分だけが何かを諦めたり、失ったりしたわけではなかった。
美奈もまた、自分の信じたものを守ろうとして、結果的に大切な仕事から離れることになった。
だからといって、二人が互いの人生について結論を出す必要はありません。
ただ、以前より少し素直に向き合えるようになる。
それだけで十分です。
最後は、二人がHeavenを出て、近くのカフェへ向かう場面ですね。
店の中では過去の話をしていた。
外へ出ると、ひんやりした夜風が吹いている。
二人は小腹が空いたことを理由に、もう少し話そうと歩き始める。
まだ話し足りないから、一緒に歩いていく。
それが自然にできるようになったこと自体が、この節の締めくくりになると思います。
003-21の小説化に向けた構成
今回の流れを整理すると、次のようになります。
01
理沙の近況報告
渡米後の苦労や成長をユーモアを交えて話す。美奈も楽しそうに聞く。
02
HALUCAを退職した美奈
ボックス席へ移り、美奈が半年前に退職したことを打ち明ける。
03
マリア・エレーナのその後
引退への疑惑は薄れ、楽曲だけが残る。HALUCAも縮小していく。
04
美奈と柴原の決別
真相の公表を求め続けた美奈が、ついに会社を去った経緯を話す。
05
再び歩き始める二人
理沙の気まずさは消え、二人は夜風の中、近くのカフェへ向かう。
今回の節で大切にしたいこと
003-21のタイトル「誰にも知られずに」には、少なくとも二つの意味を持たせられると思います。
一つは、マリア・エレーナの引退の真相が、世間に知られないまま時間が過ぎていくこと。
もう一つは、その裏側で美奈が何を考え、何を守ろうとし、何を失ったのかも、ほとんど誰にも知られていないこと。
前者はマリア・エレーナの物語。
後者は小川美奈の物語です。
そして理沙自身もまた、日本の仲間たちには十分知られないまま、アメリカで苦労し、新しい道を探していました。
そんな二人がシアトルの小さなショットバーで、久しぶりに互いの一年を語り合う。
ここに今回の節の味わいがあると思います。
大きな真相を明かす節ではなく、誰にも知られていなかった時間を、二人が静かに分かち合う節。
その方向で小説化すれば、第2章「出会いと別れ」と第3章「西海岸の風」をつなぐ、余韻のある一場面になると思います。
今回も基本構成の変更は必要ありません。この5点を反映して小説化する方針でよいと思います。
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ありがとうございます。
では、この試し書きについて、調整の必要な5つの点を考慮したうえで小説化をお願いします。
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承知しました。
今回は、先ほど整理した5点を反映し、003-20のラストから自然につながる形で小説化します。
理沙と美奈の再会を、単なる近況報告ではなく、互いが知らなかった一年間を静かに語り合う時間として描きます。特に、マリア・エレーナのその後と美奈がHALUCAを去った経緯につい
ては、説明的になりすぎず、二人の会話と沈黙の中で伝わるようにします。
003-21 誰にも知られずに
「……久しぶり」
理沙がそう言うと、美奈は小さく笑った。
「元気そうね」
「うん。美奈さんも」
「そう? 飛行機でちょっと疲れちゃった」
「座って。何か飲む?」
「そうね。少しだけ」
美奈は理沙の隣のカウンター席へ腰を下ろした。
バーテンダーが注文を聞きに来る。
美奈は軽いカクテルを頼んだ。
「いいお店ね」
「静かでしょ」
「ええ。こういうところ、よく来るの?」
「時々。一人で」
「相変わらずね」
「何が?」
「一人でふらっと、こういうところに入っちゃうところ」
理沙は少し笑った。
言われてみれば、東京にいたころもそうだった。
何か特別な用事があるわけでもなく、気に入った店を見つけると、一人で入ってしまう。
そういうところは、あまり変わっていないらしい。
*
「それにしても、アメリカへ来てからもう一年になるのね」
美奈がグラスを持ちながら言った。
「そうだね。あっという間だった」
「どうだった? こっちの生活」
「どうって……」
理沙は少し考えた。
「最初は、結構ひどかったよ」
「え?」
「仕事が全然見つからなくて」
「そうだったの?」
「うん。応募しても、面談まで行かないの。お祈りメールばっかり」
美奈が驚いた顔をした。
「あなたでも?」
「私でも、って。日本での仕事の経験なんて、こっちじゃ最初はあまり見てもらえなかったから」
理沙は笑った。
今なら笑って話せる。
けれど、あのころは本当に不安だった。
ロサンゼルスの小さなアパート。
天井の剥がれかけた壁紙。
毎日届く不採用通知。
減っていく貯金。
横浜のアパートの家賃まで払い続けていた。
「一度、ちょっと怪しい会社に入りそうになって」
「怪しい会社?」
「調べてみたら、いろいろ問題がありそうで。危なかった」
「それは……ちゃんと調べてよかったわね」
「うん。あのときは、仕事が欲しくて仕方なかったから」
美奈は静かに頷いた。
理沙は続けた。
ファストフード店で働いたこと。
食料品店のレジに立ったこと。
そこから交通管制センターの仕事を見つけたこと。
夜勤を続けながら、新しいシステムを組み上げていったこと。
「それでね、ようやく仕事が終わったと思ったら、契約終了」
「ええ?」
「新しいシステムが完成したら、人があまりいらなくなっちゃったの」
「そんな……」
「でも、まあ、そういう仕事だったんだよね」
理沙はグラスを置いた。
「ただ、そこで仲良くなった人がいて」
「お友達?」
「うん。カーリーっていう人。四歳の娘さんがいるんだけど」
美奈は少し身を乗り出した。
「へえ」
「家に呼んでくれてね。娘さんとも一緒にご飯食べたりして」
「楽しそう」
「うん。楽しかった」
理沙は少しだけ目を細めた。
カーリーの家の庭。
夕方のバーベキュー。
最初は人見知りしていた娘が、帰るころには何度も話しかけてくれたこと。
あの何でもない時間が、妙に懐かしかった。
*
「それで、シアトルへ?」
「そう。今度は金融系のシステム」
「仕事はどうだった?」
「大変だった」
理沙は即答した。
美奈が笑った。
「即答ね」
「だって、ほんとに大変だったんだもの」
理沙はダグラスの話をした。
最初に与えられた仕事。
何を聞いても、まず自分で考えろと言われたこと。
何度も資料を作り直したこと。
そのうち、いつの間にか自分が後任者を教える立場になっていたこと。
「で、アトランタまで出張したんだけど」
「アトランタ?」
「うん。現地の担当者が倒れちゃって。急に行くことになって」
「大丈夫だったの?」
「何とかね。でも、毎日くたくた」
理沙は苦笑した。
「自動化されたシステムを作ってるはずなのに、人間の仕事が全然減らないの」
「不思議ね」
「そう。機械が勝手に動いてくれる分、別の仕事が増えるみたい」
美奈は楽しそうに聞いていた。
時々質問を挟む。
理沙も、いつもより少し饒舌になっていた。
「……それで?」
「それで、今度はプロジェクトそのものが中止」
「また?」
「また」
二人は笑った。
「でも、最後に一か月だけ残って、後任の人たちに仕事を教えてきた」
「自分から?」
「うん」
「理沙ちゃん、ずいぶん変わったわね」
「そう?」
「前だったら、仕事がなくなったらすぐ次へ行きそうだったのに」
理沙は少し考えた。
「そうかもしれない」
しばらくして、付け加えた。
「でも、あの仕事はちゃんと終わらせたかったんだよね」
美奈は頷いた。
「それで、今は?」
「今は、ちょっと休憩中」
「次の仕事は?」
「候補はいくつかあるんだけど……」
理沙は少し言いにくそうに笑った。
「実は、別のところに応募してて」
「別のところ?」
「軍の技術士官」
美奈の手が止まった。
「……軍?」
「うん」
「理沙ちゃんが?」
「そんなに意外?」
「意外っていうか……」
美奈は少し考えた。
「あなた、歌手だったのよね?」
「それは昔の話」
「今度は軍人?」
「まだ決まってないよ。審査中」
美奈は理沙を見つめた。
それから、ふっと笑った。
「本当に、何が起こるか分からないものね」
「自分でもそう思う」
理沙も笑った。
*
気づけば、一時間近く経っていた。
最初は少しぎこちなかった会話も、いつの間にか昔の調子へ戻っていた。
カウンターには、空になったグラスが並んでいる。
店内も、いつの間にか客が増えていた。
「少し、奥へ移らない?」
美奈が言った。
「そうだね」
二人はカウンターを離れ、壁際のボックス席へ移った。
向かい合って座る。
美奈はバッグを隣へ置き、少し背中を伸ばした。
「ふう……」
「疲れた?」
「飛行機に乗って、そのまま来たから」
「ホテルで休んでからでもよかったのに」
「せっかくだから、早く会いたかったのよ」
理沙は少し照れくさくなった。
「……ありがと」
美奈が微笑んだ。
少しの間、二人は黙っていた。
店内には、先ほどとは違う静かな曲が流れている。
やがて、美奈が口を開いた。
「そういえば、私ね」
「うん?」
「HALUCA、辞めたの」
理沙は顔を上げた。
「……そうなんだ」
「半年前に」
「そっか」
意外ではあった。
ただ、まったく予想していなかったわけでもなかった。
*
一年前。
まりあの近況を伝える映像が公開された日。
理沙は、その映像を見たあと、美奈と話をした。
あのときの美奈は、いつもの美奈とは少し違っていた。
何かを言いかけて、言葉を選ぶ。
会社の方針について聞かれても、はっきりした答えを避ける。
それでも、彼女自身が納得していないことだけは、理沙にも何となく伝わっていた。
「やっぱり、あのこと?」
理沙が聞いた。
美奈は少し目を伏せた。
「……そうね」
そして、グラスへ視線を落とした。
*
「あなたが日本を離れたあと、しばらくは大変だったのよ」
美奈が話し始めた。
マリア・エレーナの突然の引退。
公開された近況報告の映像。
その内容について、さまざまな反応があった。
残念がるファン。
復帰を望む声。
説明に納得できないという意見。
そもそも、なぜあれほど急に姿を消したのかという疑問。
「最初は、結構騒がれたの」
「うん」
「映像を見ても、納得できない人は多かったみたい」
理沙は黙って聞いていた。
「でもね」
美奈は少し間を置いた。
「不思議なものよね。だんだん、誰もその話をしなくなったの」
別のニュースが出る。
別の歌手が話題になる。
新しい曲が発売される。
世間の関心は、少しずつ別のところへ移っていった。
「何かが解決したわけじゃないの」
美奈が言った。
「ただ、話題にならなくなっただけ」
理沙は頷いた。
「……そういうものなのかな」
「そういうものなのかもしれないわね」
美奈は小さく息を吐いた。
「でも、曲は残ったのよ」
「曲?」
「ええ。マリア・エレーナの曲」
引退直後は、突然姿を消した歌手の曲として聴かれていた。
やがて、そうした事情を知らない人たちも曲を聴くようになった。
街で流れる。
配信で聴かれる。
誰かが歌う。
歌手本人についてほとんど知らない人間が、その曲だけを気に入る。
「そうして、普通の曲になっていったの」
美奈は静かに言った。
「普通の曲……」
理沙はその言葉を繰り返した。
「そう。何事もなかったみたいに」
理沙はグラスに残った酒を見つめた。
まりあの声を思い出した。
あの独特の歌声。
ステージに立っていた姿。
自分と一緒に歌った時間。
その人が、今どこで何をしているのか。
理沙は知らなかった。
*
「HALUCAも、そのあと縮小したの」
美奈が続けた。
「芸能プロダクションとしての活動は、ほとんど終わり」
「そうなんだ」
「今は、マリア・エレーナの楽曲の権利を管理する、小さな会社になってる」
「……そっか」
理沙は少し驚いた。
かつて、あれほど大きな期待をかけてマリア・エレーナを世に送り出そうとしていた会社だった。
自分にもメジャーデビューの話が来た。
大きな企画が動いていた。
何人もの人間が、その仕事に関わっていた。
それが今は、楽曲の管理だけを続けているという。
「私が辞めたのは、その少し前だけどね」
美奈は言った。
「柴原社長とは、最後まで意見が合わなかった」
「……まりあのこと?」
「ええ」
*
美奈は、しばらく言葉を探していた。
理沙は急かさなかった。
「社長には、何度も言ったの」
「何を?」
「ちゃんと説明すべきだって」
美奈は理沙を見た。
「まりあに何があったのか。どうしてあんな形で引退することになったのか。会社として、説明する責任があるんじゃないかって」
理沙は黙っていた。
「でも、社長は最後まで考えを変えなかった」
「何て言ってたの?」
「今さら公表しても、誰も幸せにならないって」
美奈は少し寂しそうに笑った。
「会社や関係者を守らなきゃいけない、っていうのもあったんでしょうね」
理沙は頷いた。
柴原にも、柴原の立場があったのだろう。
会社を経営する人間として、考えなければならないことがあったのかもしれない。
しかし、それだけですべてを納得できるわけでもなかった。
「美奈さんは、納得できなかったんだ」
「そうね」
美奈は静かに答えた。
「何もなかったことには、したくなかったの」
短い沈黙があった。
「何度も話したわ。ちゃんと説明すれば、分かってくれる人だっているはずだって」
「うん」
「でも、最後はもう、話し合いにもならなくなっちゃって」
美奈はグラスを持ち上げた。
少しだけ飲む。
「結局、喧嘩別れ」
「……そっか」
「私も、引けなかったのよ」
理沙は美奈の顔を見た。
美奈は淡々と話していた。
怒っているようには見えなかった。
けれど、すっかり割り切っているようにも見えなかった。
「後悔してる?」
理沙が聞いた。
美奈は少し考えた。
「辞めたこと?」
「うん」
「それは、してないと思う」
そこで言葉を止めた。
「でも、もっと違うやり方があったのかな、とは思うわね」
理沙は何も言わなかった。
美奈も、それ以上は続けなかった。
*
店内には、相変わらず静かな音楽が流れていた。
隣の席から、時々笑い声が聞こえる。
カウンターでは、バーテンダーが新しいグラスを磨いている。
外の街では、今日もいつもどおり人が行き交っているのだろう。
その小さな店の片隅で、理沙は美奈の話を聞いていた。
一年前。
自分が日本を離れたあとも、当然ながら時間は流れ続けていた。
ロサンゼルスで仕事を探している間。
交通管制センターで夜勤をしている間。
シアトルでダグラスに叱られている間。
アトランタで慌ただしく働いている間。
日本では、別の時間が流れていた。
まりあの曲は聴かれ続けた。
HALUCAは規模を縮小した。
美奈は会社を辞めた。
そのことを、理沙は何も知らなかった。
そして、美奈もまた、理沙がアメリカでどのように暮らしていたのかを、今日までほとんど知らなかった。
「……大変だったね」
理沙は、ようやくそう言った。
美奈は少し笑った。
「理沙ちゃんほどじゃないわよ」
「そんなことないでしょ」
「そう?」
「うん」
二人は顔を見合わせた。
それから、少しだけ笑った。
*
「そういえば」
理沙が言った。
「美奈さん、今は何してるの?」
「イベント関係の会社で働いてる」
「また芸能関係?」
「少し違うわね。企業のイベントとか、広報関係の仕事」
「へえ」
「契約社員だけどね」
「そうなんだ」
「でも、いろんな人に会えるから、それなりに面白いわよ」
美奈は微笑んだ。
「それに、ちょっと取材みたいなこともやってみたくて」
「取材?」
「ええ。人の話を聞いて、文章にまとめたり」
「ジャーナリスト?」
「そこまで立派なものじゃないけど」
美奈は少し照れくさそうに笑った。
「昔から、そういうことに興味はあったの」
理沙は頷いた。
そういえば、美奈は以前から人の話を聞くのがうまかった。
相手が何を考えているのか。
何を言いたがっているのか。
そういうことを、さりげなく引き出す。
自分がメジャーデビューの話を持ちかけられたときも、そうだった。
「向いてるかもね」
理沙が言った。
「本当に?」
「うん。人の話を聞くの、うまいし」
「理沙ちゃんが今日はよく喋ってくれたからじゃない?」
「そうかな」
「そうよ」
美奈は笑った。
*
しばらくして、二人のグラスが空になった。
時計を見る。
思っていたより、ずいぶん時間が経っている。
「そろそろ出ようか」
理沙が言った。
「そうね」
二人は会計を済ませ、店を出た。
階段を上がる。
扉が閉まると、店内の音楽が遠くなった。
外は、ひんやりとしていた。
シアトルの夜。
昼間はまだ少し暑かったが、日が落ちると風が冷たくなる。
「ああ、気持ちいい」
美奈が小さく伸びをした。
「涼しいでしょ」
「ええ。東京はまだ蒸し暑いから」
「こっちは、もう秋かな」
二人は歩き始めた。
街灯の下を、時々車が通り過ぎる。
歩道には、仕事帰りらしい人たちが何人か歩いていた。
美奈はしばらく黙っていた。
理沙も、特に何かを話そうとはしなかった。
それでも、気まずくはなかった。
*
ふと、理沙は思った。
昨日まで、あれほど気になっていたこと。
美奈に何を聞かれるのだろう。
メジャーデビューを断ったことを、どう思っているのだろう。
歌をやめたことを、後悔していないかと聞かれるのだろうか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今日の美奈は、そのどれも聞かなかった。
ただ、理沙の話を楽しそうに聞いてくれた。
そして、自分の一年間を話してくれた。
美奈もまた、いろいろなことを考え、迷い、自分なりに決めてきたのだろう。
理沙が知らないところで。
誰にも知られずに。
その時間があった。
理沙は隣を歩く美奈を見た。
一年前と、ほとんど変わらない姿だった。
それでも、きっと同じではない。
自分と同じように。
「……お腹空かない?」
不意に、美奈が言った。
「え?」
「飛行機であまり食べなかったから」
「ああ、そうか」
理沙は少し考えた。
「この先に、遅くまでやってるカフェがあるよ」
「何か食べられる?」
「うん。軽いものなら」
「じゃあ、行かない?」
「いいよ」
二人は歩く方向を少し変えた。
「ところで」
美奈が言った。
「理沙ちゃん、本当に毎朝走ってるの?」
「うん」
「何時から?」
「五時半くらい」
「……私には無理だわ」
「私も最初はそう思った」
「三日でやめそう」
「私だって、最初は三日でやめようかと思ったよ」
二人は笑った。
夜風が、通りを静かに吹き抜けていった。
理沙はもう、美奈に何を話そうかと考えていなかった。
ただ、隣を歩きながら、思いついたことを話していた。
カフェの灯りが、通りの少し先に見えていた。
|
ありがとうございます。
では、この小説化された文章を、400字程度のあらすじにまとめてください。
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003-21「誰にも知られずに」あらすじ
シアトルのショットバー「Heaven」で再会した理沙と小川美奈は、互いの近況を語り合う。
理沙は渡米後の苦労や仕事での経験、技術士官学校への応募について話し、美奈は楽しそうに耳を傾ける。
やがて美奈は、半年前にHALUCAを退職したことを打ち明ける。
マリア・エレーナの突然の引退をめぐる疑惑は、真相が明らかにされないまま世間から忘れられ、楽曲だけが静かに聴かれ続けていた。
HALUCAも事業を縮小し、美奈は真相の公表を求めて柴原社長と対立した末、会社を去ったという。
理沙は、自分がアメリカで暮らしていた間、美奈もまた知らないところで苦悩し、自分なりの道を選んでいたことを知る。
再会前に抱いていた気まずさはいつの間にか消え、二人は店を出る。
ひんやりとしたシアトルの夜風の中、自然に言葉を交わしながら、近くのカフェへと歩いていった
|
ありがとうございます。
ではまた日を改めて、引き続きの003-22の文章を作成します。
|
ありがとうございます。これで003-21「誰にも知られずに」も、試し書き→調整→小説化→あらすじまで完了しました。
次回は、**003-22「夕日を眺めながら」**ですね。
003-20から003-21にかけて、理沙は久しぶりに小川美奈と再会し、互いの知らなかった一年間を語り合いました。
次の003-22では、美奈を空港で見送ったあと、再び一人になった理沙が、自分のこれからについて静かに考える場面になります。
ここでは、歌手時代への未練がすっかり消えるわけでも、技術士官になる決意が完全に固まるわけでもない。むしろ、さまざまな経験を経てきた理沙が、それでも自分の選んだ道でよい
のだろうかと問いかける時間を大切にしたいと思います。
第3章の後半、技術士官学校への道が具体化していく前の、静かな転機にもなりそうです。
次回もこれまでと同じく、試し書き→調整点の整理→小説化→400字程度のあらすじ、という手順で進めましょう。
また日を改めて、引き続きよろしくお願いします。
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