次は、まりあが歌う番だった。
理沙は椅子に座ったまま、自然と姿勢を正した。
さっきまで自分が立っていたマイクの前に、まりあが1人で立つ。
バンドの3人を後ろに従えていた理沙とは違う。
まりあの背後には、誰もいない。
そのせいか、彼女の姿は少し小さく見えた。
けれど、逃げ出しそうな感じはなかった。
まりあはスマホの画面を確認し、音源を音響装置へ転送した。指先は少し緊張しているように見えたが、動作は静かだった。
マイクの前に立つと、まりあは柴原と小川、そして理沙たちの方を見た。
「曲のタイトルは、『誰のために歌うわけでもなく』です」
声は大きくなかった。
けれど、防音された部屋の中では、きちんと届いた。
「配信サイトには載せていない、まだ未発表の曲です。最初に作った、曲らしい曲だと思います」
まりあは少し目を伏せた。
「いつ作ったのか、はっきりしたきっかけは覚えていません。ただ……たぶん、自分に向けて作った曲です」
それだけ言って、まりあは軽く頭を下げた。
理沙は、黙って彼女を見ていた。
自分に向けて作った曲。
その言葉が、少し気になった。
音源が流れ始める。
とても簡素なイントロだった。
派手な音はない。
複雑な展開もない。
小さな部屋の中に、淡い光がゆっくり広がるような音だった。
まりあは目を閉じた。
そして、歌い始めた。
<カーテンの隙間から、朝の光が忍び込む>
静かな歌い出しだった。
理沙は目を閉じて、その声を聴いた。
特別に声量があるわけではない。
技術的に、圧倒されるほど上手いというわけでもない。
けれど、耳に残る声だった。
押してくるのではない。
引っ張り込まれる。
そういう歌い方だった。
<誰かの言葉に揺れて、泣きたくなる夜もある>
曲の作りは、非常に素朴だった。
伴奏も単純で、歌詞もまっすぐだった。
ところどころ、まだ磨ける部分があるようにも思える。
構成も、もう少し整えればよくなるのかもしれない。
理沙は、そういうことを頭の片隅で考えていた。
けれど、その考えはすぐに薄れていった。
完成度とは別のものが、そこにあった。
<でも不思議とこの胸の奥、まだ少しあったかい>
理沙は、「西日が差している」を作っていたときのことを思い出した。
最初に書いた言葉。
湯浅と何度も交わした議論。
メロディに合わせて削った部分。
歌いやすくするために変えた語尾。
ライブで歌ってみて、また修正した箇所。
あの曲は、いくつもの手を通って今の形になった。
それは悪いことではない。
むしろ、そうやって曲は育つのだと思っている。
けれど、まりあの曲には、違うものがあった。
まだ粗い。
まだ小さい。
でも、最初から真ん中にあるものが動いていない。
<すれ違う人の数だけ、幸せの数があるんだろう>
理沙は、再び目を閉じた。
まりあの歌声は、派手に広がるわけではない。
高く伸び上がるわけでもない。
ただ、消えそうな小さな光を、両手で守っているような声だった。
そのとき、ふと一つの言葉が浮かんだ。
線香花火の最後の光。
強い火花ではない。
打ち上げ花火のような華やかさもない。
けれど、落ちそうで落ちない小さな玉の中に、目を離せない光がある。
まりあの歌は、それに似ていた。
<うまく言えないけど、生きてるってそれだけで歌になる>
その一行を聴いたとき、理沙は少しだけ息を止めた。
生きているだけで歌になる。
そんな言葉を、自分は書くだろうか。
たぶん、書かない。
理沙なら、もっとひねる。
もっと疑う。
もっと遠回しにする。
あるいは、少し強がった言葉に変えてしまう。
けれど、まりあはそれを、そのまま歌っていた。
正面から。
飾らずに。
少し不安そうにしながら、それでも逃げずに。
短い曲だった。
最後の音が消えると、防音された部屋の中に、静かな余韻が残った。
理沙はすぐには目を開けなかった。
不完全だからこそ、まだ伸びる余地がある。
粗削りだからこそ、触れてはいけない芯がある。
そう思った。
やがて目を開けると、まりあが深く頭を下げていた。
歌い終えたあとの彼女は、さっきよりも少し小さく見えた。
自分の大事なものを差し出してしまったあとで、相手の反応を待っているようだった。
理沙は拍手をした。
湯浅も、フィリップも、島崎も続く。
小川も静かに手を叩いていた。
けれど、柴原だけはすぐには動かなかった。
彼は椅子に座ったまま、目を閉じていた。
まりあの表情が、少し不安そうになる。
柴原は、何かを考えているようだった。
しばらくして、彼は目を開けた。
そして、まりあを見た。
「ほかにも、まだ未公開の持ち歌はありますか?」
まりあは、拍子抜けしたような顔をした。
「……はい。いくつかは」
「そうですか」
柴原はそれだけ言って、小さく頷いた。
それが良かったという意味なのか。
もっと聴きたいという意味なのか。
それとも、別の何かを考えているのか。
理沙には分からなかった。
ただ、柴原が何かを見つけたのかもしれない、という気はした。
それで、2人のオーディションは終わった。
スタジオを出ると、オフィスの空気が少し違って感じられた。
柴原は、結果は後日あらためて連絡すると言った。
小川もそれに続き、今日のお礼と、今後の連絡について簡単に説明した。
すべてが終わって、理沙たち4人とまりあは、HALUCAのオフィスを出た。
外はもう夕方になっていた。
昼間の強い日差しは少しやわらぎ、ビルの窓に西日が反射している。
小川は一階の出口まで見送ってくれた。
「結果は、のちほどお伝えしますので、少しお待ちください」
「本日はありがとうございました」
理沙は頭を下げた。
まりあも隣で、小さく頭を下げている。
小川と別れたあと、理沙たちとまりあは、同じ最寄り駅へ向かって歩いた。
最初は、少しぎこちなかった。
何を話せばいいのか分からない。
けれど、何も話さないのも不自然だった。
フィリップが何か言いかけたが、理沙が横目で見たので黙った。
島崎は、暑いと言いながら額を拭いている。
湯浅は、少し後ろを歩いていた。
理沙は、隣を歩くまりあを見た。
「さっきの曲」
まりあが顔を上げる。
「はい」
「よかったです」
理沙は、少しだけ言葉を探した。
「うまく言えないけど、残りました」
まりあは一瞬、驚いたような顔をした。
それから、少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。理沙さんの曲も……すごく、残りました」
2人は、それ以上うまく言葉を続けられなかった。
駅に着くころ、理沙はスマホを取り出した。
「よかったら、連絡先、交換しませんか」
まりあは、少し目を丸くしたあと、すぐに頷いた。
「はい」
画面を近づけ、連絡先を交換する。
ほんの数秒で終わる操作だった。
けれど理沙には、それが小さな約束のように感じられた。
改札の前で、まりあはもう一度頭を下げた。
「また」
「また」
理沙もそう返した。
まだ、友人というほどではない。
けれど、ただの初対面でもなくなっていた。
夕方の駅のざわめきの中で、理沙はスマホに追加された名前を、もう一度だけ見た。
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