002_12_アイドルになりたくない

週末は、朝から夕方まで土砂降りの雨だった。

窓の外では、雨粒が絶え間なくベランダの手すりを叩いていた。空は暗く、昼なのに部屋の中まで薄い灰色に沈んでいる。
理沙は自宅で、ほとんど何もできないまま過ごした。

洗濯もできない。
買い物に出る気にもならない。
配信サイトの数字を見ても、すぐに閉じてしまう。

何度も考えたのは、HALUCAのことだった。

柴原勝。
小川美奈。
発掘システム。
個室スタジオ。
まりあの歌。

そして、自分たちはいったい何を望んでいるのか。
答えは出なかった。
雨の音だけが、ずっと部屋の中にあった。

週が明けて、月曜日。

昨日の雨が嘘のように、空は晴れていた。雲一つない夏空だった。
朝から気温は30度を超えている。駅まで歩くだけで、背中に汗がにじんだ。
理沙はいつものように会社へ向かい、空調の効いたオフィスに入った。

外の熱気が遠ざかる。
蛍光灯の白い光。
キーボードの音。
誰かの小さな話し声。

いつもの月曜日のはずだった。

けれど、理沙はすぐに違和感に気づいた。
目の前の作業グループの島に、誰もいなかった。

先週までは、そこに10人近いメンバーが座っていた。
朝から誰かが電話をし、別の誰かが資料を開き、リーダーらしい男性が何度も立ち上がっては周囲に指示を出していた。

それが、今朝は空っぽだった。
椅子だけがきれいに机の下へ収まっている。モニターの電源も入っていない。誰かの私物もほとんど見当たらなかった。

理沙は席に着くと、社内掲示板を開いた。
組織変更の通知が出ていた。

顧客側の判断により、該当プロジェクトは前週末で終了。
メンバーは自宅待機。体制表からも、その作業グループの名前は消えていた。

昨日までそこにあったものが、月曜日の朝にはなくなっている。
理沙はしばらく、空いた島を見つめた。

明日は我が身。

そんな言葉が、自然と頭に浮かんだ。
会社員として働いている以上、こういうことは珍しくない。分かっている。分かってはいる。
けれど、実際に目の前で一つの島が消えているのを見ると、少しだけ背中が冷えた。

理沙は深く息を吐き、仕事用の画面を開いた。
今は、自分の作業をするしかない。

1時間ほど集中すると、週末から頭に残っていたHALUCAのことも、少しだけ遠ざかった。
画面の中の仕様書と、修正対象のコードと、確認しなければならない一覧表が、目の前の現実になっていく。

そのとき、机の端に置いたスマホが小さく震えた。
理沙は、何気なく画面を見た。

<小川です。。。>

胸が一瞬、締めつけられた。

結果が来たのか。
理沙は、指先に力が入るのを感じながら、通知を開いた。

送信元は、湯浅だった。

理沙は一瞬、固まった。
それから、爆弾のアイコンを3つ並べた怒りのメッセージを返した。
すぐに湯浅から返信が来た。

<すまんすまん>

続けて、もう一通。

<まだ、決めないの?>

理沙は画面を見たまま、少しだけ目を閉じた。

先日の土曜日の夜のことが、また頭に戻ってくる。
HALUCAのオフィスを出たあと、理沙たちはまりあと駅で別れ、そのまま新宿の居酒屋に入った。
反省会という名目だったが、半分はただの飲み直しだった。

湯浅も、フィリップも、島崎も、気持ちは前向きだった。
もちろん、3人とも完全に無警戒だったわけではない。

契約書はしっかり見た方がいい。
柴原の本心は、まだ分からない。
HALUCAが何を考えているのかも、全部は見えていない。

それでも、3人の結論は似ていた。

柴原は、自分たちを評価している。
小川は、少なくとも悪い人間には見えない。
そして、この機会を何もしないで流すのは惜しい。

フィリップは、いつものように色めき立っていた。

「Big chanceだよ。こういうの、二度目が来るか分からない」

島崎も、珍しく真面目な顔で頷いていた。

「怪しいかどうかは、契約内容を見てからでも遅くないと思う」

湯浅は、少し慎重だった。

「社長の本心は、まだ聞けてない。でも、面白そうなことを考えてるのは確かやと思う」

3人の言うことは、分かる。
分かるからこそ、理沙は余計に黙り込んだ。

「でも、うまく説明できないんだけど……」

理沙は、その夜、何度もそう言った。
柴原が、自分たちのどこを評価したのかを明かさなかったこと。
それが引っかかっているのは確かだった。

けれど、それだけではない。
もっと根本的に、気持ちの方向が合っていないような感覚があった。

HALUCAに入れば、たぶん環境は変わる。
機材も、宣伝も、人も、今よりずっと整うのかもしれない。自分たちだけでは届かなかった場所に、届く可能性もある。
けれど、その代わりに、自分たちが何を歌うのかを、自分たちだけで決められなくなるかもしれない。

柴原の描く計画の中に、組み込まれるのかもしれない。
理沙はそのことを、うまく言葉にできなかった。

「操り人形になるのは嫌なの」

ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
フィリップが眉をひそめた。

「操り人形って、ちょっと言いすぎじゃない?」

島崎も続ける。

「まだ何も決まってないし」

湯浅は、黙って理沙を見ていた。

「じゃあ、理沙はいったい何がしたいの?」

その一言で、理沙は詰まった。

何がしたいのか。

歌いたい。
それは確かだった。

でも、どこで。
誰に向けて。
何を。
どんな形で。

そこまで聞かれると、答えられなかった。
スマホの画面に、湯浅からのメッセージが続いている。

<土曜日の続きやけど>

<理沙が引っかかってるのは分かる>

<でも、断るにしても、何を理由に断るのかは決めた方がええと思う>

理沙は、しばらく画面を見つめていた。

仕事中だった。
けれど、もう作業画面の文字は頭に入ってこなかった。
理沙は短く返信した。

<いったん、断ろうよ>

送信してから、スマホを伏せた。
湯浅からの追伸は、それ以上来なかった。

午後は、いつもより長く感じた。

理沙は仕事に戻ったが、集中は途切れがちだった。
目の前のコードを追いながらも、ふとした瞬間に、HALUCAのスタジオが頭に浮かぶ。

まりあの歌。
柴原の沈黙。
小川のきまり悪そうな顔。
そして、3人の期待。

夕方になり、終業時刻が近づいたころ、スマホが再び震えた。
今度は、本当に小川からだった。

<先日は、どうもありがとうございました>

理沙は息を止めるようにして、続きを読んだ。

<柴原と検討しましたが、皆さんを採用したいと考えています>

その一文を読んだ瞬間、胸の奥が小さく揺れた。

採用。

言葉にされると、急に現実味が増した。
続くメッセージには、契約に向けての今後の段取りが書かれていた。契約書の内容については、明日にも送るという。
小川の文面は相変わらず丁寧だった。押しつけがましさはない。けれど、確実に次の扉が開いている。

その裏で、湯浅、フィリップ、島崎から次々とメッセージが届いた。

<来たな>

<Big chance!>

<契約書は読むとして、すごいね>

3人とも興奮していた。
そして、いつものように、最後は理沙に視線が集まっているような気がした。

どうするのか。
進むのか。
断るのか。

理沙は、小川への返信欄を開いた。

すぐには言葉が出なかった。
とりあえず、短く打つ。

<小川さん、こちらこそありがとうございます>

送信してから、理沙はスマホを伏せた。

終業後、理沙は会社を出た。
外はまだ明るく、空には夕方の熱が残っていた。電車の中で、理沙は吊り革につかまりながら、ずっと考えていた。

3人の言うことは分かる。
この機会を逃すのは惜しい。

それでも、進むことが正しいとは思えなかった。

最寄り駅に着くと、理沙は駅前のラーメン屋に入った。いつもの店だった。
券売機で食券を買い、カウンターに座る。湯気の上がる丼を前にしても、味はあまり分からなかった。

それでも、食べた。

食べ終えると、家に帰った。
風呂に入り、髪を乾かすのもそこそこに、ベッドの上に横になった。

天井を見上げる。

会社で消えていた作業グループの島を思い出す。
柴原の言葉を思い出す。
歌い終えたまりあの、不安そうな顔を思い出す。

理沙はスマホを手に取った。
まず、湯浅とフィリップと島崎に、自分の考えを短く送った。

すぐに3人から返事が来た。
いくつかの反論と、いくつかのため息と、最後には短い了解。

それを確認してから、理沙は小川へのメッセージ画面を開いた。

指先がしばらく止まった。
それから、ゆっくりと文字を打ち始める。

<いろいろと考えてみたのですが……>



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