年末が近い、ある日の午後だった。
引っ越し業者が最後の段ボールを運び終え、簡単な確認を済ませると、丁寧に頭を下げて部屋を出ていった。
玄関のドアが閉まる。
それだけで、広い部屋の中には急に静けさが残った。
まりあは、しばらくその場に立っていた。
白を基調とした清潔な壁。
ダークグレーのフローリング。
広々としたキッチン。
大理石調の洗面台。
ガラス張りの浴室。
どれも、自分の生活とは少し距離があるように見えた。
家具は、これまで使っていたものをそのまま持ってきた。
小さなテーブル。
古い本棚。
前の部屋で使っていたベッド。
母の写真を置いた小さな棚。
けれど、荷物はそれほど多くない。
そのせいで、部屋は余計に広く感じられた。
ここが、これから自分の生活の場所になる。
そう思おうとしても、まだうまく実感が追いつかなかった。
このマンションは、HALUCAが社宅扱いで用意してくれたものだった。
賃貸ではある。
けれど、毎月の家賃を聞いたとき、まりあは思わず聞き返してしまった。
今の会社の月給が、何か月分も消えてしまうような金額だった。
セキュリティは万全だった。
エントランスの認証。
各階の管理システム。
来訪者の記録。
緊急時の連絡体制。
小川の説明は丁寧だった。
不測の事態があっても、柴原と小川は歩いて5分ほどの場所に住んでいる。
だから、何かあればすぐに対応できる。
そう聞いたとき、まりあは安心した。
安心したはずだった。
けれど同時に、自分が今までとは違う場所に移されたのだという感覚もあった。
まりあは、新しく買ったソファに腰を下ろした。
まだ部屋に馴染んでいない革の感触が、少し硬い。
そのまま横になると、天井が高く見えた。
慌ただしい一年が、もうすぐ終わろうとしている。
5月に小川から最初のメッセージが届いてから、生活は劇的に変わった。
HALUCAの事務所に呼ばれた。
理沙たちと出会った。
契約を結んだ。
「Next Frontier」のPVを撮った。
渋谷の巨大な光の中に、自分の歌が流れた。
どれも、ほんの数か月のあいだに起きたことだった。
夢なんじゃないかと思うことがある。
けれど、朝目が覚めると、夢のような現実がちゃんと続いている。
ただし、一日の終わりには、いつも疲れ果てていた。
仕事の日は、今まで通り会社に行った。
会社では、できるだけ気持ちを切り替える。
監視画面を見る。
アラートを確認する。
引き継ぎを読む。
障害対応があれば、手順に沿って動く。
そこにいるのは、片岡まりあだった。
けれど、ふとした瞬間に、別の自分が現れることがあった。
ある日、オフィスの洗面所で一人になったときだった。
まりあは鏡の前で、手を洗いながら自分の顔を見た。
蛍光灯の下の顔は、少し疲れている。
寝不足で、目の下にうっすら影がある。
それなのに、ふと、撮影のときに教えられたポーズを思い出した。
顔の角度。
視線の置き方。
肩の開き方。
歌い出す直前の、ほんの少しの間。
まりあは、何となくそれを鏡の前で試してみた。
ほんの一瞬のつもりだった。
そのとき、入口の方で誰かが息を呑む気配がした。
同僚の女性が、洗面所に入ってきたところだった。
まりあは慌てて姿勢を戻した。
「……お、おつかれさまです」
「おつかれさまです」
同僚は少し不思議そうにしながらも、それ以上は何も言わなかった。
まりあは顔を洗いたくなるほど恥ずかしかった。
それでも、あとから思い返すと、少し怖くもなった。
会社の洗面所にまで、マリア・エレーナが入り込んできている。
そう思った。
通勤や帰宅の時間も、変わっていた。
PV公開以降、まりあの移動にはできるだけ小川が付き添うようになった。
職場へ向かうとき。
夜勤明けに帰るとき。
レッスンに向かうとき。
小川は、いつも淡々と車を運転してくれた。
「寒くないですか」
「大丈夫です」
「眠っていてもいいですよ」
夜勤明けの寒い朝には、その言葉がありがたかった。
家までは十数分しかない。
けれど、その短い時間でさえ、まりあは何度も眠ってしまった。
車の揺れ。
暖房の温かさ。
窓の外を流れていく朝の街。
眠りに落ちる直前、いつも少しだけ思う。
自分は今、守られている。
けれど、その代わりに、ひとりで歩いていた頃の自由から少し離れているのかもしれない。
渋谷でのPV公開以降、マリア・エレーナに関する反応は急速に広がっていた。
好意的な感想は多かった。
声がきれい。
映像が忘れられない。
本当に新人なのか。
次の曲を聴きたい。
そういう言葉を読むたび、まりあは胸の奥が温かくなった。
配信のダウンロード数も、着実に伸びていた。
小川が見せるグラフは、日によって上下しながらも、全体として右肩上がりだった。
けれど、広がるのは良い反応だけではなかった。
マリア・エレーナは本当に実在するのか。
ただのイメージ戦略ではないのか。
歌っているのは本人なのか。
口パクではないのか。
そういう疑いの言葉もあった。
中には、まりあ自身を傷つけようとするだけの言葉もあった。
名前も顔も分からない誰かが、画面の向こうで、自分について好き勝手なことを書いている。
最初に見たときは、胸が冷たくなった。
けれど、HALUCAの事務所では、その悪意が直接鳴り響くことはなかった。
代表電話は公開されている。
それでも、苦情や嫌がらせの電話が、事務所の中で騒々しく鳴り続けることはない。
すべて、見えない電話担当者が受け止め、分類し、必要に応じて処理していた。
メッセージも同じだった。
肯定的な反応。
疑問。
批判。
悪意。
脅迫に近いもの。
単なる雑音。
それらはシステム上で記録され、分類され、保管されていく。
まりあは、パソコンの画面に並ぶ自分に関する言葉を眺めた。
見たくないものも多かった。
むしろ、見ない方がいいものの方が多いのかもしれない。
それでも、まりあは目を逸らしきれなかった。
日頃の仕事では、アラートや障害報告を見てきた。
そこに並ぶ言葉は、楽しいものではない。
問題。
警告。
異常。
再発防止。
暫定対応。
けれど、その中に、次に何を直すべきかのヒントがある。
まりあは、悪意あるメッセージも、どこかでそれに似ていると思おうとした。
傷つくだけでは終わらせたくなかった。
自分がこれから何を見せるべきなのか。
何を疑われているのか。
何を届ければ、その疑いを越えられるのか。
そういうヒントが、どこかにあるのかもしれない。
ある日、HALUCAの事務所での打ち合わせ中だった。
まりあは、柴原と小川に向かって言った。
「早く、みんなの前で生で歌いたいです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
けれど、それはずっと胸の中にあった言葉だった。
画面の中にいるだけではなく。
配信の数字として広がるだけではなく。
疑われる存在のままではなく。
目の前にいる人たちに、自分の声を届けたい。
柴原と小川は、一度顔を見合わせた。
それから、柴原が静かに頷いた。
「そうですよね」
少しだけ間を置いて、彼は続けた。
「実は、もうそのための計画が進んでいます」
まりあは息を止めた。
「来年5月を目標に、ファーストライブの準備を進めています。2月には、チケット販売を始める予定です」
5月。
遠いようで、きっとすぐに来る。
まりあは、小さく頷いた。
怖いとは思った。
けれど、それ以上に、そこへ行きたいと思った。
年が明けた。
冷たい夕方だった。
仕事を終えたまりあは、小川の車の助手席に座っていた。
窓の外では、冬の街がゆっくり流れている。
街灯が早い時間から灯り始めていた。
車内には、静かな空気があった。
しばらく黙っていたあと、まりあは前を向いたまま言った。
「今日、上司に辞表を出しました」
小川は、ハンドルを握ったまま、表情を変えなかった。
まりあは続けた。
「1月末で、今の会社を退職することになりました」
車は、赤信号で静かに止まった。
小川は前を見たまま、少しだけ息を吐いた。
「そうですか……」
その声は、驚いているようでも、驚いていないようでもあった。
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