002_16_Next Frontier

ライブハウスの空気が、一瞬止まった。

理沙はマイクを持ったまま、客席を見ていた。
いつもなら、次の曲名を告げると、客席から軽い拍手や小さな歓声が返ってくる。
けれど、その夜は違った。

「次の曲のタイトルは、『労基に駆け込みたい』です」

言った瞬間、前列の客が目を丸くした。
後ろの方では、誰かが隣の人と顔を見合わせている。

笑っていいのか。
冗談なのか。
本当にそういうタイトルなのか。

場内に、そういう迷いが広がっていた。

理沙は、あえて説明しなかった。
この曲がどういう経緯でできたのか。
どんな思いを込めたのか。
なぜこんなタイトルにしたのか。

いつものように、歌に入る前の短いナレーションを入れることもできた。
けれど、しなかった。

説明してから歌えば、客は頭で理解してしまう。
それでは、この曲の最初の一撃が弱くなる。
この異様な空気になることは、ある程度想像していた。

だから、あとはイントロの一瞬に賭けるしかなかった。

理沙は、湯浅に視線を送った。
湯浅が小さく頷く。

次に、フィリップを見る。
フィリップはベースを構え、口元に少しだけ笑みを浮かべていた。
まだ完全に意味を理解しているのかどうかは分からない。
けれど、自分が作ったイントロには絶対の自信がある顔だった。

理沙はマイクを持った右手を高く上げた。

島崎がスティックを構える。
ほんの一拍。
そのあと、堰を切ったように音が走り出した。

低くうねるベース。
鋭く切り込むギター。
島崎のドラムが、後ろから一気に空気を押し上げる。

場内の戸惑いが、音に飲み込まれていく。
ここが勝負だった。

理沙は、最初のフレーズに入った。

<疲労でかすむ視界、ビルの灯りが嘲笑う>

客席の表情が変わる。

まだ戸惑っている人もいる。
けれど、さっきの凍ったような空気ではない。

これは冗談なのか。
本気なのか。

その境目を測るように、客が理沙を見ている。
理沙は、少しだけ笑った。

本気に決まっている。

<無表情のまま、魂だけ減ってゆく>

<言い訳のプロみたいな>

フィリップに作らせた曲は、最高だった。

自分が書いた最低の歌詞が、なぜかひどく気持ちよく響いている。
怒りも、疲れも、職場への嫌悪も、ただ吐き出せばみっともない。
けれど、リズムに乗せて、照明の中で、真正面から歌えば、別のものになる。

理沙は、それをステージの上で感じていた。

<Bullshit Job!踊らされて>

<心のスイッチ、折れかけている>

前列の一人が、小さく笑った。
その隣の客が、拍子を取る。
後ろの方で、誰かが肩を揺らした。

少しずつ、会場が追いついてくる。

「白河」でこの詩を見せたとき、最初に意図を理解したのは島崎だった。
今も同じだ。
客席の中に、島崎と同じように気づく人間が、一人、また一人と増えていく。

これは、ただの悪口ではない。
ただの愚痴でもない。
最低の言葉を、最高にカッコよく鳴らす。
そのばかばかしさと本気が、少しずつ伝わっていく。

理沙は、マイクを握り直した。

この曲は、いける。

まだ完成ではない。
もっと削れる。
もっと強くできる。

けれど、Arisa-Mistyらしい曲になるかもしれない。
理沙はそう思った。

同じころ。

ライブハウスからそれほど離れていない、渋谷のスクランブル交差点では、夜の風がビルの間を抜けていた。
交差点の角にある小さな広場で、まりあは柴原と小川と並んで立っていた。

人の流れは、いつもと変わらない。
信号が青になると、大勢の人が一斉に横断歩道へ流れ込む。
信号が赤になると、車が走り始める。
その繰り返し。

見上げれば、スクランブルスクエア東棟の壁面には、いつもの広告が表示されていた。

南国のビーチ。
白い砂浜。
涼しい顔でアイスを食べる女性タレント。
軽い調子のBGM。

まりあは、その光を見上げていた。

本当に、流れるのだろうか。

何度も確認してきた。
映像も見た。
曲も聴いた。
スケジュールも共有されている。

それでも、この場所に立つと、急に信じられなくなった。

もし誰も気づかなかったら。
誰も立ち止まらなかったら。
ただの広告の一つとして流れて、終わってしまったら。
そんなことを考えそうになり、まりあは小さく息を吸った。

隣で、小川がそっと声をかける。

「大丈夫です」

まりあは小川を見た。
小川は、いつもの穏やかな表情で頷いた。
柴原は腕時計を見ていた。

「あと30秒」

小さな声だった。
けれど、まりあにははっきり聞こえた。
その30秒は、長いようで、短かった。

信号が変わる。

車の流れが止まる。
歩行者が横断歩道へ広がる。
そのとき、広告の音がふっと途切れた。

壁面の光が一度暗くなる。
まりあは、思わず息を止めた。
交差点の音響システムから、イントロが流れ始める。

最初は静かだった。

夜明け前の空気のような音。
遠くから、何かが近づいてくるような低い響き。
暗いウォールスクリーンに、女性の後ろ姿が映った。

歌はまだ始まらない。
画面の中で、女性は荒れた大地に立っている。
周囲には岩が広がり、空はまだ暗い。

カメラが、ゆっくりと女性の正面へ回り込んでいく。

まりあは、画面を見上げた。
そこにいるのは、自分だった。

でも、今ここに立っている自分とは少し違う。

何度も撮影し、何度も確認した映像のはずなのに、巨大な壁面に映ると、まるで別人のように見えた。
やがて、画面の中の女性が歌い始める。

<夜明けの気配を、胸いっぱいに吸い込んで>

<明日の影さえ、光に溶けてゆく>

交差点全体が、音に包まれているようだった。
まりあは、声を出せなかった。

画面の中の自分は、少しうつむき加減に歌っている。
遠くの東の空が、わずかに明るくなり始める。
荒れ果てた岩場の輪郭が、少しずつ浮かび上がっていく。

<どれだけ旅してきたんだろう>

<涙の雨も、味方に変えながら>

長い夜が終わろうとしていた。
画面の中で朝日が昇る。
光が、女性の顔をゆっくり照らしていく。

まりあは、あの日のことを思い出した。

この交差点で、信号待ちをしていた夜。
背後から流れてきた音楽に引かれて、ふと振り返った。
巨大な壁面に映る、知らない女性歌手を見上げた。

そのとき、言葉が浮かんだ。

羽ばたいて、高く高く。

あの日、自分は見る側だった。
今も、見上げている。
けれど、画面の中で歌っているのは、自分だった。

<羽ばたいて、高く高く>

<心の果てを越えてゆけるよ>

まりあは、周囲をそっと見た。

渋谷の人の流れは、いつも通りだった。
急ぎ足で通り過ぎる人。
スマホを見ながら歩く人。
友人と話しながら笑う人。

その中で、数人が立ち止まっていた。

画面を見上げている。
ほんの数人だった。

けれど、まりあには十分だった。

<もう止まらない、この鼓動は>

<世界を抱きしめるために生まれた>

小川が、まりあの隣で静かに画面を見ている。
柴原も、表情を変えずに壁面を見上げていた。
まりあは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

これでいい。

まだ、始まったばかりだ。
誰もが立ち止まる必要はない。
全員に届く必要もない。

けれど、あの巨大な光の中に、自分の歌が流れた。
それだけで、何かがもう変わっていた。

<光になれ、今ここから>

最後のフレーズが、夜の交差点に広がる。
曲が終わった。
一瞬、音が消える。

そして、画面の中央に文字が表示された。

<マリア・エレーナ:『Next Frontier』>



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