002_21_13日の金曜日の前日は木曜日(2)

まりあは、理沙のスマホを両手で持ったまま、じっと画面を見ていた。

画面には、音源ファイルの再生画面が表示されている。
曲名のところには、少し信じがたい文字が並んでいた。

他人の不幸は蜜の味。

まりあは、最初にそのタイトルを見たとき、思わず理沙の顔を見た。
理沙は何も言わず、少しだけ笑った。

「とりあえず、聴いてみて」

そう言われて、まりあは再生ボタンを押した。
スマホの小さなスピーカーから、イントロが流れ始める。
まりあの表情が、少しずつ変わっていった。

最初の戸惑いが消える。
目が、わずかに大きくなる。
身体が、自然にリズムを拾い始める。

理沙は、その様子を黙って見ていた。
そして、つい数日前のことを思い出していた。

その夜、Arisa-Mistyの4人は、営業終了後の「白河」に集まっていた。

店内には、客の姿はもうなかった。
カウンターの奥では、湯浅が片づけを終えたグラスを並べている。

昼間、フィリップから連絡があった。
曲ができた。
理沙が前回持ってきた詩に、フィリップが曲をつけたらしい。
島崎も、タイトルを考えたという。

4人は、いつもの席に集まった。

「じゃあ、まずタイトルから」

理沙が言うと、島崎は少しだけ背筋を伸ばした。
眠そうな目はいつも通りだったが、どこか得意そうでもあった。

「『他人の不幸は蜜の味』がいいと思います」

一瞬、店内が静かになった。
理沙も、湯浅も、フィリップも、島崎を見た。

誰もすぐには何も言わなかった。

あまりにも、そのままだった。
あまりにも、悪趣味だった。
そして、あまりにも、ぴったりだった。

フィリップが、ゆっくり親指を立てた。

「最高にひどい」

湯浅が小さく息を吐く。

「褒め言葉としては、これ以上ないな」

理沙は笑った。

「文句なし」

島崎は、少しだけ嬉しそうに頷いた。
続いて、フィリップが端末を操作した。

「じゃあ、曲いきます」

店内のスピーカーから、イントロが流れ始めた。

最初の一音で、空気が変わった。

軽い。
明るい。
けれど、どこか性格が悪い。

跳ねるようなリズムに、皮肉っぽいギターが絡む。
ベースは妙に楽しげにうねり、ドラムは客席を煽るように前へ出てくる。

理沙は、思わず笑った。

「なにこれ」

「いいでしょ」

フィリップが得意げに言う。

理沙は立ち上がった。
曲に合わせて、前回の詩の冒頭を口ずさむ。
すぐに乗れた。

言葉が、音の上を滑るように進んでいく。
毒のある言葉が、明るいリズムに乗ることで、かえって鮮やかになる。

暗くならない。
じめじめしない。
笑い飛ばしているようで、どこか本気でもある。

理沙は、二番の途中まで歌ったところで、手を止めた。

「これは、盛り上がること間違いなし」

「だろ?」

フィリップは胸を張った。
島崎も、テーブルを指で軽く叩きながら頷いている。

「タイトルとの相性もいいと思います」

「悔しいけど、いい」

理沙はそう言って笑った。

けれど、その空気の中で、湯浅だけは少し浮かない顔をしていた。
理沙は、それに気づいていた。

湯浅とは、事前に話していた。

この曲のことだけではない。
これからのことも。
フィリップと島崎は、まだ知らない。

理沙は、深く息を吸った。

「ちょっとここで、重大なお知らせがあります」

言った瞬間、場が静かになった。

フィリップが、理沙と湯浅の顔を交互に見る。
そして、なぜか意味深に口元を緩めた。

「もしかして、まさかの……」

「違う」

理沙は即座に切った。

「まだ何も言ってない」

「顔がそういう顔だった」

「どんな顔よ」

「いや、ほら。バンド内恋愛的な」

「違うって言ってるでしょ」

湯浅が苦笑し、島崎が少しだけ首を傾げた。
理沙は、わざと咳払いをした。

「真面目な話」

フィリップの表情から、冗談の色が消える。

理沙は、3人を見た。

「バンド活動を、しばらくの間休止したいと思います」

今度こそ、本当の沈黙が落ちた。

「え?」

最初に声を出したのは島崎だった。

「休止?」

フィリップが眉を寄せる。

「ちょっと待って。冗談だよね?」

「冗談じゃない」

理沙は静かに言った。

「勘違いしないで。解散とは言ってない。しばらくの間の休止」

「なんで」

フィリップの声には、少し強い色が混じっていた。

「今、いい感じじゃん。この曲だって絶対いける。ライブも増えてる。なんで今?」

その問いは、当然だった。
理沙も分かっていた。
だから、すぐに言葉が出なかった。

湯浅は黙っていた。

島崎も、いつもの眠そうな顔ではなく、真剣な目で理沙を見ていた。
理沙は、テーブルの上に置いた自分の端末を見た。

画面には、「他人の不幸は蜜の味」というタイトルが表示されたままだった。

皮肉なものだと思った。
他人の不幸を笑う歌を作っていたら、自分のところにも、ちゃんと不幸らしきものが来た。

「理由は、ちゃんと話す」

理沙は言った。

「でも、今日はまず、この曲を形にするところまで決めたい」

フィリップはまだ何か言いたそうだったが、口を閉じた。
島崎も、ゆっくり頷いた。
湯浅は、何も言わずに理沙を見ていた。

そこで、記憶は途切れた。

「これ、すごい」

まりあの声で、理沙は現在に戻った。

スマホの音源は、ちょうど終わったところだった。
まりあは、さっきまでの疲れた表情を少し忘れたように、目を輝かせていた。

「タイトル見た瞬間、ちょっと引いちゃったけど」

「普通は引くよね」

理沙は笑った。

「でも、曲が始まったら全然違う。なんか、ひどいこと言ってるのに、元気になる」

「その見た目と内容のギャップがいいのよ」

まりあは、もう一度スマホの画面を見た。

「他人の不幸は蜜の味」

口に出してから、少し苦笑する。

「すごいタイトル」

「島崎くん作」

「なんとなく分かる気がする」

「でしょ」

理沙はワインを一口飲んだ。
少し冷めた肉を一切れ取り、岩塩をつける。

「もともとは、日頃の鬱積した気持ちから出てきた詩なんだけどね」

まりあは、スマホをテーブルに置き、理沙の方を見た。

「仕事の?」

「仕事もあるし、世の中全体への八つ当たりもあるし、自分への嫌味もある」

「自分への?」

「うん」

理沙は少し笑った。

「ただ、自分が不幸です、つらいです、って歌っても面白くないでしょ」

「うん」

「だから、少し離れたところから見ることにしたの。不幸の真ん中にいる自分を、別の自分が眺めてる。で、笑ってる」

まりあは、少しだけ眉を寄せた。

「それ、けっこう怖いね」

「怖いよ。悪趣味だし」

理沙はあっさり言った。

「でも、そうでもしないと笑えないことってあるじゃない」

まりあは、すぐには答えなかった。
その言葉は、少し分かる気がした。

自分に向けられる疑いの言葉。
画面の向こうから飛んでくる悪意。
巨大なステージの上で倒れた日のこと。

それらを真正面から受け止めていたら、たぶん立っていられない。

少し離れた場所から見る。
自分を、自分ではない誰かのように見る。

まりあにも、思い当たることがあった。

「でもね」

理沙は、ふと声を落とした。

「まさか、本当に不幸が自分に降りかかるとは思ってなかった」

まりあは、理沙を見た。
さっきまで笑っていた理沙の顔に、少しだけ寂しさが混じっていた。

「何かあったの?」

「会社で、希望退職の発表があった」

まりあは、息を呑んだ。
同じシステム系の仕事をしていたから、その言葉の重さは分かる。

表向きは希望。
けれど、その裏に何があるのかも、なんとなく分かる。

理沙は続けた。

「今のプロジェクトが、5月末で終わるの。そのあと、人員体制の整理があるって」

「それで……」

「うん。ちょっと悩んだけど、手を挙げた」

まりあは、言葉を失った。
理沙は、あえて軽く言うように笑った。

「まあ、自分で決めたことなんだけどね」

「でも」

まりあは何か言おうとした。
けれど、うまく言葉が出てこなかった。

励ませばいいのか。
止めればいいのか。
大丈夫と言えばいいのか。

何を言っても、薄くなってしまいそうだった。

理沙は、まりあの表情を見て、少し慌てたように手を振った。

「ごめん。そんな顔させたかったわけじゃないの」

「ううん」

「本題は、こっち」

理沙は、テーブルの上のスマホを軽く指で叩いた。

「え?」

まりあが顔を上げる。
理沙は、少しだけ姿勢を正した。

「まりあ」

「うん」

「もしよければ、この曲を歌ってみない?」

まりあは、すぐには意味が分からなかった。
理沙は、静かに言葉を足した。

「マリア・エレーナの声で」



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