ファーストコンサートの日まで、あと一か月を切っていた。
準備は、着々と進んでいる。
少なくとも、表向きにはそう見えた。
チケット販売は始まっている。
宣伝用の映像も、次々に公開されている。
会場の設営計画も、細かい修正を重ねながら本番に近づいている。
まりあはその日も、柴原と小川と一緒に東京ドームスタジアムへ向かった。
車の窓から見える街は、いつも通りだった。
朝の道路。
通勤する人たち。
信号待ちの車列。
少し霞んだ春の空。
けれど、まりあの胸の奥には、常に本番までの残り日数があった。
あと一か月。
そう思うだけで、身体のどこかが少し硬くなる。
東京ドームスタジアムに入ると、すでにスタッフたちは作業を始めていた。
グラウンド中央の円形ステージ。
客席の上部に並ぶ発光装置。
床面に走るケーブル。
放送席に置かれたモニター群。
何度も見た光景になりつつあった。
それでも、この場所に入るたび、まりあは少しだけ呼吸が浅くなる。
立体プロジェクターの映像は、この数週間で見違えるほど改善されていた。
最初のころは、動きに少し遅れがあった。
腕を上げると、上空のマリア・エレーナがわずかに遅れて追いかけてくる。
髪や衣装の一部が不自然に揺れることもあった。
照明の角度によっては、輪郭が少し崩れることもあった。
けれど、今は違う。
まりあがステージの上で歩くと、巨大なマリア・エレーナも滑らかに動く。
手を広げると、上空の光の身体も同じように広がる。
振り返ると、髪の流れまで自然に追随する。
もう、映像というより、もう一人の出演者のようだった。
柴原は、放送席のモニターを見ながら、満足そうに頷いた。
「ここまで来ましたね」
その声には、いつもの冷静さの奥に、わずかな高揚が混じっていた。
「本番で観客の前に出せば、かなり印象に残るはずです」
スタッフの一人がそう言うと、柴原は小さく頷いた。
「ええ。早く見せたいですね」
その言葉を聞いて、小川はステージの方を見た。
柴原が見ているのは、完成度だった。
技術。
演出。
観客への効果。
ファーストコンサートの成功。
もちろん、それは小川も見ている。
けれど、小川の視線は、どうしても別のところに向かった。
ステージ上のまりあ。
2週間前、彼女はこの場所で倒れた。
あの日のことを、小川はまだはっきり覚えている。
一瞬、まりあの足元が崩れた。
身体が横に傾く。
スタッフの声が飛ぶ。
自分が走り出すより先に、近くにいたスタッフが彼女を支えようとした。
気づけば、救急搬送の手配をしていた。
病院での検査では、大きな異常は見つからなかった。
医師は、疲労と精神的な負荷がかなり溜まっていると言った。
小川は、その言葉を忘れられなかった。
まりあは、平気な顔をする。
大丈夫です、と言う。
笑って頷く。
けれど、日によって表情の明るさが違う。
声の張りも違う。
歩き方の軽さも違う。
昨日は大丈夫でも、今日も大丈夫とは限らない。
小川は、放送席のディレクターに声をかけた。
「すみません。少しヘッドセットをお借りしてもいいですか」
「どうぞ」
ディレクターが予備のヘッドセットを渡す。
小川はそれを装着し、マイクの位置を整えた。
「小川です。まりあ、聞こえますか」
ステージ上のまりあが、少し顔を上げた。
「聞こえます」
イヤホン越しに、まりあの声が返ってくる。
小川は、できるだけ普段通りの声で尋ねた。
「体の方は大丈夫?」
まりあは放送席の方を見上げた。
そして、両腕で大きく丸を作った。
ステージの上で、少し大げさなくらいの丸。
小川は、それを見て小さく笑った。
「分かりました。無理はしないで」
まりあはもう一度、丸の形を作ってから、スタッフの方へ向き直った。
今日は、大丈夫そうに見える。
けれど、その「大丈夫そう」という言葉が、小川には少し頼りなく感じられた。
今日のリハーサルは、本番を想定した通しだった。
ファーストコンサートで歌う曲順も、ほぼ確定している。
最初から最後まで、本番と同じ流れで確認する。
照明。
音響。
立体プロジェクター。
ステージ上の動き。
曲間の映像。
MCの位置。
スタッフの入れ替わり。
確認項目は、多かった。
まりあは衣装に着替え、ステージ袖に入った。
場内の照明が落ちる。
巨大なスタジアムが、ゆっくり暗くなった。
グラウンド中央の円形ステージだけが、淡く照らされる。
放送席にいたスタッフたちの声が、少しずつ小さくなる。
ディレクターが言った。
「通しリハーサル、開始します」
最初の曲のイントロが流れた。
ステージ袖から、まりあが歩き出す。
ステージ衣装がライトを受けて、静かに光った。
歌い出しは、申し分なかった。
声はよく出ている。
表情も硬すぎない。
歩き出しのタイミングも合っている。
小川は、少しだけ肩の力を抜いた。
そのときだった。
ディレクターの声が飛んだ。
「プロジェクターが動いていない!」
放送席の空気が一気に変わる。
モニターには、ステージ上のまりあだけが映っていた。
本来なら、上空に巨大なマリア・エレーナが出ているはずだった。
けれど、空中には何もない。
「投影系、応答なし」
「いや、装置は生きています」
「トリガー入ってない」
「どこで止まった?」
スタッフの声が重なる。
立体プロジェクターの制御は、かなり自動化されている。
けれど、すべてが完全自動ではない。
曲の開始。
照明。
ステージ上の位置。
まりあの動き。
映像演出。
それらが重なる場面では、人間の判断や確認が入る。
そのどこかで、手順が抜けた。
ディレクターがマイクに向かって言った。
「止めます。音、止めて」
曲が途中で切れた。
ステージ上のまりあは、すぐに足を止めた。
そして、放送席の方を見上げる。
小川は、その表情を見た。
驚きというより、少しだけ力が抜けたような顔だった。
一度切れたものを、もう一度戻す。
それは、思ったより難しい。
リハーサルは中断された。
スタッフたちは原因を確認し、手順を見直し、数値をチェックする。
操作ミス自体は、大きな問題ではなかった。
本番前に見つかったのなら、むしろ良かったとも言える。
けれど、小川には別のことが気になった。
疲れているのは、まりあだけではない。
放送席のスタッフも、照明も、音響も、プロジェクター担当も、ステージ側のスタッフも、皆どこか目の奥が重い。
集中している。
だからこそ、疲れている。
この一か月、全員が詰めてきた。
新しいスタジアム。
新しい技術。
初めての演出。
マリア・エレーナのファーストコンサート。
どれも前例がない。
そして前例がないということは、細かい不具合をひとつずつ潰していくしかないということだった。
しばらくして、リハーサルは再開された。
最初の曲を、もう一度。
今度は、立体プロジェクターも正常に動いた。
まりあの上空に、巨大なマリア・エレーナが現れる。
客席のないスタジアムに向かって、2人のマリアが同時に歌う。
小川はその光景を見ながら、胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。
美しい。
たぶん、本番では多くの人がそう思う。
けれど、その美しさの裏側には、何度も止まり、やり直し、削られていく時間がある。
その後も、リハーサルは順調とは言い切れなかった。
2曲目の途中で照明の色が予定と違った。
3曲目では、映像の切り替えが半拍遅れた。
4曲目の前の暗転では、ステージ袖の合図がずれた。
5曲目では、まりあの立ち位置がほんの少し中心から外れたため、映像側の補正が不自然になった。
そのたびに、止める。
確認する。
戻す。
もう一度やる。
まりあは、そのたびに頷いた。
「大丈夫です」
何度もそう言った。
小川は、その「大丈夫です」を聞くたびに、少しずつ不安になった。
大丈夫と言う人ほど、本当は大丈夫ではないことがある。
夜が深くなっていく。
スタジアムの外では、もう街の灯りが少なくなっている時間だった。
それでも中では、照明が点き、音が流れ、スタッフの声が飛び交っている。
曲ごとの確認は続いた。
一曲ずつ。
確実に。
もう一度。
必要なら、さらにもう一度。
すべての曲のリハーサルが終わったとき、日付は変わっていた。
まりあはステージの中央で、深く息を吐いた。
大きなトラブルは、最後にはすべて修正された。
けれど、その場にいた誰もが、明らかに疲れていた。
帰りの車の中で、まりあは助手席に座ると、すぐに眠ってしまった。
小川は、運転しながら何度か横目で彼女を見た。
街灯の光が、眠っているまりあの顔を横切る。
ステージ衣装を脱ぎ、普段着に戻った彼女は、いつもより少し幼く見えた。
このまま本番まで、彼女の体はもつのだろうか。
小川は、その問いを何度も胸の中で繰り返した。
けれど、答えは出なかった。
まりあのマンションに着く頃には、夜はかなり深くなっていた。
車をエントランス前に停めると、まりあは小川に起こされる前に、ゆっくり目を開けた。
「着きました?」
「はい」
小川はエンジンを切らずに答えた。
「今日は本当にお疲れさまでした」
「小川さんも」
まりあは、少し眠たそうに笑った。
車を降り、エントランスまで歩く。
小川も一緒に降りて、彼女を見送った。
自動扉の前で、小川は言った。
「明日はオフですから、しっかり休んでください」
まりあは頷いた。
「はい」
「本当に、何もしなくていいです。練習も、確認も、資料を見るのも、できればやめてください」
「分かりました」
まりあは笑った。
その笑顔は、素直なようで、どこか申し訳なさそうでもあった。
小川は、それ以上言わなかった。
「では、また明後日」
「はい。また明後日」
小川が車へ戻ろうとしたときだった。
「小川さん」
まりあが呼び止めた。
小川は振り返った。
「はい?」
まりあは、エントランスの光の中に立っていた。
何かを言いたそうだった。
唇が少し動く。
けれど、言葉にはならない。
小川は、急かさずに待った。
まりあは小さく息を吸った。
そして、結局、首を横に振った。
「いえ。なんでもないです」
「……そうですか」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
まりあは、もう一度小さく笑って、エレベーターの方へ歩いていった。
小川は、その背中を見送った。
自動扉が閉まり、まりあの姿が見えなくなる。
それでも、小川はしばらくその場に立っていた。
彼女が何を言おうとしたのか。
それは分からなかった。
けれど、何かを飲み込んだことだけは分かった。
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