ライブハウスの空気が、一瞬止まった。
理沙はマイクを持ったまま、客席を見ていた。
いつもなら、次の曲名を告げると、客席から軽い拍手や小さな歓声が返ってくる。
けれど、その夜は違った。
「次の曲のタイトルは、『労基に駆け込みたい』です」
言った瞬間、前列の客が目を丸くした。
後ろの方では、誰かが隣の人と顔を見合わせている。
笑っていいのか。
冗談なのか。
本当にそういうタイトルなのか。
場内に、そういう迷いが広がっていた。
理沙は、あえて説明しなかった。
この曲がどういう経緯でできたのか。
どんな思いを込めたのか。
なぜこんなタイトルにしたのか。
いつものように、歌に入る前の短いナレーションを入れることもできた。
けれど、しなかった。
説明してから歌えば、客は頭で理解してしまう。
それでは、この曲の最初の一撃が弱くなる。
この異様な空気になることは、ある程度想像していた。
だから、あとはイントロの一瞬に賭けるしかなかった。
理沙は、湯浅に視線を送った。
湯浅が小さく頷く。
次に、フィリップを見る。
フィリップはベースを構え、口元に少しだけ笑みを浮かべていた。
まだ完全に意味を理解しているのかどうかは分からない。
けれど、自分が作ったイントロには絶対の自信がある顔だった。
理沙はマイクを持った右手を高く上げた。
島崎がスティックを構える。
ほんの一拍。
そのあと、堰を切ったように音が走り出した。
低くうねるベース。
鋭く切り込むギター。
島崎のドラムが、後ろから一気に空気を押し上げる。
場内の戸惑いが、音に飲み込まれていく。
ここが勝負だった。
理沙は、最初のフレーズに入った。
<疲労でかすむ視界、ビルの灯りが嘲笑う>
客席の表情が変わる。
まだ戸惑っている人もいる。
けれど、さっきの凍ったような空気ではない。
これは冗談なのか。
本気なのか。
その境目を測るように、客が理沙を見ている。
理沙は、少しだけ笑った。
本気に決まっている。
<無表情のまま、魂だけ減ってゆく>
<言い訳のプロみたいな>
フィリップに作らせた曲は、最高だった。
自分が書いた最低の歌詞が、なぜかひどく気持ちよく響いている。
怒りも、疲れも、職場への嫌悪も、ただ吐き出せばみっともない。
けれど、リズムに乗せて、照明の中で、真正面から歌えば、別のものになる。
理沙は、それをステージの上で感じていた。
<Bullshit Job!踊らされて>
<心のスイッチ、折れかけている>
前列の一人が、小さく笑った。
その隣の客が、拍子を取る。
後ろの方で、誰かが肩を揺らした。
少しずつ、会場が追いついてくる。
「白河」でこの詩を見せたとき、最初に意図を理解したのは島崎だった。
今も同じだ。
客席の中に、島崎と同じように気づく人間が、一人、また一人と増えていく。
これは、ただの悪口ではない。
ただの愚痴でもない。
最低の言葉を、最高にカッコよく鳴らす。
そのばかばかしさと本気が、少しずつ伝わっていく。
理沙は、マイクを握り直した。
この曲は、いける。
まだ完成ではない。
もっと削れる。
もっと強くできる。
けれど、Arisa-Mistyらしい曲になるかもしれない。
理沙はそう思った。
同じころ。
ライブハウスからそれほど離れていない、渋谷のスクランブル交差点では、夜の風がビルの間を抜けていた。
交差点の角にある小さな広場で、まりあは柴原と小川と並んで立っていた。
人の流れは、いつもと変わらない。
信号が青になると、大勢の人が一斉に横断歩道へ流れ込む。
信号が赤になると、車が走り始める。
その繰り返し。
見上げれば、スクランブルスクエア東棟の壁面には、いつもの広告が表示されていた。
南国のビーチ。
白い砂浜。
涼しい顔でアイスを食べる女性タレント。
軽い調子のBGM。
まりあは、その光を見上げていた。
本当に、流れるのだろうか。
何度も確認してきた。
映像も見た。
曲も聴いた。
スケジュールも共有されている。
それでも、この場所に立つと、急に信じられなくなった。
もし誰も気づかなかったら。
誰も立ち止まらなかったら。
ただの広告の一つとして流れて、終わってしまったら。
そんなことを考えそうになり、まりあは小さく息を吸った。
隣で、小川がそっと声をかける。
「大丈夫です」
まりあは小川を見た。
小川は、いつもの穏やかな表情で頷いた。
柴原は腕時計を見ていた。
「あと30秒」
小さな声だった。
けれど、まりあにははっきり聞こえた。
その30秒は、長いようで、短かった。
信号が変わる。
車の流れが止まる。
歩行者が横断歩道へ広がる。
そのとき、広告の音がふっと途切れた。
壁面の光が一度暗くなる。
まりあは、思わず息を止めた。
交差点の音響システムから、イントロが流れ始める。
最初は静かだった。
夜明け前の空気のような音。
遠くから、何かが近づいてくるような低い響き。
暗いウォールスクリーンに、女性の後ろ姿が映った。
歌はまだ始まらない。
画面の中で、女性は荒れた大地に立っている。
周囲には岩が広がり、空はまだ暗い。
カメラが、ゆっくりと女性の正面へ回り込んでいく。
まりあは、画面を見上げた。
そこにいるのは、自分だった。
でも、今ここに立っている自分とは少し違う。
何度も撮影し、何度も確認した映像のはずなのに、巨大な壁面に映ると、まるで別人のように見えた。
やがて、画面の中の女性が歌い始める。
<夜明けの気配を、胸いっぱいに吸い込んで>
<明日の影さえ、光に溶けてゆく>
交差点全体が、音に包まれているようだった。
まりあは、声を出せなかった。
画面の中の自分は、少しうつむき加減に歌っている。
遠くの東の空が、わずかに明るくなり始める。
荒れ果てた岩場の輪郭が、少しずつ浮かび上がっていく。
<どれだけ旅してきたんだろう>
<涙の雨も、味方に変えながら>
長い夜が終わろうとしていた。
画面の中で朝日が昇る。
光が、女性の顔をゆっくり照らしていく。
まりあは、あの日のことを思い出した。
この交差点で、信号待ちをしていた夜。
背後から流れてきた音楽に引かれて、ふと振り返った。
巨大な壁面に映る、知らない女性歌手を見上げた。
そのとき、言葉が浮かんだ。
羽ばたいて、高く高く。
あの日、自分は見る側だった。
今も、見上げている。
けれど、画面の中で歌っているのは、自分だった。
<羽ばたいて、高く高く>
<心の果てを越えてゆけるよ>
まりあは、周囲をそっと見た。
渋谷の人の流れは、いつも通りだった。
急ぎ足で通り過ぎる人。
スマホを見ながら歩く人。
友人と話しながら笑う人。
その中で、数人が立ち止まっていた。
画面を見上げている。
ほんの数人だった。
けれど、まりあには十分だった。
<もう止まらない、この鼓動は>
<世界を抱きしめるために生まれた>
小川が、まりあの隣で静かに画面を見ている。
柴原も、表情を変えずに壁面を見上げていた。
まりあは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
これでいい。
まだ、始まったばかりだ。
誰もが立ち止まる必要はない。
全員に届く必要もない。
けれど、あの巨大な光の中に、自分の歌が流れた。
それだけで、何かがもう変わっていた。
<光になれ、今ここから>
最後のフレーズが、夜の交差点に広がる。
曲が終わった。
一瞬、音が消える。
そして、画面の中央に文字が表示された。
<マリア・エレーナ:『Next Frontier』>
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