002_19_立体プロジェクターのテスト

3月上旬。

まりあは、柴原と小川の後について、暗い通路を歩いていた。
足音が、壁の奥に吸い込まれていくようだった。
先を歩くスタッフの背中が、白い光の方へ進んでいく。

「こちらです」

スタッフがそう言って、扉を開けた。
その瞬間、視界が一気に広がった。
まりあは、思わず足を止めた。

広い。

最初に浮かんだのは、その感想だった。
けれど、ただ広いだけではなかった。

音がない。

巨大な空間なのに、余計な反響がほとんどない。
静かな空気が、全身を包み込むようだった。

目の前には、まだ誰も座っていない観客席が、ゆるやかな傾斜を描いて広がっている。
その下に、明るいグラウンドがあった。
グラウンドの中央には、円形のステージが設置されている。

ステージの周囲では、数十人のスタッフが淡々と作業を進めていた。

ケーブルを確認する者。
床面のパネルを調整する者。
機材の位置を測る者。
タブレットを見ながら指示を出す者。

声は聞こえる。
けれど、ざわついてはいない。
大きな生き物の内部で、必要な部分だけが静かに動いているようだった。

柴原も、小川も、しばらく何も言わなかった。
3人は、ほとんど同じタイミングで、ゆっくり息を吸った。

「すごい……」

まりあの口から、小さな声が漏れた。

グラウンドの方から、数名のスタッフがこちらへ歩いてくるのが見えた。
柴原が手を挙げる。
先頭を歩いていたリーダー格の男が、柴原に気づいて笑った。

「柴原さん、お待ちしていました」

「着々と進んでいますね」

柴原が手を差し出す。
男はその手を握り返した。

「柴原さんの希望通りに進めているだけです」

そう言って、男は少し肩をすくめた。

完成したばかりの、東京ドームスタジアム。

かつてのエアドーム式の球場は、すでに姿を消していた。
その跡地に、新しい構造のスタジアムが建てられた。
その完成記念として行われる最初の大きなイベントが、マリア・エレーナのファーストコンサートだった。

まりあは、客席を見上げた。

ここに、本当に人が入るのだろうか。
何万人もの人が、この場所に来る。
そして、自分の歌を聴く。

頭では分かっていた。

資料も見た。
会場図も見た。
チケット販売の計画も聞いた。

けれど、こうして実際の場所に立つと、それはまったく別のものだった。

HALUCAの事務所では、計画はいつも画面の中にあった。

進行表。
タスク一覧。
収支予測。
市場分析。
連絡履歴。
スケジュール。

小さな文字と数字の列。
それらが、静かに更新されていく。
けれど今、目の前にあるのは、巨大な建造物だった。

光。
人工芝。
座席。
ステージ。
何十人ものスタッフ。

柴原が動かしていたものは、画面の中だけではなかった。
まりあは、そのことを初めて身体で理解した気がした。

柴原は、ときどき昔の仕事の話をしてくれた。

投資会社にいた頃のこと。
若い企業を見つけ、資金を入れ、人をつなぎ、まだ形のないものに道筋を作った話。

まりあは、それを興味深く聞いていた。
けれど、どこか遠い世界の話でもあった。
今、その遠い話が、目の前の景色とつながっている。

そう思うと、柴原という人が急に大きく見えた。

スタッフのリーダーが、まりあに向かって軽く頭を下げた。

「マリアさん、こちらへ」

その呼び方に、まりあは一瞬だけ反応が遅れた。

マリアさん。

まだ少し慣れない。

「きっと、気に入りますよ」

男はそう言って、グラウンドの方へ手招きした。
まりあは、柴原と小川と一緒に、階段を下りた。

人工芝の上に足を踏み入れる。
靴底に、敷き詰められたばかりの芝の柔らかい感触が伝わってきた。
客席から見下ろしたときよりも、グラウンドはさらに広く感じられた。

その中央にある円形ステージへ向かって歩く。
一歩ずつ近づくたびに、自分が何かの中心へ進んでいるような感覚が強くなった。
ステージの上では、別のスタッフたちが待っていた。

「本日は、立体プロジェクターの連動テストを行います」

タブレットを持った女性スタッフが、まりあに説明を始めた。

「最初は位置確認です。そのあと、ポーズ、歩行、歌唱時の姿勢、簡単な動きを確認します。音声は仮音源で行いますが、今日はマリアさんの声出しは自由です」

「自由……ですか」

「はい。マイクなしで構いません。身体の動きと映像側の追従を確認します」

まりあは頷いた。

言葉の意味は分かる。
けれど、何が始まるのかは、まだ実感できなかった。

ステージ中央に立つよう促される。
まりあは、円形ステージの真ん中に立った。
客席が、四方を囲んでいる。

まだ無人なのに、誰かに見られているような気がした。

やがて、場内の照明が落ちた。
巨大なスタジアムが、ゆっくり暗くなる。
イヤホン越しに、スタッフの声が聞こえた。

「マリアさん、聞こえますか」

「はい」

「では、こちらに向かって手を振ってください。放送スタッフ席です」

まりあは、声のする方向を探した。

遠い客席の一角に、小さく光るブースが見える。
まりあは、その方向に向かって手を振った。

「確認しました。ありがとうございます」

声は淡々としていた。

次の瞬間、円形ステージの端から、細い支柱のようなものがせり上がってきた。

一本。
また一本。
スタンドマイクに似ている。

けれど、先端にはマイクではなく、小さなカメラのような装置が取り付けられていた。
円周上に、等間隔で並んでいく。

12本。
30度ごとに、まりあを囲むように立った。

「モーションセンサー、起動」

イヤホンから別の声が聞こえる。
ステージの周囲に置かれていたライトのような機器が、低く唸るような音を立てた。

「プロジェクター、スタンバイ」

光が、ステージの周囲から静かに立ち上がった。
まりあは、足元から空気が変わっていくのを感じた。

「マリアさん、そのまま上を見てください」

言われるままに、まりあは顔を上げた。
その瞬間、呼吸の仕方が分からなくなった。

上空に、人がいた。
いや、人ではない。

自分だった。

マリア・エレーナが、スタジアムの空中に浮かんでいた。
身長25メートルほどの、巨大な姿になって。

ステージ上に立つまりあと同じ衣装を着て、同じ角度で、同じように見上げている。
淡く透けているのに、存在感は圧倒的だった。
顔も、髪も、衣装の細かな揺れも、現実のもののように見えた。

まりあは、ただ見上げることしかできなかった。

あれが、自分。
でも、自分ではない。

渋谷のウォールスクリーンに映った自分を見たときも、そう思った。

けれど、これは違った。
画面の中ではない。
同じ空間の上にいる。
自分の上に、自分よりはるかに大きなマリア・エレーナが浮かんでいる。

「では、そのまま歌唱時のポーズを取ってみてください」

イヤホンの声は、驚くほど普通だった。

現場にとっては、これはただのテストなのだ。
まりあは、少し遅れて手を動かした。
撮影のときに教わった姿勢を取る。

肩を開く。
顔を少し上げる。
片手を胸の前に置く。

上空のマリア・エレーナも、同じように動いた。

ほんの少し遅れているようにも見える。
けれど、その遅れさえ、意図された演出のようだった。

「確認しました。次に、ゆっくり右へ三歩お願いします」

まりあは歩いた。

一歩。
二歩。
三歩。

巨大なマリア・エレーナも、上空でゆっくり動いた。
スタジアム全体が、彼女のための空間になっているようだった。

「次に、左手を上げてください」

まりあは従った。

「そのまま、歌っているつもりで口を開いてください」

まりあは、息を吸った。
仮音源のイントロが、低く流れ始めた。

マイクはない。

声を出さなくてもよいと言われていた。
それでも、まりあは小さく歌い始めた。
ほとんど、自分にしか聞こえない声だった。

けれど、上空のマリア・エレーナは、スタジアム全体に向かって歌っているように見えた。

まりあは、少しずつ不思議な感覚になった。

自分が動くと、巨大な自分が動く。
自分が歌うと、巨大な自分が歌う。
けれど同時に、上空のマリア・エレーナに、自分が引っ張られているような気もした。

もっと大きく手を伸ばせる。
もっと遠くへ視線を送れる。
もっと胸を張れる。

そんなふうに、もう一人の自分に教えられているようだった。

気づくと、まりあはステージの上で歩いていた。
歩くというより、踊るように。
ステージの端へ行き、振り返り、両手をゆっくり広げる。
上空のマリア・エレーナも、同じように動く。

巨大な光の身体が、無人の客席へ向かって手を広げる。

まりあは、もう驚いていなかった。
怖さも、完全には消えていない。
けれど、その怖さごと、身体が前へ進んでいた。

小川は、グラウンドの端でその様子を見ていた。
柴原も、腕を組んだままステージを見上げている。

スタッフたちは淡々と数値を確認し、調整を続けていた。
けれど、まりあにはその声が少し遠くなっていた。
無人の東京ドームスタジアムの真ん中で、まりあは、巨大なマリア・エレーナと一緒に、しばらく踊るように動き続けた。

その同じ週の週末。

Arisa-Mistyの4人は、営業終了後の「白河」に集まっていた。

店内には、客のいなくなったあとの静けさが残っていた。
カウンターの奥では、湯浅が最後のグラスを片づけている。
フィリップはいつもの席にだらしなく座り、島崎は眠そうな目で壁面ディスプレイを見ていた。

理沙は、持ってきた端末をテーブルの上に置いた。

「また、新しい詩を書いてみた」

「また?」

湯浅が振り向く。

「その言い方、なに」

理沙が軽く睨む。
湯浅は肩をすくめた。

「いや。最近の理沙さんの『新しい詩』って、ちょっと身構えるやろ」

「失礼ね」

そう言いながら、理沙は壁面ディスプレイにファイルを表示した。

白い画面に、黒い文字が並ぶ。
湯浅も、フィリップも、島崎も、黙ってそれを読んだ。
理沙はゆっくりスクロールする。

一行。
また一行。

画面が進むにつれて、3人の表情が微妙に変わっていった。

湯浅は眉間に皺を寄せる。
フィリップは何度か口を開きかけて、結局閉じる。
島崎は腕を組んだまま、目だけを細くした。

しばらくして、湯浅が言った。

「なんか、毒というよりは……」

理沙は、予想していた反応に小さく笑った。

「劇薬だな」

フィリップが吹き出した。

「それ、褒めてる?」

「半分くらいは」

湯浅は画面から目を離さずに言った。

けれど、「労基に駆け込みたい」を初めて見せたときのような、あの重苦しい空気はなかった。
あのときは、3人とも戸惑っていた。

これを本当に歌うのか。
客に聞かせるのか。
理沙はどこへ向かっているのか。

そんな疑問が、部屋の中にあった。

今は違う。

湯浅は呆れながらも、曲にしたときの輪郭を探している。
フィリップはすでにテーブルを指で叩き、リズムを探り始めている。
島崎はじっと画面を見つめ、言葉のどこを拾えばタイトルになるかを考えているようだった。

理沙は、それを見て少し安心した。

自分たちは、少しだけ慣れてきたのかもしれない。
ひどい言葉を、そのままひどいものとして終わらせないことに。
怒りや疲れを、ただの愚痴ではなく、音に変えることに。

「それじゃ、フィリップ」

理沙は言った。

「この詩のための、最高の曲を」

フィリップは背筋を伸ばし、芝居がかった動きで敬礼した。

「ラジャー」

「分かってると思うけど、ただ暗くしないでね」

「もちろん。最悪な内容を、最高にかっこよく」

「そういうこと」

フィリップは、もう一度画面を見ながら、指で違うリズムを刻み始めた。

理沙は島崎の方を見た。

「島崎くんは、この詩にぴったりのタイトルを考えて」

「あ、もう思いつきました」

「早い」

理沙は慌てて手を上げた。

「今言わなくていい。お楽しみは次回までに取っておこう」

島崎は少し残念そうに頷いた。

「分かりました」

「本当に今言わないでよ」

「言いません」

「顔が言いたそう」

「顔だけです」

理沙は笑った。

その日の集まりは、そこで終わった。
フィリップは、まだテーブルを叩きながら店を出ていった。
島崎は小さく欠伸をしながら、その後に続いた。

ドアが閉まり、店内はまた静かになった。
残ったのは、理沙と湯浅だけだった。

湯浅はカウンターの奥で、洗い終えたグラスを棚に戻していた。
理沙は壁面ディスプレイの電源を落とした。
黒くなった画面に、自分の顔がぼんやり映る。

しばらく、2人とも何も言わなかった。

湯浅が最後のグラスを置く音が、店内に小さく響いた。
理沙は、テーブルの上の端末を指で軽く叩いた。
それから、湯浅の背中に向かって言った。

「ちょっと、相談したいことがあるんだけど」

湯浅は、手を止めた。
そして、ゆっくり振り向いた。



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