002_20_13日の金曜日の前日は木曜日(1)

「そのうち、家で2人だけで飲もうよ」

そんなメッセージが、まりあから届いたのは、年が明けて間もないころだった。
理沙はすぐに返事をした。

いいね。
落ち着いたら行く。
けれど、落ち着く時期はなかなか来なかった。

2月に入ると、マリア・エレーナのファーストコンサートのチケット販売が始まった。
3月になると、リハーサルや打ち合わせの予定はさらに増えた。

理沙の方も、Arisa-Mistyのライブが少しずつ増えていた。
昼の仕事も相変わらず忙しい。

予定を合わせようとしては流れ、また合わせようとしては先延ばしになる。
結局、2人だけの飲み会が実現したのは、3月末の木曜日だった。

仕事を終えたあと、理沙は電車を乗り継ぎ、まりあの新しい部屋の近くまで向かった。
駅前の賑わいから少し離れると、街の空気が変わった。
夜の住宅街は静かだった。

広い歩道。
整えられた植え込み。
低く抑えられた街灯の光。

道路沿いには、同じ系列と思われる高級マンションが4棟ほど並んでいた。
理沙は、その中の一棟の前で足を止めた。

ガラスと石材を組み合わせた、落ち着いた外観だった。

派手ではない。
けれど、明らかに普通の賃貸マンションとは違う。
理沙はスマホを取り出し、まりあに到着を知らせた。
すぐに返事が来る。

いま開けるね。

目の前のオートロックの扉が、音もなく開いた。
理沙は中に入った。

広いエントランスホールは、ホテルのロビーのようだった。

足音が、磨かれた床に小さく響く。
壁際には観葉植物が置かれ、受付のようなカウンターもある。
照明は明るすぎず、全体に静かだった。

エレベーターに乗る。
6階で降り、案内表示に従って廊下を進む。
まりあの部屋の前に着くと、理沙はベルを鳴らした。

少し間があった。

それから、内側でロックが解除される音がした。
扉は、思ったより重かった。
理沙が手をかけて開けると、その重さだけで、いかにもセキュリティがしっかりしている場所だと分かった。

玄関の奥に、まりあが立っていた。

「いらっしゃい」

柔らかく笑っている。
けれど、少しだけ顔色が悪いようにも見えた。

「お邪魔します」

理沙は靴を脱ぎ、まりあに案内されて奥へ進んだ。
廊下の壁紙も、床のフローリングも新しかった。
新築特有の、まだ生活に馴染みきっていない匂いがする。

リビングに入ると、理沙は思わず足を止めた。

広い。

大きな窓の向こうには、夜の街が見えた。
遠くに幹線道路の灯りが流れ、そのさらに向こうには、ビルの明かりが細かく瞬いている。

部屋の中には、すでに食事の用意がされていた。
低いテーブルの上に、皿やグラスが並んでいる。
卓上のプレートも用意されていた。

「すごいね、ここ」

理沙は、部屋を見回しながら言った。

まりあは少し困ったように笑った。

「まだ、自分の部屋って感じがしないんだけどね」

「分かる気がする」

理沙は窓の外を見た。

夜の街を見下ろす生活。
自分も、赤坂で働いていたころに、何度か似たような部屋に入ったことはある。

客に連れられて行った店。
同伴で使った高級なレストラン。
上の階にある会員制のラウンジ。

華やかな場所をまったく知らないわけではなかった。
それでも、ここは違った。

ここは、まりあの部屋だった。
そのことが、理沙には少し不思議だった。

まりあは冷蔵庫を開け、高級そうな和牛の包みを取り出した。
それから、ワインクーラーから赤ワインを一本取り出す。

「今日は、ちょっと奮発した」

「これ、ちょっとどころじゃないでしょ」

「小川さんが、たまにはいいものを食べなさいって」

「小川さんらしい」

二人は準備を済ませ、グラスに赤ワインを注いだ。

「じゃあ」

まりあがグラスを持つ。

「おつかれさま」

理沙もグラスを掲げた。

「おつかれさま」

軽い音を立てて、グラスが触れた。
和牛をプレートで焼くと、すぐに脂の甘い香りが部屋に広がった。

まりあは、わさび醤油を小皿に用意する。
理沙は、自然に岩塩を取った。

「あ、岩塩派なんだ」

まりあが言った。

「昔の癖」

「昔?」

理沙は肉を一切れ皿に取り、少し考えてから笑った。

「夜の仕事してたころ、同伴で焼肉に行くことが多かったの。そういう時、だいたい岩塩で食べてた」

「そうなんだ」

まりあは、少し身を乗り出した。

「そういえば、そのころの話って、ちゃんと聞いたことなかったかも」

「してなかったっけ?」

「うん。断片的には聞いた気がするけど」

理沙はワインを一口飲んだ。
それから、少し昔を思い出すように、視線をグラスの中へ落とした。

「最初はね、偶然だったの」

まりあは黙って聞いていた。

理沙は、昔の友人と再会した日のことを話した。

その友人に誘われるまま、赤坂の店に連れて行かれたこと。
最初は、店の中でも目立たない存在だったこと。
愛想が良いわけでもなく、客あしらいが上手いわけでもなく、自分でも向いているとは思っていなかったこと。

「じゃあ、どうして歌うようになったの?」

「お客さんに勧められたの。たまたま」

「たまたま?」

「うん。マライア・キャリーの曲、歌ってみないかって」

まりあは、驚いたように目を丸くした。

「それで歌ったの?」

「歌った」

「すごい」

「いや、今考えると、だいぶ無茶だったと思う」

理沙は苦笑した。

「でも、それがきっかけで、店の中で歌う人になっていった。最初は変な感じだったよ。キャストなのに、なぜか客の前で歌ってるんだから」

「歌姫みたい」

「実際、そう呼ばれるようになった」

理沙は、少し照れたように笑った。

楽しいことばかりではなかった。

店長がキャストと駆け落ちして、突然いなくなったこと。
店が一時混乱したこと。
一緒に働いていた友人と、どうにか踏ん張ったこと。
お金のこと。
人間関係のこと。
夜の街特有の疲れ。

理沙は、そのひとつひとつを、できるだけ軽く話した。

重くなりすぎないように。
昔話として笑えるように。

まりあは、ときどき相づちを打ちながら聞いていた。

「大変だったんだね」

「まあね。でも、今になると、なんか楽しかった気もする」

「苦労話なのに?」

「苦労話って、過ぎてから話すと、けっこう楽しいのよ」

「そういうもの?」

「たぶん」

理沙は笑った。
まりあも笑った。

けれど、その笑顔は少し遅れて出てきたように見えた。
理沙の話を聞きながら、まりあは心の片隅で別のことを考えていた。

5月のファーストコンサートまで、あと一か月と少ししかない。

チケット販売は始まっている。
宣伝も増えている。
リハーサルも、打ち合わせも、以前より濃くなっている。

東京ドームスタジアムで見た、巨大なマリア・エレーナの姿が、ふと頭の中に浮かんだ。

あのときは、圧倒された。

怖かった。
でも、身体は前へ進んだ。
あの場所で歌いたいと思った。

そう思ったはずだった。

けれど、同時に、別の感覚もあった。

本当にできるのだろうか。
あの空間を、自分の声で満たせるのだろうか。
あの巨大な自分に、自分は追いつけるのだろうか。

まりあは、一週間前のことを思い出した。

その日も、東京ドームスタジアムでリハーサルがあった。

立体プロジェクターの確認は順調だった。
コンサートで歌う曲の流れも、少しずつ固まってきていた。

スタッフは皆、慣れた様子で動いていた。
小川も、いつものようにそばにいてくれた。

けれど、その日の朝から、まりあは妙に身体が重かった。

熱があるわけではない。
どこかが痛いわけでもない。
ただ、胸の奥に冷たい石のようなものが沈んでいる感じがした。

歌う気持ちが、うまく上がってこなかった。

それでも、小川に心配をかけたくなかった。
だから、まりあはいつもより明るく振る舞った。

「大丈夫です」

何度かそう言った。
本当に大丈夫だと思いたかった。

ステージの上で、仮音源に合わせて動いている最中だった。

一瞬、床が傾いたように感じた。
視界の端が白くなる。
足元の感覚が、ふっと消えた。

次に目を開けたとき、見えたのはスタジアムの天井ではなかった。

白い病院の天井だった。
横で、小川が自分の名前を呼んでいた。

検査の結果、大きな異常はなかった。
ただ、医師からは、疲労と精神的な負荷がかなり溜まっていると言われた。

小川は、いつもの落ち着いた声で説明してくれた。
けれど、その声の奥に、ほんの少しだけ焦りのようなものがあった。
まりあは、それを覚えていた。

「まりあ?」

理沙の声がして、まりあは我に返った。

目の前には、少し冷めかけた肉と、半分ほど残ったワインがあった。
理沙が、こちらを見ている。

「ごめん。ぼんやりしてた」

まりあは慌てて笑った。

「ううん」

理沙は、少しだけ目を細めた。

「疲れてるんだね」

その言い方は、問いかけではなかった。

見抜かれた。
まりあはそう思った。

「そんなことないよ」

そう言いながら、まりあは笑顔を作った。
けれど、自分でも少し下手な笑顔だと思った。

理沙は、しばらくまりあを見ていた。

それから、ふと思いついたようにスマホを取り出した。

「ねえ」

「うん?」

理沙は画面を操作し、何かの音源を探した。
そして、スマホをまりあの方へ差し出した。

「ちょっと、聴いてみない?」



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