002_11_個室オーディション(4)

次は、まりあが歌う番だった。
理沙は椅子に座ったまま、自然と姿勢を正した。

さっきまで自分が立っていたマイクの前に、まりあが1人で立つ。
バンドの3人を後ろに従えていた理沙とは違う。
まりあの背後には、誰もいない。

そのせいか、彼女の姿は少し小さく見えた。
けれど、逃げ出しそうな感じはなかった。

まりあはスマホの画面を確認し、音源を音響装置へ転送した。指先は少し緊張しているように見えたが、動作は静かだった。

マイクの前に立つと、まりあは柴原と小川、そして理沙たちの方を見た。

「曲のタイトルは、『誰のために歌うわけでもなく』です」

声は大きくなかった。
けれど、防音された部屋の中では、きちんと届いた。

「配信サイトには載せていない、まだ未発表の曲です。最初に作った、曲らしい曲だと思います」

まりあは少し目を伏せた。

「いつ作ったのか、はっきりしたきっかけは覚えていません。ただ……たぶん、自分に向けて作った曲です」

それだけ言って、まりあは軽く頭を下げた。
理沙は、黙って彼女を見ていた。

自分に向けて作った曲。
その言葉が、少し気になった。

音源が流れ始める。
とても簡素なイントロだった。

派手な音はない。
複雑な展開もない。
小さな部屋の中に、淡い光がゆっくり広がるような音だった。

まりあは目を閉じた。
そして、歌い始めた。

<カーテンの隙間から、朝の光が忍び込む>

静かな歌い出しだった。
理沙は目を閉じて、その声を聴いた。

特別に声量があるわけではない。
技術的に、圧倒されるほど上手いというわけでもない。

けれど、耳に残る声だった。

押してくるのではない。
引っ張り込まれる。
そういう歌い方だった。

<誰かの言葉に揺れて、泣きたくなる夜もある>

曲の作りは、非常に素朴だった。

伴奏も単純で、歌詞もまっすぐだった。
ところどころ、まだ磨ける部分があるようにも思える。
構成も、もう少し整えればよくなるのかもしれない。

理沙は、そういうことを頭の片隅で考えていた。

けれど、その考えはすぐに薄れていった。
完成度とは別のものが、そこにあった。

<でも不思議とこの胸の奥、まだ少しあったかい>

理沙は、「西日が差している」を作っていたときのことを思い出した。

最初に書いた言葉。
湯浅と何度も交わした議論。
メロディに合わせて削った部分。
歌いやすくするために変えた語尾。
ライブで歌ってみて、また修正した箇所。

あの曲は、いくつもの手を通って今の形になった。

それは悪いことではない。
むしろ、そうやって曲は育つのだと思っている。

けれど、まりあの曲には、違うものがあった。

まだ粗い。
まだ小さい。
でも、最初から真ん中にあるものが動いていない。

<すれ違う人の数だけ、幸せの数があるんだろう>

理沙は、再び目を閉じた。

まりあの歌声は、派手に広がるわけではない。
高く伸び上がるわけでもない。
ただ、消えそうな小さな光を、両手で守っているような声だった。
そのとき、ふと一つの言葉が浮かんだ。

線香花火の最後の光。

強い火花ではない。
打ち上げ花火のような華やかさもない。
けれど、落ちそうで落ちない小さな玉の中に、目を離せない光がある。

まりあの歌は、それに似ていた。

<うまく言えないけど、生きてるってそれだけで歌になる>

その一行を聴いたとき、理沙は少しだけ息を止めた。

生きているだけで歌になる。
そんな言葉を、自分は書くだろうか。

たぶん、書かない。

理沙なら、もっとひねる。
もっと疑う。
もっと遠回しにする。
あるいは、少し強がった言葉に変えてしまう。

けれど、まりあはそれを、そのまま歌っていた。

正面から。
飾らずに。
少し不安そうにしながら、それでも逃げずに。

短い曲だった。

最後の音が消えると、防音された部屋の中に、静かな余韻が残った。
理沙はすぐには目を開けなかった。

不完全だからこそ、まだ伸びる余地がある。
粗削りだからこそ、触れてはいけない芯がある。

そう思った。

やがて目を開けると、まりあが深く頭を下げていた。
歌い終えたあとの彼女は、さっきよりも少し小さく見えた。
自分の大事なものを差し出してしまったあとで、相手の反応を待っているようだった。

理沙は拍手をした。

湯浅も、フィリップも、島崎も続く。
小川も静かに手を叩いていた。

けれど、柴原だけはすぐには動かなかった。
彼は椅子に座ったまま、目を閉じていた。

まりあの表情が、少し不安そうになる。

柴原は、何かを考えているようだった。
しばらくして、彼は目を開けた。
そして、まりあを見た。

「ほかにも、まだ未公開の持ち歌はありますか?」

まりあは、拍子抜けしたような顔をした。

「……はい。いくつかは」

「そうですか」

柴原はそれだけ言って、小さく頷いた。

それが良かったという意味なのか。
もっと聴きたいという意味なのか。
それとも、別の何かを考えているのか。

理沙には分からなかった。
ただ、柴原が何かを見つけたのかもしれない、という気はした。

それで、2人のオーディションは終わった。
スタジオを出ると、オフィスの空気が少し違って感じられた。

柴原は、結果は後日あらためて連絡すると言った。
小川もそれに続き、今日のお礼と、今後の連絡について簡単に説明した。

すべてが終わって、理沙たち4人とまりあは、HALUCAのオフィスを出た。

外はもう夕方になっていた。
昼間の強い日差しは少しやわらぎ、ビルの窓に西日が反射している。

小川は一階の出口まで見送ってくれた。

「結果は、のちほどお伝えしますので、少しお待ちください」

「本日はありがとうございました」

理沙は頭を下げた。
まりあも隣で、小さく頭を下げている。

小川と別れたあと、理沙たちとまりあは、同じ最寄り駅へ向かって歩いた。

最初は、少しぎこちなかった。

何を話せばいいのか分からない。
けれど、何も話さないのも不自然だった。

フィリップが何か言いかけたが、理沙が横目で見たので黙った。
島崎は、暑いと言いながら額を拭いている。
湯浅は、少し後ろを歩いていた。

理沙は、隣を歩くまりあを見た。

「さっきの曲」

まりあが顔を上げる。

「はい」

「よかったです」

理沙は、少しだけ言葉を探した。

「うまく言えないけど、残りました」

まりあは一瞬、驚いたような顔をした。
それから、少し照れたように笑った。

「ありがとうございます。理沙さんの曲も……すごく、残りました」

2人は、それ以上うまく言葉を続けられなかった。
駅に着くころ、理沙はスマホを取り出した。

「よかったら、連絡先、交換しませんか」

まりあは、少し目を丸くしたあと、すぐに頷いた。

「はい」

画面を近づけ、連絡先を交換する。
ほんの数秒で終わる操作だった。

けれど理沙には、それが小さな約束のように感じられた。
改札の前で、まりあはもう一度頭を下げた。

「また」

「また」

理沙もそう返した。

まだ、友人というほどではない。
けれど、ただの初対面でもなくなっていた。

夕方の駅のざわめきの中で、理沙はスマホに追加された名前を、もう一度だけ見た。



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