002_17_違和感

季節は、秋から冬へ移り始めていた。
夜の空気が少し冷たくなり、街のあちこちに年末の気配が混じるようになっていた。

「Next Frontier」が渋谷のウォールスクリーンで初めて流れてから、一か月と少しが経っていた。
その一か月で、まりあを取り巻く世界は、少しずつ、けれど確実に変わっていった。

最初の夜、反応はほとんどなかった。

小川が見せてくれた分析画面にも、目立った数字は出ていなかった。
まりあは少しだけ拍子抜けしたが、小川は落ち着いていた。

「最初は、こんなものです」

そう言われても、まりあは画面の数字から目を離せなかった。

翌日になると、短い感想がいくつか拾われ始めた。

渋谷で見た。
あの大きな画面の歌、誰。
夜明けの映像がきれいだった。
声が耳に残った。

どれも短い言葉だった。
けれど、その中に「マリア・エレーナ」や「Next Frontier」という名前が混じっているのを見るたび、まりあは胸の奥がふわりと浮くような感覚になった。

誰かが、自分の歌を見ている。
誰かが、自分の名前を書いている。
その事実は、思っていたよりもずっと不思議だった。

3日目からは、別のバージョンのPVが流された。

映像の構成も、歌の見せ方も少し違う。
まりあにとっては、どれも自分でありながら、少しずつ違う自分だった。

反応は、その頃から目に見えて増え始めた。

渋谷で撮られた短い動画が共有される。
通りすがりの誰かが、何気なく感想を書く。
それを見た別の誰かが、HALUCAのアカウントを探す。

小川のノートパソコンの画面には、折れ線グラフや分類されたキーワードが並んでいた。
まりあは、毎日のようにその数字を見つめた。

数字が増える。

昨日より、今日。
今日より、明日。

それは、歌が広がっていく様子を、見える形にしたものだった。
公開から5日目あたりで、HALUCAが用意していた音楽と動画のダウンロードサイトへのアクセスが、一気に増えた。

小川は、いつもより少しだけ明るい顔で言った。

「初めて、まとまった営業収入になりそうです」

まりあは、すぐには意味が分からなかった。

自分の歌が、誰かに聴かれているだけではない。
買われている。
そのことに、少し遅れて気づいた。

PV公開から一週間が経ったころ、柴原は次の計画にゴーサインを出した。

まりあは、その話だけを聞かされた。
けれど、具体的な内容はまだ知らされなかった。

「今は、目の前の準備に集中してください」

小川はそう言った。

まりあは頷いた。

自分の知らないところで、また何かが動き始めている。
それが嬉しいような、怖いような気がした。

一方で、理沙たちArisa-Mistyも、少しずつ歩幅を広げていた。

10月に初披露した「労基に駆け込みたい」は、思った以上に反応がよかった。

最初は、タイトルだけで笑われることもあった。
けれど、実際に曲が始まると、客席の空気が変わる。

ライブのあとで、あの曲が頭から離れないと言ってくれる客がいた。
仕事帰りに聴くと変に元気が出る、と笑う客もいた。

理沙は、そのたびに少しだけ得意な気分になった。

Arisa-Mistyは、これまで活動の中心にしていたライブハウスのほかに、2か所の別の店にも出演するようになった。
バンドに入る収入も、少しずつ増え始めている。
とはいえ、音楽だけで食べていけるほどではない。

理沙は昼の仕事を続け、湯浅は「白河」のカウンターに立ち、フィリップも島崎も、それぞれの日常を抱えたまま、夜に集まっていた。
それでも、前よりも少しだけ、バンドが前へ進んでいる実感はあった。

12月上旬の夜。

理沙は、いつものライブハウスのステージで歌っていた。
クリスマスライブに向けて、セットリストを調整している時期だった。

客席は、以前よりも埋まっている。
常連らしい顔も増えた。

理沙は曲の合間に水を飲みながら、ふと客席の最後尾を見た。

そこに、小川美奈がいた。

半年前に初めて見かけたときと同じように、彼女は客席の後ろで静かに立っていた。
ただし、その姿は少し違っていた。

あのときのような黒いビジネススーツではない。
白いTシャツにジーンズ、上に薄手のカーディガンを羽織っている。

仕事中というより、普通にライブを見に来た客のようだった。

理沙は、歌いながら小さく笑いそうになった。
今の理沙には、半年前に彼女を見たときのような警戒心はなかった。

ライブが終わると、理沙は片づけの前に小川の方へ歩いていった。

「お久しぶりです」

小川は穏やかに笑った。

「お久しぶりです。いいライブでした」

「ありがとうございます」

「それと」

小川は、少しだけ目を細めた。

「いい曲ね」

理沙は、一瞬だけ言葉に詰まった。
たぶん、「労基に駆け込みたい」のことだ。

期待していた言葉だった。
けれど、実際に言われると、やはり嬉しかった。

「ありがとうございます」

理沙は、今度は素直にそう言った。

ライブ後の片づけが終わると、半年前と同じように、理沙たちは小川と一緒に食事へ行くことになった。
場所は、最寄り駅近くの居酒屋だった。
フィリップは席に着くなり、メニューを開いた。

「今日も小川さん持ち?」

「こら」

理沙が睨む。

小川は笑った。

「いいですよ。今日は私がお誘いしたので」

「やった」

フィリップが小さく拳を握る。

島崎がぼそっと言った。

「大人ってすごい」

「あなたも大人でしょ」

理沙が言うと、島崎は聞こえないふりをした。

酒と料理が運ばれてくると、最初はArisa-Mistyの近況報告になった。

新しく出るようになったライブハウスの話。
客層の違い。
クリスマスライブの準備。
「労基に駆け込みたい」が、思ったよりも受けていること。

小川は、時々頷きながら聞いていた。
ひと通り話し終えると、話題は自然とHALUCAの近況に移った。

小川は、少し嬉しそうに言った。

「おかげさまで、食べていけるだけの営業収入が入りました」

控えめな言い方だった。
けれど、理沙は、それが本当に食べていけるだけの金額ではないことを何となく察した。

ニュースでは、マリア・エレーナの名前は時々見かける程度だった。
大きな社会現象のように取り上げられているわけではない。

けれど、ネット上で広がる感想や短い動画の数は、明らかに普通ではなかった。
HALUCAの配信サイトへのアクセス数も、その裏付けになっていた。

島崎が、焼き鳥の串を皿に置きながら言った。

「でも、なんでもっとニュースとかで話題にならないんですかね」

自然な疑問だった。

小川は口を開きかけた。
けれど、すぐには言葉が出なかった。

「それは……」

そこで、少しだけ言葉を濁す。

島崎は、それ以上聞かなかった。
場の空気で、何かを察したのだろう。
理沙も静かに頷いた。

「まあ……そういう世界なんでしょうね」

小川は、小さく苦笑した。

「すみません」

「いえ」

少しだけ、場が湿っぽくなった。
理沙は、話題を変えるようにグラスを置いた。

「でも、『Next Frontier』、私は好きですよ」

小川が理沙を見る。

「本当に?」

「はい。一回聴いただけで、残りました」

それは、お世辞ではなかった。

初めて聴いたときから、あのサビの広がりは耳に残っている。
羽ばたいて、高く高く。

その言葉は、少し恥ずかしいくらいまっすぐだった。
けれど、まりあが歌うと、不思議と嘘には聞こえなかった。

理沙は、PVが初めて流れた夜のことを思い出した。

その夜、まりあからメッセージが届いた。
理沙とまりあは、オーディション後に連絡先を交換してから、ときどきメッセージを交わすようになっていた。

仕事のこと。
曲のこと。
夜勤明けの眠さ。
ライブの予定。

どれも短いやりとりだった。

まりあの文章は、いつも控えめだった。
言葉を選び、相手の反応を少し気にしているような文面だった。
けれど、その夜のまりあは、少し違っていた。

画面に流れました。
本当に流れました。
自分じゃないみたいでした。
でも、たしかに自分でした。
何人か、立ち止まってくれました。

短いメッセージが、いつもより続けて届いた。

興奮しているのは分かった。
当然だと思った。
自分のPVが、あの巨大な画面に流れたのだから。

けれど、理沙はそこに、ほんの少しだけ違うものも感じた。

前へ出ようとしているのか。
それとも、何かに押し出されているのか。

まりあ自身が変わり始めているのか。
それとも、周囲の大きな流れが彼女を変えているのか。
そのときは、うまく言葉にならなかった。

今も、はっきりとは分からない。
ただ、理沙は小川と話しながら、少しずつ感じ始めていた。

いい曲と、世の中に広まってゆく曲とのあいだには、大きな違いがある。
その違いの向こう側に、まりあはもう足を踏み入れ始めているのかもしれなかった。



002_18へ