002_22_ひと区切り

「Arisa-Mistyは、いったん活動を休止します」

ライブの最後に、理沙はそう告げた。
まりあの家で2人だけの飲み会をしてから、一週間後の夜だった。

会場には、まだ熱が残っていた。
最後の曲を終えたあと、理沙はマイクを持ったまま、少しだけ客席を見ていた。

湯浅はギターを下ろさず、フィリップはベースを抱えたまま立っている。
島崎はドラムセットの向こうで、スティックを持ったまま黙っていた。

重大発表があります。

そう前置きした時点で、客席の空気は少し変わっていた。
それでも、理沙の口から活動休止という言葉が出た瞬間、最前列の何人かが小さく声を上げた。

「え……」

「うそでしょ」

ざわめきが、後ろの方へ広がっていく。

やめないで。

誰かがそう言った。
その声に、別の声が重なる。

まだ聴きたい。
せっかく最近ライブ増えてきたのに。
また戻ってくるよね。

言葉はばらばらだった。
けれど、その奥にある気持ちは、同じだった。
理沙は、それを黙って聞いていた。

胸の奥が、少し熱くなる。

自分たちは、まだ小さなバンドだと思っていた。
実際、小さなバンドだった。

大きな会場で歌っているわけでもない。
テレビに出ているわけでもない。
配信で大きな数字を取っているわけでもない。

それでも、この小さなライブハウスの中には、自分たちの歌を待ってくれる人がいる。
そのことを、理沙はあらためて感じた。

やがて、客席のどこかから、手拍子が始まった。

最初は1人か2人だった。
それが少しずつ増えていく。
頑張れ。

誰かが言った。

頑張れ。

別の誰かが続ける。

いつの間にか、会場全体が、ゆっくりとしたコールに包まれていた。

頑張れ。
頑張れ。
頑張れ。

理沙は目を閉じた。
その声を、身体の中に入れるように聞いた。
やめないで、と言われるよりも、少しだけ救われる気がした。

しばらくして、コールが自然におさまる。

理沙は目を開けた。
そして、マイクを口元に近づけた。

「解散はしません」

客席が静かになる。
理沙は続けた。

「またいつか、戻ります」

それ以上のことは、まだ言えなかった。

いつなのか。
どういう形なのか。
本当に戻れるのか。

理沙自身にも、分からなかった。
それでも、その言葉だけは嘘ではなかった。

週末は、ライブの余韻を抱えたまま過ぎていった。
部屋に戻っても、客席からのコールが耳の奥に残っていた。

頑張れ。
頑張れ。

その声を思い出すたびに、理沙は少しだけ笑い、それから少しだけ胸が痛くなった。

月曜日の朝。

理沙はいつものように出社し、自分の席に座った。

端末を起動する。
メールを確認する。
チケットを開く。
担当している作業の進捗を見る。

やることは、いつもと変わらなかった。
けれど、オフィスの空気は少し違っていた。

まだ午前中の早い時間なのに、どこか一日の終わりのような空気があった。

プロジェクトの終了が、近づいている。
それは、誰もが分かっていることだった。

画面を見ている人。
打ち合わせスペースで小声で話す人。
資料を整理する人。
私物を少しずつ片づけている人。

誰も大きな声は出さない。

けれど、静かなざわめきだけが、部屋全体に薄く広がっていた。

理沙は椅子に座ったまま、軽く背伸びをした。
そのとき、向かいの席の同僚と目が合った。

同僚の女性は、少しだけ迷ったような顔をしてから言った。

「大嶋さんも、手を挙げたんだ」

理沙は一瞬だけ間を置いて、頷いた。

「ええ」

それだけで、会話は少し重くなった。

昼休み。

理沙は、その同僚と一緒に近くの店へ昼食を食べに行った。
混み始める少し前の時間だったので、2人は窓際の席に座ることができた。
外では、春先の淡い光がビルの壁を照らしている。

注文を終えると、同僚は水の入ったグラスを両手で包むように持った。

「私はね、田舎に行こうと思ってる」

「田舎?」

「うん。祖母の家が空き家になってて。古民家ってほど立派じゃないけど、少し直せば住めそうなの」

同僚は、思っていたよりも明るい声で話した。

退職金を元手に、家を直す。
庭を少し整える。
昔から好きだった手仕事を生かして、小さな教室か、ネット販売のようなことを始める。

もちろん、簡単ではないだろう。
それでも、彼女の中には、退職後の生活がそれなりに形を持っているようだった。

理沙は、頷きながら聞いていた。

「大嶋さんは?」

同僚が尋ねる。

「退職金で何するの?」

理沙は、すぐには答えられなかった。
窓の外に目を向ける。

道路を挟んだ向こう側で、スーツ姿の人たちが足早に歩いている。
昼休みの短い時間を、それぞれの行き先へ向かって流れていく。

自分は、何をするのだろう。

来月には、Arisa-Mistyのラストライブがある。
5月末には、今のプロジェクトが終わる。
その先のことは、まだ何も決まっていない。

退職金を元手に、何かを始める。
そういう具体的な計画は、理沙の中にはなかった。

しばらく考えてから、理沙は少し笑った。

「旅にでも出ますかね」

言ってみると、それは思った以上に自分の本音に近かった。
同僚は、少し意外そうにした。

「旅?」

「はい。しばらく、どこかへ」

「いいね。そういうのも」

同僚はそう言った。
けれど、理沙の胸の中には、湯浅の声がよみがえっていた。

バンド活動の休止について、湯浅に最初に相談した日のことだった。

理沙さんがどうするかは、理沙さんの自由や。
でも、俺ら3人のことはどうするんや。
その言葉は、責めているというより、当然の確認だった。

理沙が離れる。
それは、理沙だけの問題ではない。

湯浅。
フィリップ。
島崎。

3人にも、それぞれの時間があり、生活がある。
Arisa-Mistyが休止するなら、その先をどうするのか考えなければならない。

午後になっても、理沙の手は淡々と作業を進めていた。

画面上では、いつものようにログが流れる。
作業手順を確認し、必要な項目を入力し、処理結果を記録する。

けれど、頭の中では別のことを考えていた。

3人の先々。
Arisa-Mistyの先。
そして、まりあのこと。

やがて、ひとつの考えが浮かんだ。

最初は、少し突拍子もないように思えた。
けれど、考えれば考えるほど、そこに道があるような気がした。

理沙は、仕事用の画面の隅にあるチャット欄ではなく、私物のスマホを手に取った。
湯浅にメッセージを送る。

<ちょっと相談が>

返事は、思ったより早かった。

<オカネの相談はお断りです>

理沙は、思わず小さく笑った。

<違う。バンドのこの先のこと>

少し間があいた。
今度は、湯浅の返事が真面目な文面になった。

<聞く>

理沙は、フィリップと島崎も会話に入れていいか確認した。
湯浅から、すぐに了承が来る。

数分後、グループの会話にフィリップと島崎も加わった。

理沙は、画面を見ながら、少しだけ息を吸った。
そして、できるだけ単刀直入に打った。

<まりあのバックバンドをやるというのは?>

送信する。

しばらく、誰からも返事がなかった。
理沙は、その沈黙を見つめた。
画面の上では、既読だけが増えている。

きっとフィリップは、いやらしい笑顔を浮かべている。
そう思った。

予想通り、最初に返してきたのはフィリップだった。

<OK>

早い。

理沙は苦笑した。
続いて、別のメッセージが来る。

<マリア・エレーナのバックで弾けるなら、普通にやりたい>

フィリップらしい、率直な返事だった。
少し遅れて、島崎からも返事が来た。

<面白いと思います>

そのあとに、もう一つ。

<理沙さんがそれでいいなら>

島崎らしい文面だった。
最後に、湯浅から返事が来た。

<案としてはありやと思う>

少し間を置いて、続きが来る。

<でも、柴原社長がOKするかが最大のハードルやな>

理沙は頷いた。
それは分かっている。

HALUCAにとって、マリア・エレーナのブランドは大きな投資案件だ。
そこに、いきなりライブハウス出身のバンドを入れることが簡単ではないことも分かる。

けれど、話の仕方次第では、道はあると思った。

Arisa-Mistyは、理沙だけのバンドではない。
湯浅も、フィリップも、島崎も、それぞれ腕がある。
そして3人は、ただの伴奏者ではなく、理沙の歌を支えてきた人間だった。

それなら、まりあの歌も支えられるかもしれない。

理沙は、次の文面を打った。

<もちろん、すぐにとは言わない>

<まずは、まりあのファーストライブが終わってから>

<そのあと、話せるタイミングがあれば、私から提案してみる>

湯浅から返事が来る。

<それなら現実味は少しある>

フィリップが続ける。

<俺はいつでも準備OK>

島崎からは、

<練習します>

とだけ来た。
理沙は、画面を見ながら少し笑った。

それから、もう一つ、ずっと頭の中にあったことを打った。

<それと、もし話が進むなら>

指が少し止まる。
それでも、送る。

<あたしも、あとから加わって、まりあとツイン・ヴォーカルを組みます>

しばらく沈黙があった。
それから、湯浅の返事。

<なるほどね>

短い文面だった。
けれど、湯浅がその可能性を頭の中で組み立て始めていることが、理沙には分かった。

フィリップからは、すぐに反応が来た。

<最高じゃん>

続いて、

<絶対盛り上がる>

島崎からも、少し遅れて返事が来る。

<見てみたいです>

理沙は、画面を見つめた。
まだ、ただの思いつきに近い。

柴原が受け入れるかも分からない。
小川がどう判断するかも分からない。
まりあ本人がどう思うかも分からない。

けれど、完全な空想ではない気がした。

Arisa-Mistyをただ止めるのではない。
3人を置き去りにするのでもない。
まりあと別々の道を行くだけでもない。
どこかで、また交わる可能性を残す。

それは、理沙にとって必要なことだった。

最後に、理沙はこう打った。

<なのであたしは、しばらく旅に出て、しっかり充電してきます>

フィリップから、すぐに返事が来る。

<旅先で変な男についていかないように>

理沙は眉をひそめた。

<それ、私が言う側でしょ>

島崎からは、

<お土産お願いします>

湯浅からは、

<帰ってくる前提なら、まあええわ>

理沙は、その文面を見て、少しだけ目を細めた。

帰ってくる前提。

そうだ。
自分は、どこかへ行く。
けれど、消えるつもりはない。

まりあが5月のファーストライブを無事に終えたら、この話をしてみよう。

彼女がどう受け止めるかは分からない。
もしかしたら、困らせるだけかもしれない。
それでも、そのときにはちゃんと話したい。

理沙はスマホを伏せ、再び仕事用の画面に目を戻した。

午前中と同じように、作業はまだ残っている。
けれど、胸の中の景色は、少しだけ変わっていた。

終わるものがある。
区切りをつけるものがある。
けれど、その先に、まだ細い道が伸びている。

理沙は、それを見つめながら、キーボードに指を置いた。



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