夜勤明けのまりあは、部屋に戻るなり、ほとんど何も考えられなくなっていた。
玄関で靴を脱ぎ、バッグを床に置く。
服を脱いで、シャワーを浴びる。
風呂から上がるころには、もう髪を乾かす気力もあまり残っていなかった。
タオルで髪を軽く拭き、最低限の着替えだけを済ませる。
それから、まりあはそのままベッドになだれ込んだ。
夏の暑さは、ようやく峠を越え始めていた。
それでも、朝の陽ざしはまだ強い。
カーテンの隙間から差し込む光が、床の上に白く伸びている。
エアコンの音だけが、部屋の中で静かに続いていた。
疲れているのは、夜勤のせいだけではなかった。
HALUCAと契約してから、生活は少しずつ変わっていた。
仕事で夜勤のシフトが入っている日は、今まで通り会社へ行く。
それ以外の日は、打ち合わせか、ヴォイストレーニングか、ダンスレッスンが入る。
週末も、ほとんど休みではなくなった。
専門家の指導を受けながら、声の出し方を直す。
鏡の前で、足の運びや腕の角度を何度も確認する。
デビューに向けて、どの詩を使うのか、どんな曲に仕上げるのかを話し合う。
翌日が仕事だと分かっていても、自宅に帰ってから深夜まで曲のアレンジを考えることもあった。
充実している。
それは確かだった。
けれど、体は正直だった。
まりあは仰向けになり、天井を見つめた。
目を閉じると、一か月ほど前のことが浮かんでくる。
HALUCAの事務所。
応接テーブル。
柴原が見せた、最初のPVを流す場所の画像。
夜の街。
広い交差点。
見上げるほど大きな光。
あの画像を見た瞬間、まりあはすぐに思った。
あそこで流すなら、あの曲しかない。
契約の手続きが終わり、今後の計画について柴原から説明を受けたあと、まりあは迷わず口を開いた。
「あの場所で使う曲なんですけど」
柴原と小川が、まりあを見る。
まりあは少し緊張しながら、スマホを取り出した。
「まだ曲にはなっていません。詩も、作りかけです。でも……最初に流すなら、これがいいと思います」
画面に表示したのは、あの夜に書き留めた詩だった。
渋谷の交差点で、遠くの歌を見上げながら浮かんだ言葉。
羽ばたいて、高く高く。
あのときは、ただの断片だった。
けれど、まりあにとっては、他のどの詩よりも、始まりに近い言葉だった。
まりあは、その詩を思いついたときのことを、柴原と小川に話した。
夜の街の音。
人の流れ。
巨大な光。
画面の向こうで歌っていた、知らない女性。
自分もあんなふうに、誰かに見上げられる存在になれるのだろうかと、一瞬だけ思ってしまったこと。
話し終えると、まりあは少し恥ずかしくなった。
けれど、柴原は特に驚いた様子も、否定する様子も見せなかった。
小川も、静かに頷いていた。
「いいと思います」
柴原は、あっさりと言った。
「あの場所で最初に出すなら、むしろそれ以外はないでしょう」
まりあは、一瞬、言葉に詰まった。
もっと細かく説明を求められると思っていた。
まだ完成していないから難しいと言われるかもしれないとも思っていた。
けれど、答えはあまりにも早かった。
柴原は、部屋の隅でノートパソコンに向かっていた一人の男性に声をかけた。
「少し、いいですか」
男性が顔を上げる。
作業中は真剣な表情だったが、こちらに近づいてくると、思ったより気さくな雰囲気の人だった。
「この詩を、片岡さんの希望に沿う形で仕上げてもらいます」
柴原が言った。
「まずは言葉の整理から。必要なら、曲の骨格も一緒に作ってください」
男性は、まりあのスマホに表示された詩を見て、軽く頷いた。
「分かりました」
まりあは、慌てて頭を下げた。
「よろしくお願いします」
胸の奥が、少しだけ高鳴っていた。
自分の中だけにあった言葉が、いま目の前で、誰かの仕事になっていく。
それが不思議で、少し怖くて、でも嬉しかった。
そのとき、柴原は小川の方を向いた。
「それから、小川さん」
「はい」
「今日から片岡さんの専任マネージャーです。よろしく頼みます」
小川は、それほど驚いた表情を見せなかった。
まるで、そうなることを最初から分かっていたように、静かに頷いた。
「分かりました」
まりあは小川に向き直った。
「小川さん、改めてよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
小川は穏やかに笑った。
その笑顔が、まりあにはとても心強く見えた。
ベッドの上で、まりあは小さく寝返りを打った。
あのときは、何かが始まったのだと思った。
実際、始まった。
けれど、始まってからの毎日は、想像していたよりもずっと慌ただしかった。
まだ売れているわけではない。
だから、HALUCAから支払われるギャラは少額だった。
ヴォイストレーニングやダンスレッスンの費用、交通費はHALUCAが負担してくれる。
それはありがたかった。
それでも、時間と体力はまりあ自身が支払うしかない。
夜勤。
仮眠。
レッスン。
打ち合わせ。
曲作り。
また仕事。
そんな日々が一か月ほど続くと、さすがに体が悲鳴を上げ始めていた。
しかも、この計画がずっと続くとは限らない。
最初のプロモーションで売れる見込みがないと判断されれば、そこで打ち切られる可能性もある。
小川はそのことを、最初から隠さなかった。
優しい人だと思う。
けれど、甘いことは言わない人でもあった。
まりあは目を閉じたまま、以前、柴原に尋ねたことを思い出した。
ある日の打ち合わせのあとだった。
まりあは、ずっと気になっていたことを、できるだけ遠回しに聞いた。
「HALUCAって、人数はそれほど多くないですよね」
「ええ」
柴原は、あっさり頷いた。
「かなり少ないです」
「その……大きな事務所がやるようなことを、同じように進められるものなんでしょうか」
言ってから、まりあは少し後悔した。
失礼だったかもしれない。
けれど、柴原は気分を害した様子もなく、むしろ少し楽しそうに口元を緩めた。
「確かに、この人数だけでは無理です」
答えは、思ったよりも正直だった。
「でも、小さい会社だからこそできることもあります」
柴原は、自分のノートパソコンをまりあの方へ向けた。
「今この時間も、目に見えない部下たちが動き回っていますから」
画面には、大量のタスク項目が並んでいた。
以前見せられた計画表とは、比べものにならないほど細かかった。
曲の制作。
映像担当との調整。
スタジオの仮押さえ。
候補衣装の比較。
レッスン日程の再調整。
権利関係の確認。
広告枠の空き状況。
配信サイトの分析。
反応予測の更新。
それらの横で、ステータスが次々と変わっていく。
未着手。
確認中。
代替案あり。
承認待ち。
完了。
担当者名の欄には、人の名前ではなく、機能名のようなものが並んでいた。
小川の名前も、柴原の名前も、ところどころにある。
けれど、大半はまりあの知らない名前だった。
人間の社員というより、役割そのものがそこにいるようだった。
「普通の会社なら、人が電話をして、メールをして、会議をして、調整して、上司に報告して、それから次の判断をする」
柴原は画面を見ながら言った。
「うちは、その多くをシステムに任せています」
まりあは、流れていくタスクを見つめていた。
ひとつの項目に警告がつく。
その下に、すぐ代替案が表示される。
別の項目が、その代替案に合わせて更新される。
最後に、柴原の承認待ちとして一行が残る。
柴原はその内容を読み、短く操作した。
また別のタスクが動き出す。
「もちろん、最後に決めるのは人間です」
柴原は言った。
「でも、人間が全部を追いかける必要はありません」
まりあは、少し怖いと思った。
同時に、少し頼もしいとも思った。
この小さな事務所の中で、自分の知らないところまで、何かが広がっている。
目の前にいる人間の数だけでは測れない会社なのだと、ようやく分かった気がした。
柴原は、画面を閉じる前に、何気ない口調で言った。
「最初のPVの先の計画も、もう始まっています」
その言葉を聞いたとき、まりあは返事ができなかった。
自分は、どこまで連れて行かれるのだろう。
それとも、自分でそこまで行くのだろうか。
ベッドの上で、まりあは薄く目を開けた。
エアコンの効いた部屋は静かだった。
外では、まだ午前の光が強く照っている。
自分の周りでは、とてつもない量のことが動いている。
歌。
映像。
契約。
練習。
宣伝。
数字。
反応。
次の計画。
そのすべての中心に、自分の名前が置かれている。
巨大な台風の中心だけが、風のない穏やかな場所であるように。
まりあは、渦の真ん中で、ただ一人ぼんやりと天井を見ていた。
やがて、考えることにも疲れた。
エアコンの音が、少し遠くなる。
まりあは、いつの間にか眠りについていた。
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