3月上旬。
まりあは、柴原と小川の後について、暗い通路を歩いていた。
足音が、壁の奥に吸い込まれていくようだった。
先を歩くスタッフの背中が、白い光の方へ進んでいく。
「こちらです」
スタッフがそう言って、扉を開けた。
その瞬間、視界が一気に広がった。
まりあは、思わず足を止めた。
広い。
最初に浮かんだのは、その感想だった。
けれど、ただ広いだけではなかった。
音がない。
巨大な空間なのに、余計な反響がほとんどない。
静かな空気が、全身を包み込むようだった。
目の前には、まだ誰も座っていない観客席が、ゆるやかな傾斜を描いて広がっている。
その下に、明るいグラウンドがあった。
グラウンドの中央には、円形のステージが設置されている。
ステージの周囲では、数十人のスタッフが淡々と作業を進めていた。
ケーブルを確認する者。
床面のパネルを調整する者。
機材の位置を測る者。
タブレットを見ながら指示を出す者。
声は聞こえる。
けれど、ざわついてはいない。
大きな生き物の内部で、必要な部分だけが静かに動いているようだった。
柴原も、小川も、しばらく何も言わなかった。
3人は、ほとんど同じタイミングで、ゆっくり息を吸った。
「すごい……」
まりあの口から、小さな声が漏れた。
グラウンドの方から、数名のスタッフがこちらへ歩いてくるのが見えた。
柴原が手を挙げる。
先頭を歩いていたリーダー格の男が、柴原に気づいて笑った。
「柴原さん、お待ちしていました」
「着々と進んでいますね」
柴原が手を差し出す。
男はその手を握り返した。
「柴原さんの希望通りに進めているだけです」
そう言って、男は少し肩をすくめた。
完成したばかりの、東京ドームスタジアム。
かつてのエアドーム式の球場は、すでに姿を消していた。
その跡地に、新しい構造のスタジアムが建てられた。
その完成記念として行われる最初の大きなイベントが、マリア・エレーナのファーストコンサートだった。
まりあは、客席を見上げた。
ここに、本当に人が入るのだろうか。
何万人もの人が、この場所に来る。
そして、自分の歌を聴く。
頭では分かっていた。
資料も見た。
会場図も見た。
チケット販売の計画も聞いた。
けれど、こうして実際の場所に立つと、それはまったく別のものだった。
HALUCAの事務所では、計画はいつも画面の中にあった。
進行表。
タスク一覧。
収支予測。
市場分析。
連絡履歴。
スケジュール。
小さな文字と数字の列。
それらが、静かに更新されていく。
けれど今、目の前にあるのは、巨大な建造物だった。
光。
人工芝。
座席。
ステージ。
何十人ものスタッフ。
柴原が動かしていたものは、画面の中だけではなかった。
まりあは、そのことを初めて身体で理解した気がした。
柴原は、ときどき昔の仕事の話をしてくれた。
投資会社にいた頃のこと。
若い企業を見つけ、資金を入れ、人をつなぎ、まだ形のないものに道筋を作った話。
まりあは、それを興味深く聞いていた。
けれど、どこか遠い世界の話でもあった。
今、その遠い話が、目の前の景色とつながっている。
そう思うと、柴原という人が急に大きく見えた。
スタッフのリーダーが、まりあに向かって軽く頭を下げた。
「マリアさん、こちらへ」
その呼び方に、まりあは一瞬だけ反応が遅れた。
マリアさん。
まだ少し慣れない。
「きっと、気に入りますよ」
男はそう言って、グラウンドの方へ手招きした。
まりあは、柴原と小川と一緒に、階段を下りた。
人工芝の上に足を踏み入れる。
靴底に、敷き詰められたばかりの芝の柔らかい感触が伝わってきた。
客席から見下ろしたときよりも、グラウンドはさらに広く感じられた。
その中央にある円形ステージへ向かって歩く。
一歩ずつ近づくたびに、自分が何かの中心へ進んでいるような感覚が強くなった。
ステージの上では、別のスタッフたちが待っていた。
「本日は、立体プロジェクターの連動テストを行います」
タブレットを持った女性スタッフが、まりあに説明を始めた。
「最初は位置確認です。そのあと、ポーズ、歩行、歌唱時の姿勢、簡単な動きを確認します。音声は仮音源で行いますが、今日はマリアさんの声出しは自由です」
「自由……ですか」
「はい。マイクなしで構いません。身体の動きと映像側の追従を確認します」
まりあは頷いた。
言葉の意味は分かる。
けれど、何が始まるのかは、まだ実感できなかった。
ステージ中央に立つよう促される。
まりあは、円形ステージの真ん中に立った。
客席が、四方を囲んでいる。
まだ無人なのに、誰かに見られているような気がした。
やがて、場内の照明が落ちた。
巨大なスタジアムが、ゆっくり暗くなる。
イヤホン越しに、スタッフの声が聞こえた。
「マリアさん、聞こえますか」
「はい」
「では、こちらに向かって手を振ってください。放送スタッフ席です」
まりあは、声のする方向を探した。
遠い客席の一角に、小さく光るブースが見える。
まりあは、その方向に向かって手を振った。
「確認しました。ありがとうございます」
声は淡々としていた。
次の瞬間、円形ステージの端から、細い支柱のようなものがせり上がってきた。
一本。
また一本。
スタンドマイクに似ている。
けれど、先端にはマイクではなく、小さなカメラのような装置が取り付けられていた。
円周上に、等間隔で並んでいく。
12本。
30度ごとに、まりあを囲むように立った。
「モーションセンサー、起動」
イヤホンから別の声が聞こえる。
ステージの周囲に置かれていたライトのような機器が、低く唸るような音を立てた。
「プロジェクター、スタンバイ」
光が、ステージの周囲から静かに立ち上がった。
まりあは、足元から空気が変わっていくのを感じた。
「マリアさん、そのまま上を見てください」
言われるままに、まりあは顔を上げた。
その瞬間、呼吸の仕方が分からなくなった。
上空に、人がいた。
いや、人ではない。
自分だった。
マリア・エレーナが、スタジアムの空中に浮かんでいた。
身長25メートルほどの、巨大な姿になって。
ステージ上に立つまりあと同じ衣装を着て、同じ角度で、同じように見上げている。
淡く透けているのに、存在感は圧倒的だった。
顔も、髪も、衣装の細かな揺れも、現実のもののように見えた。
まりあは、ただ見上げることしかできなかった。
あれが、自分。
でも、自分ではない。
渋谷のウォールスクリーンに映った自分を見たときも、そう思った。
けれど、これは違った。
画面の中ではない。
同じ空間の上にいる。
自分の上に、自分よりはるかに大きなマリア・エレーナが浮かんでいる。
「では、そのまま歌唱時のポーズを取ってみてください」
イヤホンの声は、驚くほど普通だった。
現場にとっては、これはただのテストなのだ。
まりあは、少し遅れて手を動かした。
撮影のときに教わった姿勢を取る。
肩を開く。
顔を少し上げる。
片手を胸の前に置く。
上空のマリア・エレーナも、同じように動いた。
ほんの少し遅れているようにも見える。
けれど、その遅れさえ、意図された演出のようだった。
「確認しました。次に、ゆっくり右へ三歩お願いします」
まりあは歩いた。
一歩。
二歩。
三歩。
巨大なマリア・エレーナも、上空でゆっくり動いた。
スタジアム全体が、彼女のための空間になっているようだった。
「次に、左手を上げてください」
まりあは従った。
「そのまま、歌っているつもりで口を開いてください」
まりあは、息を吸った。
仮音源のイントロが、低く流れ始めた。
マイクはない。
声を出さなくてもよいと言われていた。
それでも、まりあは小さく歌い始めた。
ほとんど、自分にしか聞こえない声だった。
けれど、上空のマリア・エレーナは、スタジアム全体に向かって歌っているように見えた。
まりあは、少しずつ不思議な感覚になった。
自分が動くと、巨大な自分が動く。
自分が歌うと、巨大な自分が歌う。
けれど同時に、上空のマリア・エレーナに、自分が引っ張られているような気もした。
もっと大きく手を伸ばせる。
もっと遠くへ視線を送れる。
もっと胸を張れる。
そんなふうに、もう一人の自分に教えられているようだった。
気づくと、まりあはステージの上で歩いていた。
歩くというより、踊るように。
ステージの端へ行き、振り返り、両手をゆっくり広げる。
上空のマリア・エレーナも、同じように動く。
巨大な光の身体が、無人の客席へ向かって手を広げる。
まりあは、もう驚いていなかった。
怖さも、完全には消えていない。
けれど、その怖さごと、身体が前へ進んでいた。
小川は、グラウンドの端でその様子を見ていた。
柴原も、腕を組んだままステージを見上げている。
スタッフたちは淡々と数値を確認し、調整を続けていた。
けれど、まりあにはその声が少し遠くなっていた。
無人の東京ドームスタジアムの真ん中で、まりあは、巨大なマリア・エレーナと一緒に、しばらく踊るように動き続けた。
その同じ週の週末。
Arisa-Mistyの4人は、営業終了後の「白河」に集まっていた。
店内には、客のいなくなったあとの静けさが残っていた。
カウンターの奥では、湯浅が最後のグラスを片づけている。
フィリップはいつもの席にだらしなく座り、島崎は眠そうな目で壁面ディスプレイを見ていた。
理沙は、持ってきた端末をテーブルの上に置いた。
「また、新しい詩を書いてみた」
「また?」
湯浅が振り向く。
「その言い方、なに」
理沙が軽く睨む。
湯浅は肩をすくめた。
「いや。最近の理沙さんの『新しい詩』って、ちょっと身構えるやろ」
「失礼ね」
そう言いながら、理沙は壁面ディスプレイにファイルを表示した。
白い画面に、黒い文字が並ぶ。
湯浅も、フィリップも、島崎も、黙ってそれを読んだ。
理沙はゆっくりスクロールする。
一行。
また一行。
画面が進むにつれて、3人の表情が微妙に変わっていった。
湯浅は眉間に皺を寄せる。
フィリップは何度か口を開きかけて、結局閉じる。
島崎は腕を組んだまま、目だけを細くした。
しばらくして、湯浅が言った。
「なんか、毒というよりは……」
理沙は、予想していた反応に小さく笑った。
「劇薬だな」
フィリップが吹き出した。
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
湯浅は画面から目を離さずに言った。
けれど、「労基に駆け込みたい」を初めて見せたときのような、あの重苦しい空気はなかった。
あのときは、3人とも戸惑っていた。
これを本当に歌うのか。
客に聞かせるのか。
理沙はどこへ向かっているのか。
そんな疑問が、部屋の中にあった。
今は違う。
湯浅は呆れながらも、曲にしたときの輪郭を探している。
フィリップはすでにテーブルを指で叩き、リズムを探り始めている。
島崎はじっと画面を見つめ、言葉のどこを拾えばタイトルになるかを考えているようだった。
理沙は、それを見て少し安心した。
自分たちは、少しだけ慣れてきたのかもしれない。
ひどい言葉を、そのままひどいものとして終わらせないことに。
怒りや疲れを、ただの愚痴ではなく、音に変えることに。
「それじゃ、フィリップ」
理沙は言った。
「この詩のための、最高の曲を」
フィリップは背筋を伸ばし、芝居がかった動きで敬礼した。
「ラジャー」
「分かってると思うけど、ただ暗くしないでね」
「もちろん。最悪な内容を、最高にかっこよく」
「そういうこと」
フィリップは、もう一度画面を見ながら、指で違うリズムを刻み始めた。
理沙は島崎の方を見た。
「島崎くんは、この詩にぴったりのタイトルを考えて」
「あ、もう思いつきました」
「早い」
理沙は慌てて手を上げた。
「今言わなくていい。お楽しみは次回までに取っておこう」
島崎は少し残念そうに頷いた。
「分かりました」
「本当に今言わないでよ」
「言いません」
「顔が言いたそう」
「顔だけです」
理沙は笑った。
その日の集まりは、そこで終わった。
フィリップは、まだテーブルを叩きながら店を出ていった。
島崎は小さく欠伸をしながら、その後に続いた。
ドアが閉まり、店内はまた静かになった。
残ったのは、理沙と湯浅だけだった。
湯浅はカウンターの奥で、洗い終えたグラスを棚に戻していた。
理沙は壁面ディスプレイの電源を落とした。
黒くなった画面に、自分の顔がぼんやり映る。
しばらく、2人とも何も言わなかった。
湯浅が最後のグラスを置く音が、店内に小さく響いた。
理沙は、テーブルの上の端末を指で軽く叩いた。
それから、湯浅の背中に向かって言った。
「ちょっと、相談したいことがあるんだけど」
湯浅は、手を止めた。
そして、ゆっくり振り向いた。
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