休憩が終わっても、柴原はすぐには戻ってこなかった。
奥の席でノートパソコンに向かっていたかと思うと、やがてスマホを手に取り、低い声で誰かと話し始めた。
「すみません。少しだけお待ちください」
小川が申し訳なさそうに言った。
少しだけ、という言葉は、結局30分ほどになった。
外に出ていた湯浅とフィリップ、島崎が戻ってきたあとも、応接テーブルではしばらく雑談が続いた。
最初は、少し気まずかった。
さっきまでの柴原の説明が、まだ空気の中に残っていたからだった。
なぜ自分たちが選ばれたのか。
その答えはある。
でも、今は言えない。
柴原の言葉は、正しいようにも聞こえた。
けれど、どこか遠くに突き放されたようにも感じた。
まりあも、何を言えばいいのか分からず、アイスコーヒーのグラスを両手で包むように持っていた。
その空気を少しずつほぐしたのは、小川だった。
「片岡さんは、普段はお仕事をされながら曲を作っているんですよね」
小川が穏やかに聞いた。
「はい」
まりあは小さく頷いた。
「システムの監視業務です。夜勤が多いですけど」
その言葉に、理沙が少しだけ顔を上げた。
「システム系なんですか」
「はい。理沙さんも、そうなんですか?」
「私は開発系です。会社では、業務システムを見ています」
「そうなんですね」
まりあは、少し意外に思った。
理沙は、ライブハウスで歌う人に見えた。
黒い革ジャンを着て、強い目でマイクの前に立つ人。
そういう印象が、さっきまでの会話だけでも何となくあった。
けれど、昼間は自分と同じように、どこかのオフィスでパソコンに向かっている。
それを知ると、理沙が少し近くなった気がした。
「監視って、大変ですよね」
理沙が言った。
「慣れれば、まあ」
まりあは少し笑った。
「でも、アラート音は嫌いです」
「分かります」
理沙が即答した。
その言い方があまりにも自然だったので、まりあは思わず笑った。
フィリップが身を乗り出す。
「Alert sound? 何それ、怖い?」
「怖いというより、心臓に悪い」
まりあが答える。
島崎がうなずいた。
「ドラムのカウントより嫌な音ですね」
「比べ方が変」
理沙が言うと、小川が笑った。
少しずつ、声が出るようになってきた。
まりあは、自分でもそれに気づいていた。
最初にビルの前で理沙たちを見たときは、正直、少し怖かった。
4人で来ている。
バンドとしてまとまっている。
自分は一人で、何を話せばいいのか分からなかった。
けれど、話してみると、理沙も緊張していた。
湯浅は静かだが、時々短い言葉で場を支えている。
フィリップは軽いが、悪気はない。
島崎はぼんやりしているようで、妙なところで鋭い。
少しだけ、胸のつかえが取れたような気がした。
やがて、電話を終えた柴原が応接コーナーへ戻ってきた。
よほど話し込んでいたのか、テーブルに近づくなり、少し首をかしげた。
「あれ、どこまで話しましたっけ?」
まりあは思わず苦笑した。
理沙も同じように口元を緩めている。
すぐ隣で、小川が淡々と言った。
「社長。歌を聴かせていただくところです」
「そうでした」
柴原は、少しだけ気まずそうに笑った。
「では、皆さんの歌を聴かせてもらいましょうか」
その一言で、空気が変わった。
まりあは、背筋を伸ばした。
いよいよだ。
小川に促され、一同は応接コーナーから立ち上がった。
オフィスの隅にあるドアを開けると、隣の部屋につながっていた。
そこは、防音加工された小さなスタジオだった。
広さは、さきほどまでいたオフィスと同じくらいだろうか。
壁は吸音材で覆われていて、外の音が急に遠くなる。
中央にマイクスタンドが一つ。
その周囲に、椅子が数脚。
部屋の隅には、音響装置と小さな操作卓が置かれていた。
まりあは、思わず周囲を見回した。
本格的なレコーディングスタジオというほど大げさではない。
けれど、歌を聴くための部屋としては、十分すぎるくらいだった。
事前に小川からは、今日歌う予定の音源だけを用意するように言われていた。
だから、理沙たちも楽器は持ってきていない。
理沙たちは、スマホから音源を音響装置に転送した。
まりあも、自分のスマホを取り出し、用意してきた音源のファイルを確認する。
指先が少し冷たかった。
先に歌うのは、理沙だった。
マイクの前に立つ理沙の後ろに、湯浅、フィリップ、島崎が並ぶ。
楽器はない。
それでも、3人は自然に立ち位置を決めた。
理沙が軽く振り返る。
湯浅が小さく頷く。
フィリップが肩の力を抜き、島崎が少し眠そうな顔のまま立つ。
その動きには、無駄がなかった。
定期的にライブハウスで歌っている人たちなのだと、まりあは思った。
一人で部屋にこもって録音してきた自分とは違う。
少しだけ、うらやましかった。
理沙はマイクの前で、柴原と小川、そしてまりあの方を見た。
「曲のタイトルは、『西日が差している』です」
声は落ち着いていた。
「ある一人の女性をモデルにして作りました。ずっと伝えたいことがあったのに、言えないまま時間だけが過ぎて、ある日、相手が急にいなくなってしまう。そういう曲です」
まりあは、理沙の横顔を見ていた。
説明は短い。
けれど、その中に、少しだけ痛みのようなものがあった。
音源が流れ始める。
イントロは静かだった。
理沙は、目を伏せるようにして息を吸った。
そして、歌い始めた。
<ポケットの隅で丸まったメモみたいに、君の事ばかり反芻(ループ)している>
まりあは、最初の数フレーズで、意識が少し引き寄せられるのを感じた。
声が強いからではない。
音程が正確だからでもない。
言葉が、変なところで近かった。
<恋なんてしないつもりだったのに、君の名前が胸の中で暴れている>
直接、風景を説明しているわけではない。
それなのに、まりあの頭の中には、晩夏のまだ暑いベランダが浮かんだ。
夕方でも、空気には熱が残っている。
缶ビールを片手に、何かを言おうとして、結局何も言えなかった女の人。
スマホの画面を何度も開いて、閉じる。
連絡しない理由を探しているのに、本当は連絡したいだけだと、自分でも分かっている。
それが理沙自身なのか、理沙が歌にした誰かなのかは分からなかった。
<連絡しない理由を探しても、会いたいときは会いたいだけだ>
まりあは、息をするのを少し忘れていた。
自分なら、この言葉は書かないと思った。
まりあは、気持ちを一度遠くに置いてから、言葉にすることが多かった。
夜勤明けの空。
母の写真。
誰も知らない朝。
そういう場所に、気持ちを少し隠してから書く。
けれど理沙の言葉は、もっと近い。
少し乱暴で、少し照れくさくて、でも逃げていない。
同じような風景を見ていたとしても、この人は、自分とは違う場所から歌にしている。
まりあは、そう思った。
<それでも、君を思い出すのがうれしい>
最後のフレーズは、思ったよりもやわらかかった。
怒りでも、後悔でもない。
失ったものを、まだ少しだけ大事にしているような声だった。
曲が終わった。
音源の残響が、壁に吸い込まれていく。
理沙はしばらく目を閉じていた。
それから、ゆっくりと頭を下げる。
小さなスタジオの中に、なんとも言えない柔らかな空気が残った。
まりあは、拍手をするのが少し遅れた。
それほど、まだ歌の中にいた。
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