<いろいろと考えてみたのですが……>
小川は、理沙から届いたメッセージを眺めていた。
朝から、少し浮かない気分だった。
送られてきた文面は、丁寧だった。
失礼なところはない。
むしろ、言葉を選んでいることがよく分かる。
けれど、それが断りの返事であることも、読み始めてすぐに分かった。
<今回のご厚意には感謝しています。でも、今の私たちには、その期待に応える心構えができていません>
小川は、隣に座る柴原に視線を向けた。
柴原も、ノートパソコンの画面に表示された同じメッセージを読んでいた。
2人はしばらく黙っていた。
やがて、小川が小さく息を吐いた。
「断られましたね」
「そうですね」
柴原は、思ったよりも落ち着いていた。
小川は画面を少し下へ送る。
<しばらくの間、もっと腕を磨きたいと思っています。その日が来るまで温かく見守っていただけると幸いです>
小川は、そこで手を止めた。
きれいな断り方だった。
相手を傷つけない。
こちらの申し出も否定しない。
将来の余地も残している。
大人の対応と言えば、そうだった。
ただ、小川には、それが少しだけ逃げにも見えた。
柴原は椅子の背にもたれ、短く息を吐いた。
「なるほどね」
「落胆されてますか」
小川が聞くと、柴原は首を横に振った。
「いや。なんとなく、こんな返事が来る気はしていました」
柴原はノートパソコンから視線を上げ、窓の外を眺めた。
午前の光が、向かいのビルの窓に反射している。
外はすでに暑そうだった。
「彼女は、悩んでいますね」
「理沙さんですか」
「ええ」
柴原は頷いた。
「自分たちに可能性があることは分かっている。けれど、その可能性を他人に預けるのが怖い。だから、いったん保留にして、時間を稼いだ」
小川は黙って聞いていた。
理沙の文面は、たしかに断りではある。
だが、完全に扉を閉めるものではなかった。
「このまま進んだら、どこかで壁にぶつかると思っているのでしょう」
柴原は続けた。
「環境が整えば整うほど、自分たちが何をしたいのかを問われる。そこにまだ答えがない」
小川は、少しだけ眉を寄せた。
「限界、ということでしょうか」
柴原は、すぐには答えなかった。
少し考えるように、窓の外を見ている。
小川は、理沙の限界のようなものを柴原が見抜いたのだと思った。
しかし、返ってきた言葉は違った。
「いえ。むしろ逆かもしれません」
「逆、ですか」
小川は聞き返した。
「歌手として、ですか」
柴原は小さく首を振った。
「いや。そこが、少し違う」
柴原は、もう一度ノートパソコンの画面に目を落とした。
そこには、理沙の丁寧な断りの文面がまだ表示されている。
「もしかすると私たちは、歌手というより、とんでもない人材を発掘したのかもしれない」
小川は、すぐには意味を飲み込めなかった。
「理沙さんのことですか」
「ええ」
柴原は静かに言った。
「彼女は、こちらが用意した道に乗ることを怖がっている。けれど、それは単なる臆病さではない。自分で道を作りたい人間の反応です」
小川は、理沙が個室スタジオで質問したときのことを思い出した。
自分たちのどこを評価したのか。
あの問いは、ただ褒められたいから出たものではなかったのかもしれない。
「では、どうしますか」
小川が聞いた。
柴原は、少しだけ笑った。
「待ちましょう。こちらから無理に引っ張っても、たぶんうまくいかない」
「まりあさんは」
「彼女は、別です」
柴原の声は、わずかに変わった。
「片岡さんには、こちらが手を差し伸べる意味がある。たぶん、彼女は一人では届かない場所まで行ける」
小川は頷いた。
理沙とまりあ。
同じ日に呼ばれ、同じ部屋で歌った2人。
けれど、進む道はすでに分かれ始めているのかもしれなかった。
同じころ。
じりじりと暑い日差しが、ビルの壁を焼いている午前中、理沙は会社で黙々と仕事に集中していた。
昨日まで頭の中にあった重さは、少しだけ薄れていた。
HALUCAへの返事は送った。
湯浅たちにも、自分の考えは伝えた。
3人が完全に納得しているわけではない。
それでも、一度決めたことで、気持ちは少し軽くなっていた。
作業の手も、いつもより動く。
仕様書を確認し、修正箇所を洗い出し、テスト用のデータを作る。
画面上の文字が、ようやく目の前のものとして入ってくる。
スマホが小さく震えた。
小川からの返信かと思った。
理沙はすぐには手を伸ばさなかった。
ちょうど処理の切れ目まで進めてから、ようやく画面を開いた。
送信元は、湯浅だった。
<さすが、大人の対応>
理沙は、少しだけ眉を上げた。
変な褒め方だった。
けれど、悪い気はしなかった。
<あたしなりに、いろいろと考えたんだよ>
そう返すと、しばらくして湯浅から短い返信が来た。
<分かってる>
その一言で、少し肩の力が抜けた。
昼休みのあと、理沙は再び湯浅にメッセージを送った。
<新しい詩のアイディアが、なんとなく湧いてきたような>
すぐに既読がついた。
<どんなやつ?>
理沙はスマホを見つめ、少しだけ笑った。
<週末に見せる>
<怖いな>
<怖がっておいて>
それから、週末に4人で「白河」に集まる約束をした。
金曜日の夜遅く。
理沙は営業終了時刻が近づいた「白河」に入った。
店内は、いつものように落ち着いた空気だった。
カウンターの照明は少し暗く、棚の酒瓶が柔らかく光っている。
湯浅はカウンターの中で、最後の客のグラスを片づけていた。
「おつかれ」
理沙が言うと、湯浅は顔を上げた。
「おつかれ。今日も暑かったな」
「溶けるかと思った」
「まだ溶けてへんから大丈夫や」
そんな会話をしているうちに、閉店時間が近づいていく。
営業終了時刻ぎりぎりになって、フィリップと島崎がほとんど同時に現れた。
「セーフ?」
フィリップが店に入るなり聞いた。
「ぎりぎりアウト」
湯浅が答える。
「Outかよ」
「まあ、入れてるからええやろ」
島崎は何も言わず、いつもの席に座った。
「暑い。ビール」
「注文だけは早いな」
湯浅が呆れたように言いながらも、グラスを用意する。
閉店後、店の入口に札が掛けられ、照明が少し落とされた。
4人はカウンターの端に集まった。
最初は、いつものように雑談だった。
仕事の愚痴。
暑さの話。
フィリップの家の子どもが最近覚えた変な言葉。
島崎がまた朝寝坊しかけた話。
酒が少し入ると、話題は自然とHALUCAのことに戻った。
「でも、理沙の断り方は良かったと思うよ」
島崎が言った。
「ちゃんとしてた」
フィリップも頷く。
「うん。俺だったら、もっと雑に書いてた。Maybe、やばかった」
「フィリップが書かなくてよかった」
理沙が言うと、フィリップは肩をすくめた。
湯浅はグラスを置きながら言った。
「相手を怒らせへん断り方としては、かなり良かったと思う」
「褒められてる気がしない」
「褒めてる」
「ほんとに?」
「半分くらい」
理沙は軽く睨んだ。
そのあと、湯浅が少し声を落とした。
「それで」
理沙は、何となく聞かれることが分かっていた。
「詩のアイディアって、どんなの?」
フィリップと島崎も、同じように理沙を見る。
理沙は、待っていたと言わんばかりにスマホを取り出した。
「見せる前に言っておくけど」
「何」
湯浅が聞く。
「ひどいよ」
「いつものことやろ」
「いつもよりひどい」
フィリップが少し身を乗り出した。
「それ、期待していいやつ?」
「たぶん、期待しない方がいい」
そう言いながら、理沙はスマホを操作した。
「白河」の壁面ディスプレイに、スマホの中のテキストが表示される。
最初の一行を見た瞬間、3人の表情が変わった。
<疲労でかすむ視界、ビルの灯かりが嘲笑う>
しばらく、誰も何も言わなかった。
湯浅が目を細める。
フィリップが口を開けたまま固まる。
島崎は、すでに少し嫌そうな顔をしていた。
理沙はかまわず、画面を少し下へ送った。
そこには、さらに言葉が並んでいる。
<無表情のまま、魂だけが減ってゆく>
<上司の嘘、耳が腐るわ>
理沙はそれを、まるで呪文のように小さな声で読み上げた。
「……耳が腐るわ、って」
島崎がつぶやく。
「直接すぎない?」
フィリップも、さすがに苦笑していた。
「なんか、欲求不満のはけ口みたいな」
以前、労働への不満をそのまま曲にしようとしていたフィリップでさえ、あまりいい顔をしていない。
理沙は、さらに画面を下へ送る。
そこには、英語交じりのサビらしき部分があった。
<Bullshit Job!Bullshit Job!>
フィリップが深いため息をついた。
「それ、俺が言うならまだ分かるけど」
「フィリップでも言わないんだ」
「言わないよ。そこまで直球じゃない」
島崎が、呆れたように笑った。
「これ、歌にするの?」
「するかもしれない」
「本気で?」
「わりと」
湯浅は、壁面ディスプレイに表示された文字をしばらく眺めていた。
それから、短く言った。
「最低だな」
その言葉を待っていたかのように、理沙は笑みを浮かべた。
「ホントに、最低な詩でしょ?」
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