まりあは、理沙のスマホを両手で持ったまま、じっと画面を見ていた。
画面には、音源ファイルの再生画面が表示されている。
曲名のところには、少し信じがたい文字が並んでいた。
他人の不幸は蜜の味。
まりあは、最初にそのタイトルを見たとき、思わず理沙の顔を見た。
理沙は何も言わず、少しだけ笑った。
「とりあえず、聴いてみて」
そう言われて、まりあは再生ボタンを押した。
スマホの小さなスピーカーから、イントロが流れ始める。
まりあの表情が、少しずつ変わっていった。
最初の戸惑いが消える。
目が、わずかに大きくなる。
身体が、自然にリズムを拾い始める。
理沙は、その様子を黙って見ていた。
そして、つい数日前のことを思い出していた。
その夜、Arisa-Mistyの4人は、営業終了後の「白河」に集まっていた。
店内には、客の姿はもうなかった。
カウンターの奥では、湯浅が片づけを終えたグラスを並べている。
昼間、フィリップから連絡があった。
曲ができた。
理沙が前回持ってきた詩に、フィリップが曲をつけたらしい。
島崎も、タイトルを考えたという。
4人は、いつもの席に集まった。
「じゃあ、まずタイトルから」
理沙が言うと、島崎は少しだけ背筋を伸ばした。
眠そうな目はいつも通りだったが、どこか得意そうでもあった。
「『他人の不幸は蜜の味』がいいと思います」
一瞬、店内が静かになった。
理沙も、湯浅も、フィリップも、島崎を見た。
誰もすぐには何も言わなかった。
あまりにも、そのままだった。
あまりにも、悪趣味だった。
そして、あまりにも、ぴったりだった。
フィリップが、ゆっくり親指を立てた。
「最高にひどい」
湯浅が小さく息を吐く。
「褒め言葉としては、これ以上ないな」
理沙は笑った。
「文句なし」
島崎は、少しだけ嬉しそうに頷いた。
続いて、フィリップが端末を操作した。
「じゃあ、曲いきます」
店内のスピーカーから、イントロが流れ始めた。
最初の一音で、空気が変わった。
軽い。
明るい。
けれど、どこか性格が悪い。
跳ねるようなリズムに、皮肉っぽいギターが絡む。
ベースは妙に楽しげにうねり、ドラムは客席を煽るように前へ出てくる。
理沙は、思わず笑った。
「なにこれ」
「いいでしょ」
フィリップが得意げに言う。
理沙は立ち上がった。
曲に合わせて、前回の詩の冒頭を口ずさむ。
すぐに乗れた。
言葉が、音の上を滑るように進んでいく。
毒のある言葉が、明るいリズムに乗ることで、かえって鮮やかになる。
暗くならない。
じめじめしない。
笑い飛ばしているようで、どこか本気でもある。
理沙は、二番の途中まで歌ったところで、手を止めた。
「これは、盛り上がること間違いなし」
「だろ?」
フィリップは胸を張った。
島崎も、テーブルを指で軽く叩きながら頷いている。
「タイトルとの相性もいいと思います」
「悔しいけど、いい」
理沙はそう言って笑った。
けれど、その空気の中で、湯浅だけは少し浮かない顔をしていた。
理沙は、それに気づいていた。
湯浅とは、事前に話していた。
この曲のことだけではない。
これからのことも。
フィリップと島崎は、まだ知らない。
理沙は、深く息を吸った。
「ちょっとここで、重大なお知らせがあります」
言った瞬間、場が静かになった。
フィリップが、理沙と湯浅の顔を交互に見る。
そして、なぜか意味深に口元を緩めた。
「もしかして、まさかの……」
「違う」
理沙は即座に切った。
「まだ何も言ってない」
「顔がそういう顔だった」
「どんな顔よ」
「いや、ほら。バンド内恋愛的な」
「違うって言ってるでしょ」
湯浅が苦笑し、島崎が少しだけ首を傾げた。
理沙は、わざと咳払いをした。
「真面目な話」
フィリップの表情から、冗談の色が消える。
理沙は、3人を見た。
「バンド活動を、しばらくの間休止したいと思います」
今度こそ、本当の沈黙が落ちた。
「え?」
最初に声を出したのは島崎だった。
「休止?」
フィリップが眉を寄せる。
「ちょっと待って。冗談だよね?」
「冗談じゃない」
理沙は静かに言った。
「勘違いしないで。解散とは言ってない。しばらくの間の休止」
「なんで」
フィリップの声には、少し強い色が混じっていた。
「今、いい感じじゃん。この曲だって絶対いける。ライブも増えてる。なんで今?」
その問いは、当然だった。
理沙も分かっていた。
だから、すぐに言葉が出なかった。
湯浅は黙っていた。
島崎も、いつもの眠そうな顔ではなく、真剣な目で理沙を見ていた。
理沙は、テーブルの上に置いた自分の端末を見た。
画面には、「他人の不幸は蜜の味」というタイトルが表示されたままだった。
皮肉なものだと思った。
他人の不幸を笑う歌を作っていたら、自分のところにも、ちゃんと不幸らしきものが来た。
「理由は、ちゃんと話す」
理沙は言った。
「でも、今日はまず、この曲を形にするところまで決めたい」
フィリップはまだ何か言いたそうだったが、口を閉じた。
島崎も、ゆっくり頷いた。
湯浅は、何も言わずに理沙を見ていた。
そこで、記憶は途切れた。
「これ、すごい」
まりあの声で、理沙は現在に戻った。
スマホの音源は、ちょうど終わったところだった。
まりあは、さっきまでの疲れた表情を少し忘れたように、目を輝かせていた。
「タイトル見た瞬間、ちょっと引いちゃったけど」
「普通は引くよね」
理沙は笑った。
「でも、曲が始まったら全然違う。なんか、ひどいこと言ってるのに、元気になる」
「その見た目と内容のギャップがいいのよ」
まりあは、もう一度スマホの画面を見た。
「他人の不幸は蜜の味」
口に出してから、少し苦笑する。
「すごいタイトル」
「島崎くん作」
「なんとなく分かる気がする」
「でしょ」
理沙はワインを一口飲んだ。
少し冷めた肉を一切れ取り、岩塩をつける。
「もともとは、日頃の鬱積した気持ちから出てきた詩なんだけどね」
まりあは、スマホをテーブルに置き、理沙の方を見た。
「仕事の?」
「仕事もあるし、世の中全体への八つ当たりもあるし、自分への嫌味もある」
「自分への?」
「うん」
理沙は少し笑った。
「ただ、自分が不幸です、つらいです、って歌っても面白くないでしょ」
「うん」
「だから、少し離れたところから見ることにしたの。不幸の真ん中にいる自分を、別の自分が眺めてる。で、笑ってる」
まりあは、少しだけ眉を寄せた。
「それ、けっこう怖いね」
「怖いよ。悪趣味だし」
理沙はあっさり言った。
「でも、そうでもしないと笑えないことってあるじゃない」
まりあは、すぐには答えなかった。
その言葉は、少し分かる気がした。
自分に向けられる疑いの言葉。
画面の向こうから飛んでくる悪意。
巨大なステージの上で倒れた日のこと。
それらを真正面から受け止めていたら、たぶん立っていられない。
少し離れた場所から見る。
自分を、自分ではない誰かのように見る。
まりあにも、思い当たることがあった。
「でもね」
理沙は、ふと声を落とした。
「まさか、本当に不幸が自分に降りかかるとは思ってなかった」
まりあは、理沙を見た。
さっきまで笑っていた理沙の顔に、少しだけ寂しさが混じっていた。
「何かあったの?」
「会社で、希望退職の発表があった」
まりあは、息を呑んだ。
同じシステム系の仕事をしていたから、その言葉の重さは分かる。
表向きは希望。
けれど、その裏に何があるのかも、なんとなく分かる。
理沙は続けた。
「今のプロジェクトが、5月末で終わるの。そのあと、人員体制の整理があるって」
「それで……」
「うん。ちょっと悩んだけど、手を挙げた」
まりあは、言葉を失った。
理沙は、あえて軽く言うように笑った。
「まあ、自分で決めたことなんだけどね」
「でも」
まりあは何か言おうとした。
けれど、うまく言葉が出てこなかった。
励ませばいいのか。
止めればいいのか。
大丈夫と言えばいいのか。
何を言っても、薄くなってしまいそうだった。
理沙は、まりあの表情を見て、少し慌てたように手を振った。
「ごめん。そんな顔させたかったわけじゃないの」
「ううん」
「本題は、こっち」
理沙は、テーブルの上のスマホを軽く指で叩いた。
「え?」
まりあが顔を上げる。
理沙は、少しだけ姿勢を正した。
「まりあ」
「うん」
「もしよければ、この曲を歌ってみない?」
まりあは、すぐには意味が分からなかった。
理沙は、静かに言葉を足した。
「マリア・エレーナの声で」
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