002_14_労基に駆け込みたい

「ホントに、最低な詩でしょ?」

理沙は、少し楽しそうにそう言った。
壁面ディスプレイには、まだ例の詩が表示されている。

<疲労でかすむ視界、ビルの灯かりが嘲笑う>

<無表情のまま、魂だけが減ってゆく>

<上司の嘘、耳が腐るわ>

<Bullshit Job!Bullshit Job!>

湯浅はグラスを持ったまま、しばらく画面を眺めていた。
フィリップは腕を組み、どう反応すればいいのか分からない顔をしている。
島崎は、少しだけ目を細めていた。

「このまま歌うだけじゃ、単なる恨み節にしかならない」

理沙は言った。

「それは分かる」

湯浅が短く答える。

「というか、今のままだと恨み節にもなってない。ほぼ悪口」

「そこまで言う?」

「言う」

フィリップが画面を指さした。

「これ、ライブで歌ったら、客が引くと思うよ」

「普通に歌ったらね」

理沙はそう言って、意味ありげに笑った。
湯浅もフィリップも、まだ分かっていないようだった。
理沙はグラスを置き、壁面ディスプレイに映る文字を見上げた。

「でも、この最低な詩に、最高にカッコいい曲をつけたらどうなると思う?」

誰もすぐには答えなかった。
店内の空調の音だけが、静かに続いている。

フィリップは眉を寄せた。

「最高にカッコいい曲?」

「そう」

「この詩に?」

「この詩に」

「なんで?」

「なんでって」

理沙は、少し肩をすくめた。

「普通はやらないから」

その言葉に、最初に反応したのは島崎だった。
彼は壁面ディスプレイの文字を見たまま、ゆっくり頷いた。

「なるほどね」

理沙は島崎の方を見た。

「分かった?」

「たぶん」

「さすが」

理沙は片手を上げた。
島崎は少し面倒くさそうな顔をしながらも、手を上げる。
2人は軽くハイタッチした。

フィリップが納得のいかない顔をする。

「何? 何が分かったの?」

島崎はグラスを手に取りながら言った。

「この歌詞だけ見たら、ただの愚痴でしょ」

「うん」

「でも、曲がやたらカッコよかったら、愚痴じゃなくなるかもしれない」

フィリップはまだ首をかしげている。
理沙は彼の方を向いた。

「だから、フィリップ」

「何?」

「この最低な詩のために、あなたがお得意の最高にカッコいい曲を作ってみてよ」

フィリップは、一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ目の色が変わった。

「最高にカッコいい曲なら、作れる」

「でしょ」

「意味はまだ、完全には分かってないけど」

「分かってなくてもいい」

「いいの?」

「たぶん、作ってるうちに分かる」

理沙はそう言って、立ち上がった。

カウンターの端から少し離れ、まだ存在していない曲を頭の中で鳴らすように、壁面ディスプレイの文字を見つめる。
そして、マイクもないのに、歌う真似をした。

<疲労でかすむ視界、ビルの灯かりが嘲笑う>

声には出さない。
けれど、姿勢と表情だけで、ステージ上の自分を作る。

肩でリズムを取り、少しだけ笑う。
客席を挑発するように目を細める。
最低な言葉を、まるで最高に上等な歌詞のように扱う。

湯浅の表情が、そこで少し変わった。

「ああ」

小さく、そう言った。
理沙は歌う真似をやめ、湯浅を見る。

「分かった?」

「ちょっとだけ」

「遅い」

「悪かったな」

湯浅は壁面ディスプレイを見直した。

「ライブでうまくはまったら、かなり強いかもしれん」

「でしょ」

「でも、難しいぞ」

「分かってる」

「下手したら、ほんまにただの悪口ソングになる」

「だから、最高にカッコよくするの」

理沙は、もう一度フィリップを見た。

「曲、頼んだ」

フィリップはグラスを置き、胸を張った。

「Okay. 最高にカッコいいやつね」

「お願い」

「ただし、タイトルは変えたい」

「なんで?」

「Bullshit Jobは直球すぎる」

島崎がぼそっと言った。

「労基に駆け込みたい、とか」

理沙は一瞬黙り、それから吹き出した。

「何それ」

「今の歌詞、全部そういう顔してる」

湯浅も笑った。

「意外とええかもしれん」

フィリップは納得していない顔だったが、スマホに何かをメモし始めた。

「とりあえず仮タイトルね」

「仮でいいよ」

理沙は席に戻った。

その後、4人は朝まで飲んだ。
曲の話をしていたはずが、途中から関係のない話になり、また曲に戻り、
フィリップが妙なベースラインを口で鳴らし、島崎がテーブルを指で叩き、湯浅がそれを止め、理沙がまた笑った。

気づけば、外はうっすら明るくなっていた。

翌日。

理沙は日中のほとんどを、二日酔いの状態でベッドの上で過ごした。

頭が重い。
喉が渇く。
部屋の空気が妙に暑い。

昼過ぎに一度起き上がろうとして、すぐに諦めた。

夕方になって、ようやくベッドから出る。
カーテンを開けると、外はまだ蒸し暑そうだった。

ベランダの窓を少し開ける。
湿った空気が、部屋の中に流れ込んできた。
理沙はぼんやりと、昨日の夜のことを思い出した。

最低な詩。
最高にカッコいい曲。
島崎の変な仮タイトル。
フィリップの真剣な顔。

少しだけ、楽しかった。

同じころ。

HALUCAの事務所では、片岡まりあとの契約手続きが進められていた。
まりあは、小川から事前に送られてきた契約書に、何度も目を通していた。

分からない言葉は調べた。
不安な箇所には印をつけた。
必要なら質問するつもりで、メモも作った。

それでも、最終的には応諾することに決めた。

柴原と初めて会ってから、ちょうど一週間後の土曜日の午後。
まりあは再び、HALUCAの事務所を訪れた。

応接テーブルを挟んで、柴原と小川が向かい合っている。

「改めて、これからどうぞよろしくお願いします」

まりあは、両手を膝の上に置き、深く頭を下げた。
柴原も、小川も同じように頭を下げる。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

小川が穏やかに言った。
柴原は契約書類を確認し、必要な手続きを一つずつ進めていった。

署名。
確認。
説明。
控えの受け取り。

音楽事務所との契約という言葉からまりあが想像していたものより、実際の手続きはずっと事務的だった。
少しだけ、仕事に似ていた。

すべてが終わると、柴原はノートパソコンを開き、応接テーブルの中央に画面を向けた。

「では、ここから先の話をしましょう」

まりあは姿勢を正した。

画面には、今後の予定らしき一覧が表示されていた。
本格的なデビューを目指した準備の具体化。

方向性の決定。
プロモーションの計画立案。
必要なリソースの確保。
曲の選定と制作。
トレーニング。
サンプル曲のテスト。
市場の反応調査。
次の計画への反映。

並んでいる項目は、まりあが普段の仕事で見慣れているものに似ていた。

プロジェクトの計画。
タスクの洗い出し。
スケジュールの整理。
成果物とレビュー。

けれど、そこに書かれている中身は、まったく違っていた。

自分自身の声。
自分の見せ方。
自分が歌う曲。
自分が、誰かに見つけられるための計画。

まりあは、画面を見ながら、少し不思議な気持ちになった。

仕事では、いつもシステムの向こう側にいる。
誰かが使うものを、見えない場所で支えている。

今は、その計画表の中央に、自分の名前があった。

「最初のゴールは、4か月後の10月です」

柴原が言った。

「そこまでに、片岡さんの方向性を固め、サンプル曲を仕上げ、反応を見るところまで進めたいと思っています」

まりあは小さく頷いた。

「はい」

「そして、最初の反応を見る場として、ひとつ考えている場所があります」

柴原は画面を切り替えた。
まりあは、そこに表示された画像を見た。

夜の街。
広い交差点。
見上げるほど大きな光。

それだけで、まりあはその場所がどこなのか分かった。

胸の奥が、小さく震えた。

あの夜、自分が立っていた場所。
あのとき、遠くの歌を見上げていた場所。

柴原は静かに言った。

「まずはここで、PVを流します」

まりあは、思わず息を飲んだ。



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