002_23_誰のために歌うわけでもなく

ファーストコンサートの日まで、あと一か月を切っていた。

準備は、着々と進んでいる。
少なくとも、表向きにはそう見えた。

チケット販売は始まっている。
宣伝用の映像も、次々に公開されている。
会場の設営計画も、細かい修正を重ねながら本番に近づいている。

まりあはその日も、柴原と小川と一緒に東京ドームスタジアムへ向かった。
車の窓から見える街は、いつも通りだった。

朝の道路。
通勤する人たち。
信号待ちの車列。
少し霞んだ春の空。

けれど、まりあの胸の奥には、常に本番までの残り日数があった。

あと一か月。
そう思うだけで、身体のどこかが少し硬くなる。

東京ドームスタジアムに入ると、すでにスタッフたちは作業を始めていた。

グラウンド中央の円形ステージ。
客席の上部に並ぶ発光装置。
床面に走るケーブル。
放送席に置かれたモニター群。

何度も見た光景になりつつあった。

それでも、この場所に入るたび、まりあは少しだけ呼吸が浅くなる。

立体プロジェクターの映像は、この数週間で見違えるほど改善されていた。
最初のころは、動きに少し遅れがあった。

腕を上げると、上空のマリア・エレーナがわずかに遅れて追いかけてくる。
髪や衣装の一部が不自然に揺れることもあった。
照明の角度によっては、輪郭が少し崩れることもあった。

けれど、今は違う。

まりあがステージの上で歩くと、巨大なマリア・エレーナも滑らかに動く。
手を広げると、上空の光の身体も同じように広がる。
振り返ると、髪の流れまで自然に追随する。

もう、映像というより、もう一人の出演者のようだった。

柴原は、放送席のモニターを見ながら、満足そうに頷いた。

「ここまで来ましたね」

その声には、いつもの冷静さの奥に、わずかな高揚が混じっていた。

「本番で観客の前に出せば、かなり印象に残るはずです」

スタッフの一人がそう言うと、柴原は小さく頷いた。

「ええ。早く見せたいですね」

その言葉を聞いて、小川はステージの方を見た。
柴原が見ているのは、完成度だった。

技術。
演出。
観客への効果。
ファーストコンサートの成功。

もちろん、それは小川も見ている。

けれど、小川の視線は、どうしても別のところに向かった。

ステージ上のまりあ。
2週間前、彼女はこの場所で倒れた。
あの日のことを、小川はまだはっきり覚えている。

一瞬、まりあの足元が崩れた。
身体が横に傾く。
スタッフの声が飛ぶ。
自分が走り出すより先に、近くにいたスタッフが彼女を支えようとした。

気づけば、救急搬送の手配をしていた。
病院での検査では、大きな異常は見つからなかった。
医師は、疲労と精神的な負荷がかなり溜まっていると言った。

小川は、その言葉を忘れられなかった。

まりあは、平気な顔をする。
大丈夫です、と言う。
笑って頷く。

けれど、日によって表情の明るさが違う。
声の張りも違う。
歩き方の軽さも違う。

昨日は大丈夫でも、今日も大丈夫とは限らない。

小川は、放送席のディレクターに声をかけた。

「すみません。少しヘッドセットをお借りしてもいいですか」

「どうぞ」

ディレクターが予備のヘッドセットを渡す。
小川はそれを装着し、マイクの位置を整えた。

「小川です。まりあ、聞こえますか」

ステージ上のまりあが、少し顔を上げた。

「聞こえます」

イヤホン越しに、まりあの声が返ってくる。
小川は、できるだけ普段通りの声で尋ねた。

「体の方は大丈夫?」

まりあは放送席の方を見上げた。

そして、両腕で大きく丸を作った。
ステージの上で、少し大げさなくらいの丸。
小川は、それを見て小さく笑った。

「分かりました。無理はしないで」

まりあはもう一度、丸の形を作ってから、スタッフの方へ向き直った。

今日は、大丈夫そうに見える。

けれど、その「大丈夫そう」という言葉が、小川には少し頼りなく感じられた。

今日のリハーサルは、本番を想定した通しだった。
ファーストコンサートで歌う曲順も、ほぼ確定している。
最初から最後まで、本番と同じ流れで確認する。

照明。
音響。
立体プロジェクター。
ステージ上の動き。
曲間の映像。
MCの位置。
スタッフの入れ替わり。

確認項目は、多かった。

まりあは衣装に着替え、ステージ袖に入った。

場内の照明が落ちる。
巨大なスタジアムが、ゆっくり暗くなった。
グラウンド中央の円形ステージだけが、淡く照らされる。

放送席にいたスタッフたちの声が、少しずつ小さくなる。
ディレクターが言った。

「通しリハーサル、開始します」

最初の曲のイントロが流れた。

ステージ袖から、まりあが歩き出す。
ステージ衣装がライトを受けて、静かに光った。
歌い出しは、申し分なかった。

声はよく出ている。
表情も硬すぎない。
歩き出しのタイミングも合っている。

小川は、少しだけ肩の力を抜いた。

そのときだった。
ディレクターの声が飛んだ。

「プロジェクターが動いていない!」

放送席の空気が一気に変わる。

モニターには、ステージ上のまりあだけが映っていた。
本来なら、上空に巨大なマリア・エレーナが出ているはずだった。
けれど、空中には何もない。

「投影系、応答なし」

「いや、装置は生きています」

「トリガー入ってない」

「どこで止まった?」

スタッフの声が重なる。
立体プロジェクターの制御は、かなり自動化されている。
けれど、すべてが完全自動ではない。

曲の開始。
照明。
ステージ上の位置。
まりあの動き。
映像演出。

それらが重なる場面では、人間の判断や確認が入る。
そのどこかで、手順が抜けた。

ディレクターがマイクに向かって言った。

「止めます。音、止めて」

曲が途中で切れた。
ステージ上のまりあは、すぐに足を止めた。
そして、放送席の方を見上げる。

小川は、その表情を見た。

驚きというより、少しだけ力が抜けたような顔だった。

一度切れたものを、もう一度戻す。
それは、思ったより難しい。

リハーサルは中断された。
スタッフたちは原因を確認し、手順を見直し、数値をチェックする。

操作ミス自体は、大きな問題ではなかった。
本番前に見つかったのなら、むしろ良かったとも言える。

けれど、小川には別のことが気になった。

疲れているのは、まりあだけではない。
放送席のスタッフも、照明も、音響も、プロジェクター担当も、ステージ側のスタッフも、皆どこか目の奥が重い。
集中している。

だからこそ、疲れている。

この一か月、全員が詰めてきた。

新しいスタジアム。
新しい技術。
初めての演出。
マリア・エレーナのファーストコンサート。

どれも前例がない。
そして前例がないということは、細かい不具合をひとつずつ潰していくしかないということだった。

しばらくして、リハーサルは再開された。
最初の曲を、もう一度。
今度は、立体プロジェクターも正常に動いた。

まりあの上空に、巨大なマリア・エレーナが現れる。
客席のないスタジアムに向かって、2人のマリアが同時に歌う。
小川はその光景を見ながら、胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。

美しい。

たぶん、本番では多くの人がそう思う。
けれど、その美しさの裏側には、何度も止まり、やり直し、削られていく時間がある。
その後も、リハーサルは順調とは言い切れなかった。

2曲目の途中で照明の色が予定と違った。
3曲目では、映像の切り替えが半拍遅れた。
4曲目の前の暗転では、ステージ袖の合図がずれた。
5曲目では、まりあの立ち位置がほんの少し中心から外れたため、映像側の補正が不自然になった。

そのたびに、止める。

確認する。
戻す。
もう一度やる。

まりあは、そのたびに頷いた。

「大丈夫です」

何度もそう言った。

小川は、その「大丈夫です」を聞くたびに、少しずつ不安になった。
大丈夫と言う人ほど、本当は大丈夫ではないことがある。

夜が深くなっていく。

スタジアムの外では、もう街の灯りが少なくなっている時間だった。
それでも中では、照明が点き、音が流れ、スタッフの声が飛び交っている。
曲ごとの確認は続いた。

一曲ずつ。
確実に。
もう一度。
必要なら、さらにもう一度。

すべての曲のリハーサルが終わったとき、日付は変わっていた。

まりあはステージの中央で、深く息を吐いた。
大きなトラブルは、最後にはすべて修正された。
けれど、その場にいた誰もが、明らかに疲れていた。

帰りの車の中で、まりあは助手席に座ると、すぐに眠ってしまった。
小川は、運転しながら何度か横目で彼女を見た。

街灯の光が、眠っているまりあの顔を横切る。

ステージ衣装を脱ぎ、普段着に戻った彼女は、いつもより少し幼く見えた。
このまま本番まで、彼女の体はもつのだろうか。
小川は、その問いを何度も胸の中で繰り返した。

けれど、答えは出なかった。

まりあのマンションに着く頃には、夜はかなり深くなっていた。
車をエントランス前に停めると、まりあは小川に起こされる前に、ゆっくり目を開けた。

「着きました?」

「はい」

小川はエンジンを切らずに答えた。

「今日は本当にお疲れさまでした」

「小川さんも」

まりあは、少し眠たそうに笑った。
車を降り、エントランスまで歩く。
小川も一緒に降りて、彼女を見送った。

自動扉の前で、小川は言った。

「明日はオフですから、しっかり休んでください」

まりあは頷いた。

「はい」

「本当に、何もしなくていいです。練習も、確認も、資料を見るのも、できればやめてください」

「分かりました」

まりあは笑った。
その笑顔は、素直なようで、どこか申し訳なさそうでもあった。

小川は、それ以上言わなかった。

「では、また明後日」

「はい。また明後日」

小川が車へ戻ろうとしたときだった。

「小川さん」

まりあが呼び止めた。
小川は振り返った。

「はい?」

まりあは、エントランスの光の中に立っていた。

何かを言いたそうだった。
唇が少し動く。
けれど、言葉にはならない。

小川は、急かさずに待った。
まりあは小さく息を吸った。
そして、結局、首を横に振った。

「いえ。なんでもないです」

「……そうですか」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

まりあは、もう一度小さく笑って、エレベーターの方へ歩いていった。

小川は、その背中を見送った。
自動扉が閉まり、まりあの姿が見えなくなる。
それでも、小川はしばらくその場に立っていた。

彼女が何を言おうとしたのか。

それは分からなかった。
けれど、何かを飲み込んだことだけは分かった。



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