翌日の夕方になっても、まりあの気分は重いままだった。
その日は、オフだった。
小川からも、何もしなくていいと言われていた。
練習もしない。
資料も見ない。
曲順も確認しない。
本番のことも、できるだけ考えない。
そう言われていたはずなのに、まりあは朝からずっと、本番のことばかり考えていた。
東京ドームスタジアム。
円形ステージ。
客席を埋めるはずの5万人。
上空に浮かぶ巨大なマリア・エレーナ。
何度も止まったリハーサル。
スタッフたちの疲れた声。
小川の心配そうな顔。
そして、マンションのエントランスで、自分が言えなかった言葉。
それが、ずっと胸の奥に残っていた。
言うべきだったのだろうか。
それとも、言わなくて正しかったのだろうか。
何度も考えた。
けれど、答えは出なかった。
朝のうちは、窓の外が明るかった。
春らしい穏やかな日差しが、リビングの床に落ちていた。
空も晴れていた。
それなのに、まりあの胸の中だけは、重い雲が垂れ込めているようだった。
昼を過ぎても、その雲は晴れなかった。
スマホを手に取っては置く。
小川にメッセージを書こうとして、やめる。
理沙から送られてきた音源ファイルを開こうとして、閉じる。
何かをしようとするたびに、身体の奥から重さが戻ってくる。
夕方になって、まりあはようやく食事をした。
冷蔵庫にあったものを温め、皿に移し、テーブルにつく。
箸を動かす。
噛む。
飲み込む。
それだけだった。
何を食べたのか、あまり覚えていなかった。
味がしないわけではない。
ただ、味が自分の中に入ってこない。
食事を終えると、まりあはしばらく椅子に座ったまま動かなかった。
部屋は静かだった。
静かすぎるほどだった。
やがて立ち上がり、風呂に入った。
湯気の中にいる間だけは、少しだけ身体が軽くなった気がした。
けれど、浴室を出て、洗面台の前に立った瞬間、その軽さはすぐに消えた。
鏡の中に、自分がいた。
濡れた髪。
少し落ちた肩。
薄い表情。
目の下に残る影。
まりあは、その顔をしばらく見つめた。
これは誰だろう。
そんなことを、ふと思った。
片岡まりあ。
そう答えればいいはずだった。
けれど、鏡の中にいる自分は、その名前にもうまく収まらないように見えた。
マリア・エレーナでもない。
ステージ衣装を着ているわけではない。
明るく笑っているわけでもない。
巨大なスクリーンの中で歌っているわけでもない。
ただ、疲れた女が一人、洗面台の前に立っているだけだった。
まりあは、愕然とした。
自分は、こんな顔をしていたのか。
小川が心配するはずだと思った。
理沙が、疲れているんだね、と言った理由も少し分かった。
まりあは、鏡から目をそらそうとした。
けれど、そらせなかった。
時間が、ゆっくりと薄くなっていく。
水滴が、髪の先から落ちる。
洗面台に、小さな音がする。
その音だけが、部屋の中でやけに大きく聞こえた。
どれくらいそうしていたのか、分からなかった。
ふいに、声がした。
「まりあ」
まりあは、はっとした。
目の前には、まだ鏡がある。
鏡の中には、自分がいる。
けれど、その表情が、少し違って見えた。
さっきまでの疲れた顔ではない。
目元が明るい。
口元が少し上がっている。
背筋が伸びている。
そこにいるのは、片岡まりあではなかった。
マリア・エレーナだった。
「ぼんやりしている姿は似合わないよ」
鏡の中のマリアは、そう言った。
まりあは、何も答えられなかった。
本当に声が聞こえたのか。
それとも、自分の頭の中でそう思っただけなのか。
分からなかった。
けれど、鏡の中のマリアは、まるでそんなことはどうでもいいというように、明るく笑っていた。
そして、歌い始めた。
<La-Li-La>
小さな声だった。
けれど、はっきり聞こえた。
<笑顔のままで歩きたい>
まりあは、鏡を見つめたまま息を止めた。
そのフレーズは、ファーストコンサートで歌う予定の曲の一節だった。
明るくて、前向きで、少し眩しい曲。
マリア・エレーナらしい曲。
<振り返らずに行くの>
鏡の中のマリアが、軽く首を傾ける。
まるで、次はあなたの番だと言うように。
まりあは、唇を少し開いた。
声は、すぐには出なかった。
それでも、もう一度、息を吸う。
そして、鏡の中のマリアのあとを追うように、そっと口ずさんだ。
<La-Li-La>
声は小さかった。
少しかすれていた。
それでも、自分の声だった。
<笑顔のままで歩きたい>
歌っているうちに、胸の奥で固まっていたものが、少しだけ動いた気がした。
<振り返らずに行くの>
まりあは、鏡の中のマリアを見つめた。
明るく笑う、もう一人の自分。
作られた姿。
磨かれた姿。
期待される姿。
けれど、全部が嘘ではない。
その中にも、自分はいる。
そう思いたかった。
歌い終えたとき、鏡の中には、またいつもの自分が映っていた。
疲れた顔。
濡れた髪。
少し赤くなった目。
けれど、さっきとは少しだけ違って見えた。
まりあは、洗面台に両手をついた。
そして、小さく息を吐いた。
言わなければならない。
そう思った。
小川に。
あの曲のことを。
理沙から渡された、あの曲のことを。
翌朝、小川はいつものようにマンションの前まで迎えに来た。
まりあは少し早めに支度を終えて、エントランスに降りていた。
小川の車が停まる。
後部座席ではなく、まりあは助手席に座った。
「おはようございます」
「おはようございます」
いつもと同じ挨拶だった。
けれど、そのあと、会話は続かなかった。
車は静かに走り出す。
マンションからHALUCAのオフィスまでは、それほど遠くない。
15分ほどの距離だった。
その15分が、妙に長く感じられた。
小川も、前夜まりあが何かを言いかけたことを覚えているはずだった。
まりあも、それを分かっていた。
だからこそ、何を話せばいいのか分からなかった。
車内には、ナビの小さな案内音と、外の車の走行音だけがあった。
小川は何度か、何かを聞こうとしたように見えた。
けれど、結局何も言わなかった。
まりあも、スマホを握ったまま、言葉を探していた。
HALUCAのオフィスに着くと、まだ朝の空気が残っていた。
小川はコーヒーを淹れ、まりあの前に置いた。
「昨日は、少し休めましたか」
まりあはカップを両手で包んだ。
「休んだ、と思います」
「思います?」
「何もしなかったので」
小川は少しだけ笑った。
「それなら、よかったです」
まりあは、コーヒーの湯気を見つめた。
ここで言わなければ、また言えなくなる。
そう思った。
まりあはスマホを取り出した。
そして、イヤホンと一緒に、小川の方へ差し出した。
「小川さん」
「はい」
「ちょっと、この曲を聴いてみてよ」
小川は一瞬だけ目を瞬かせた。
まりあの声が、いつもより少しだけ強かったからだ。
「分かりました」
小川はスマホを受け取り、イヤホンを耳に入れた。
画面には、音源ファイルの再生画面が表示されていた。
曲名を見た瞬間、小川の表情が止まった。
他人の不幸は蜜の味。
小川は、思わずまりあの顔を見た。
まりあは、少し得意げな顔をしていた。
何か特別なものを見つけた子どものような表情だった。
「……これは」
「理沙さんの曲」
まりあは短く言った。
「聴いて」
小川は、もう一度画面に目を戻し、再生ボタンを押した。
イントロが流れ始める。
小川の眉が、少し動いた。
最初に受けた印象は、タイトルから想像したものとはまるで違っていた。
軽い。
明るい。
どこか皮肉っぽい。
けれど、湿っていない。
毒があるのに、暗くない。
笑っているようで、奥に少しだけ痛みがある。
小川は、黙って聴き続けた。
歌詞が進むにつれて、表情が少しずつ変わっていく。
これは、危ない。
最初にそう思った。
マリア・エレーナのイメージとは、かなり違う。
ファーストコンサートの曲目としては、あまりに唐突かもしれない。
タイトルだけでも、反対意見は出るだろう。
柴原は、どう判断するだろうか。
宣伝チームは。
演出チームは。
スポンサーは。
小川の頭の中に、現実的な懸念が次々に浮かぶ。
けれど、同時に、別の感覚もあった。
まりあがこれを歌ったら、どうなるのだろう。
マリア・エレーナが、この悪趣味で明るい毒を歌ったら。
綺麗なだけの歌姫ではない。
前向きな光だけではない。
笑いながら痛みを踏み越えていくような歌。
それは、今のまりあにしか歌えないものかもしれない。
曲が終わった。
小川は、しばらく動かなかった。
イヤホンを外すまでに、少し時間がかかった。
「……驚きました」
小川は、ようやくそう言った。
まりあは、静かに小川を見ていた。
「ですよね」
「タイトルも、曲も、歌詞も、全部かなり強いです」
「うん」
「でも……」
小川はスマホの画面をもう一度見た。
「ただ強いだけではないですね」
まりあの表情が、少し明るくなった。
「そう思います?」
「思います」
小川は正直に答えた。
「理沙さんらしい曲だと思います。でも、まりあさんが歌うと、また違う意味になる気がします」
まりあは、カップに手を伸ばした。
けれど、飲まずにまた置いた。
そして、小川をまっすぐ見た。
「この曲を」
一度、言葉を切る。
昨日は、ここで止まった。
でも、今日は止まらない。
まりあは、ゆっくり息を吸った。
「この曲を、ファーストコンサートの曲目に含めてほしいです」
小川は、すぐには答えなかった。
部屋の中が、少し静かになった。
コーヒーの湯気だけが、二人の間で細く揺れていた。
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