002_13_他人がやらない事

<いろいろと考えてみたのですが……>

小川は、理沙から届いたメッセージを眺めていた。
朝から、少し浮かない気分だった。

送られてきた文面は、丁寧だった。
失礼なところはない。
むしろ、言葉を選んでいることがよく分かる。
けれど、それが断りの返事であることも、読み始めてすぐに分かった。

<今回のご厚意には感謝しています。でも、今の私たちには、その期待に応える心構えができていません>

小川は、隣に座る柴原に視線を向けた。
柴原も、ノートパソコンの画面に表示された同じメッセージを読んでいた。

2人はしばらく黙っていた。
やがて、小川が小さく息を吐いた。

「断られましたね」

「そうですね」

柴原は、思ったよりも落ち着いていた。
小川は画面を少し下へ送る。

<しばらくの間、もっと腕を磨きたいと思っています。その日が来るまで温かく見守っていただけると幸いです>

小川は、そこで手を止めた。

きれいな断り方だった。

相手を傷つけない。
こちらの申し出も否定しない。
将来の余地も残している。

大人の対応と言えば、そうだった。
ただ、小川には、それが少しだけ逃げにも見えた。

柴原は椅子の背にもたれ、短く息を吐いた。

「なるほどね」

「落胆されてますか」

小川が聞くと、柴原は首を横に振った。

「いや。なんとなく、こんな返事が来る気はしていました」

柴原はノートパソコンから視線を上げ、窓の外を眺めた。

午前の光が、向かいのビルの窓に反射している。
外はすでに暑そうだった。

「彼女は、悩んでいますね」

「理沙さんですか」

「ええ」

柴原は頷いた。

「自分たちに可能性があることは分かっている。けれど、その可能性を他人に預けるのが怖い。だから、いったん保留にして、時間を稼いだ」

小川は黙って聞いていた。

理沙の文面は、たしかに断りではある。
だが、完全に扉を閉めるものではなかった。

「このまま進んだら、どこかで壁にぶつかると思っているのでしょう」

柴原は続けた。

「環境が整えば整うほど、自分たちが何をしたいのかを問われる。そこにまだ答えがない」

小川は、少しだけ眉を寄せた。

「限界、ということでしょうか」

柴原は、すぐには答えなかった。
少し考えるように、窓の外を見ている。
小川は、理沙の限界のようなものを柴原が見抜いたのだと思った。

しかし、返ってきた言葉は違った。

「いえ。むしろ逆かもしれません」

「逆、ですか」

小川は聞き返した。

「歌手として、ですか」

柴原は小さく首を振った。

「いや。そこが、少し違う」

柴原は、もう一度ノートパソコンの画面に目を落とした。
そこには、理沙の丁寧な断りの文面がまだ表示されている。

「もしかすると私たちは、歌手というより、とんでもない人材を発掘したのかもしれない」

小川は、すぐには意味を飲み込めなかった。

「理沙さんのことですか」

「ええ」

柴原は静かに言った。

「彼女は、こちらが用意した道に乗ることを怖がっている。けれど、それは単なる臆病さではない。自分で道を作りたい人間の反応です」

小川は、理沙が個室スタジオで質問したときのことを思い出した。

自分たちのどこを評価したのか。
あの問いは、ただ褒められたいから出たものではなかったのかもしれない。

「では、どうしますか」

小川が聞いた。
柴原は、少しだけ笑った。

「待ちましょう。こちらから無理に引っ張っても、たぶんうまくいかない」

「まりあさんは」

「彼女は、別です」

柴原の声は、わずかに変わった。

「片岡さんには、こちらが手を差し伸べる意味がある。たぶん、彼女は一人では届かない場所まで行ける」

小川は頷いた。

理沙とまりあ。
同じ日に呼ばれ、同じ部屋で歌った2人。
けれど、進む道はすでに分かれ始めているのかもしれなかった。

同じころ。

じりじりと暑い日差しが、ビルの壁を焼いている午前中、理沙は会社で黙々と仕事に集中していた。
昨日まで頭の中にあった重さは、少しだけ薄れていた。

HALUCAへの返事は送った。
湯浅たちにも、自分の考えは伝えた。
3人が完全に納得しているわけではない。

それでも、一度決めたことで、気持ちは少し軽くなっていた。

作業の手も、いつもより動く。
仕様書を確認し、修正箇所を洗い出し、テスト用のデータを作る。
画面上の文字が、ようやく目の前のものとして入ってくる。

スマホが小さく震えた。

小川からの返信かと思った。
理沙はすぐには手を伸ばさなかった。
ちょうど処理の切れ目まで進めてから、ようやく画面を開いた。

送信元は、湯浅だった。

<さすが、大人の対応>

理沙は、少しだけ眉を上げた。
変な褒め方だった。
けれど、悪い気はしなかった。

<あたしなりに、いろいろと考えたんだよ>

そう返すと、しばらくして湯浅から短い返信が来た。

<分かってる>

その一言で、少し肩の力が抜けた。

昼休みのあと、理沙は再び湯浅にメッセージを送った。

<新しい詩のアイディアが、なんとなく湧いてきたような>

すぐに既読がついた。

<どんなやつ?>

理沙はスマホを見つめ、少しだけ笑った。

<週末に見せる>

<怖いな>

<怖がっておいて>

それから、週末に4人で「白河」に集まる約束をした。

金曜日の夜遅く。
理沙は営業終了時刻が近づいた「白河」に入った。

店内は、いつものように落ち着いた空気だった。
カウンターの照明は少し暗く、棚の酒瓶が柔らかく光っている。

湯浅はカウンターの中で、最後の客のグラスを片づけていた。

「おつかれ」

理沙が言うと、湯浅は顔を上げた。

「おつかれ。今日も暑かったな」

「溶けるかと思った」

「まだ溶けてへんから大丈夫や」

そんな会話をしているうちに、閉店時間が近づいていく。
営業終了時刻ぎりぎりになって、フィリップと島崎がほとんど同時に現れた。

「セーフ?」

フィリップが店に入るなり聞いた。

「ぎりぎりアウト」

湯浅が答える。

「Outかよ」

「まあ、入れてるからええやろ」

島崎は何も言わず、いつもの席に座った。

「暑い。ビール」

「注文だけは早いな」

湯浅が呆れたように言いながらも、グラスを用意する。

閉店後、店の入口に札が掛けられ、照明が少し落とされた。
4人はカウンターの端に集まった。
最初は、いつものように雑談だった。

仕事の愚痴。
暑さの話。
フィリップの家の子どもが最近覚えた変な言葉。
島崎がまた朝寝坊しかけた話。

酒が少し入ると、話題は自然とHALUCAのことに戻った。

「でも、理沙の断り方は良かったと思うよ」

島崎が言った。

「ちゃんとしてた」

フィリップも頷く。

「うん。俺だったら、もっと雑に書いてた。Maybe、やばかった」

「フィリップが書かなくてよかった」

理沙が言うと、フィリップは肩をすくめた。
湯浅はグラスを置きながら言った。

「相手を怒らせへん断り方としては、かなり良かったと思う」

「褒められてる気がしない」

「褒めてる」

「ほんとに?」

「半分くらい」

理沙は軽く睨んだ。
そのあと、湯浅が少し声を落とした。

「それで」

理沙は、何となく聞かれることが分かっていた。

「詩のアイディアって、どんなの?」

フィリップと島崎も、同じように理沙を見る。
理沙は、待っていたと言わんばかりにスマホを取り出した。

「見せる前に言っておくけど」

「何」

湯浅が聞く。

「ひどいよ」

「いつものことやろ」

「いつもよりひどい」

フィリップが少し身を乗り出した。

「それ、期待していいやつ?」

「たぶん、期待しない方がいい」

そう言いながら、理沙はスマホを操作した。

「白河」の壁面ディスプレイに、スマホの中のテキストが表示される。

最初の一行を見た瞬間、3人の表情が変わった。

<疲労でかすむ視界、ビルの灯かりが嘲笑う>

しばらく、誰も何も言わなかった。

湯浅が目を細める。
フィリップが口を開けたまま固まる。
島崎は、すでに少し嫌そうな顔をしていた。

理沙はかまわず、画面を少し下へ送った。
そこには、さらに言葉が並んでいる。

<無表情のまま、魂だけが減ってゆく>

<上司の嘘、耳が腐るわ>

理沙はそれを、まるで呪文のように小さな声で読み上げた。

「……耳が腐るわ、って」

島崎がつぶやく。

「直接すぎない?」

フィリップも、さすがに苦笑していた。

「なんか、欲求不満のはけ口みたいな」

以前、労働への不満をそのまま曲にしようとしていたフィリップでさえ、あまりいい顔をしていない。

理沙は、さらに画面を下へ送る。
そこには、英語交じりのサビらしき部分があった。

<Bullshit Job!Bullshit Job!>

フィリップが深いため息をついた。

「それ、俺が言うならまだ分かるけど」

「フィリップでも言わないんだ」

「言わないよ。そこまで直球じゃない」

島崎が、呆れたように笑った。

「これ、歌にするの?」

「するかもしれない」

「本気で?」

「わりと」

湯浅は、壁面ディスプレイに表示された文字をしばらく眺めていた。
それから、短く言った。

「最低だな」

その言葉を待っていたかのように、理沙は笑みを浮かべた。

「ホントに、最低な詩でしょ?」



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