002_24_鏡の中のマリア

翌日の夕方になっても、まりあの気分は重いままだった。

その日は、オフだった。

小川からも、何もしなくていいと言われていた。

練習もしない。
資料も見ない。
曲順も確認しない。
本番のことも、できるだけ考えない。

そう言われていたはずなのに、まりあは朝からずっと、本番のことばかり考えていた。

東京ドームスタジアム。
円形ステージ。
客席を埋めるはずの5万人。
上空に浮かぶ巨大なマリア・エレーナ。
何度も止まったリハーサル。
スタッフたちの疲れた声。
小川の心配そうな顔。

そして、マンションのエントランスで、自分が言えなかった言葉。
それが、ずっと胸の奥に残っていた。

言うべきだったのだろうか。
それとも、言わなくて正しかったのだろうか。
何度も考えた。
けれど、答えは出なかった。

朝のうちは、窓の外が明るかった。

春らしい穏やかな日差しが、リビングの床に落ちていた。
空も晴れていた。
それなのに、まりあの胸の中だけは、重い雲が垂れ込めているようだった。

昼を過ぎても、その雲は晴れなかった。

スマホを手に取っては置く。
小川にメッセージを書こうとして、やめる。
理沙から送られてきた音源ファイルを開こうとして、閉じる。
何かをしようとするたびに、身体の奥から重さが戻ってくる。

夕方になって、まりあはようやく食事をした。
冷蔵庫にあったものを温め、皿に移し、テーブルにつく。

箸を動かす。
噛む。
飲み込む。

それだけだった。

何を食べたのか、あまり覚えていなかった。
味がしないわけではない。
ただ、味が自分の中に入ってこない。

食事を終えると、まりあはしばらく椅子に座ったまま動かなかった。

部屋は静かだった。
静かすぎるほどだった。

やがて立ち上がり、風呂に入った。
湯気の中にいる間だけは、少しだけ身体が軽くなった気がした。
けれど、浴室を出て、洗面台の前に立った瞬間、その軽さはすぐに消えた。

鏡の中に、自分がいた。

濡れた髪。
少し落ちた肩。
薄い表情。
目の下に残る影。

まりあは、その顔をしばらく見つめた。

これは誰だろう。
そんなことを、ふと思った。

片岡まりあ。
そう答えればいいはずだった。
けれど、鏡の中にいる自分は、その名前にもうまく収まらないように見えた。

マリア・エレーナでもない。

ステージ衣装を着ているわけではない。
明るく笑っているわけでもない。
巨大なスクリーンの中で歌っているわけでもない。

ただ、疲れた女が一人、洗面台の前に立っているだけだった。

まりあは、愕然とした。
自分は、こんな顔をしていたのか。
小川が心配するはずだと思った。

理沙が、疲れているんだね、と言った理由も少し分かった。

まりあは、鏡から目をそらそうとした。
けれど、そらせなかった。

時間が、ゆっくりと薄くなっていく。
水滴が、髪の先から落ちる。
洗面台に、小さな音がする。

その音だけが、部屋の中でやけに大きく聞こえた。
どれくらいそうしていたのか、分からなかった。

ふいに、声がした。

「まりあ」

まりあは、はっとした。

目の前には、まだ鏡がある。
鏡の中には、自分がいる。
けれど、その表情が、少し違って見えた。

さっきまでの疲れた顔ではない。

目元が明るい。
口元が少し上がっている。
背筋が伸びている。

そこにいるのは、片岡まりあではなかった。

マリア・エレーナだった。

「ぼんやりしている姿は似合わないよ」

鏡の中のマリアは、そう言った。

まりあは、何も答えられなかった。
本当に声が聞こえたのか。
それとも、自分の頭の中でそう思っただけなのか。

分からなかった。

けれど、鏡の中のマリアは、まるでそんなことはどうでもいいというように、明るく笑っていた。
そして、歌い始めた。

<La-Li-La>

小さな声だった。
けれど、はっきり聞こえた。

<笑顔のままで歩きたい>

まりあは、鏡を見つめたまま息を止めた。
そのフレーズは、ファーストコンサートで歌う予定の曲の一節だった。

明るくて、前向きで、少し眩しい曲。
マリア・エレーナらしい曲。

<振り返らずに行くの>

鏡の中のマリアが、軽く首を傾ける。
まるで、次はあなたの番だと言うように。

まりあは、唇を少し開いた。
声は、すぐには出なかった。
それでも、もう一度、息を吸う。

そして、鏡の中のマリアのあとを追うように、そっと口ずさんだ。

<La-Li-La>

声は小さかった。
少しかすれていた。

それでも、自分の声だった。

<笑顔のままで歩きたい>

歌っているうちに、胸の奥で固まっていたものが、少しだけ動いた気がした。

<振り返らずに行くの>

まりあは、鏡の中のマリアを見つめた。
明るく笑う、もう一人の自分。

作られた姿。
磨かれた姿。
期待される姿。

けれど、全部が嘘ではない。

その中にも、自分はいる。
そう思いたかった。
歌い終えたとき、鏡の中には、またいつもの自分が映っていた。

疲れた顔。
濡れた髪。
少し赤くなった目。

けれど、さっきとは少しだけ違って見えた。

まりあは、洗面台に両手をついた。
そして、小さく息を吐いた。

言わなければならない。
そう思った。
小川に。

あの曲のことを。
理沙から渡された、あの曲のことを。

翌朝、小川はいつものようにマンションの前まで迎えに来た。

まりあは少し早めに支度を終えて、エントランスに降りていた。

小川の車が停まる。
後部座席ではなく、まりあは助手席に座った。

「おはようございます」

「おはようございます」

いつもと同じ挨拶だった。
けれど、そのあと、会話は続かなかった。

車は静かに走り出す。

マンションからHALUCAのオフィスまでは、それほど遠くない。
15分ほどの距離だった。
その15分が、妙に長く感じられた。

小川も、前夜まりあが何かを言いかけたことを覚えているはずだった。
まりあも、それを分かっていた。
だからこそ、何を話せばいいのか分からなかった。

車内には、ナビの小さな案内音と、外の車の走行音だけがあった。

小川は何度か、何かを聞こうとしたように見えた。
けれど、結局何も言わなかった。
まりあも、スマホを握ったまま、言葉を探していた。

HALUCAのオフィスに着くと、まだ朝の空気が残っていた。
小川はコーヒーを淹れ、まりあの前に置いた。

「昨日は、少し休めましたか」

まりあはカップを両手で包んだ。

「休んだ、と思います」

「思います?」

「何もしなかったので」

小川は少しだけ笑った。

「それなら、よかったです」

まりあは、コーヒーの湯気を見つめた。

ここで言わなければ、また言えなくなる。
そう思った。

まりあはスマホを取り出した。
そして、イヤホンと一緒に、小川の方へ差し出した。

「小川さん」

「はい」

「ちょっと、この曲を聴いてみてよ」

小川は一瞬だけ目を瞬かせた。

まりあの声が、いつもより少しだけ強かったからだ。

「分かりました」

小川はスマホを受け取り、イヤホンを耳に入れた。

画面には、音源ファイルの再生画面が表示されていた。
曲名を見た瞬間、小川の表情が止まった。

他人の不幸は蜜の味。

小川は、思わずまりあの顔を見た。
まりあは、少し得意げな顔をしていた。
何か特別なものを見つけた子どものような表情だった。

「……これは」

「理沙さんの曲」

まりあは短く言った。

「聴いて」

小川は、もう一度画面に目を戻し、再生ボタンを押した。

イントロが流れ始める。
小川の眉が、少し動いた。
最初に受けた印象は、タイトルから想像したものとはまるで違っていた。

軽い。
明るい。
どこか皮肉っぽい。
けれど、湿っていない。

毒があるのに、暗くない。
笑っているようで、奥に少しだけ痛みがある。

小川は、黙って聴き続けた。
歌詞が進むにつれて、表情が少しずつ変わっていく。

これは、危ない。
最初にそう思った。
マリア・エレーナのイメージとは、かなり違う。

ファーストコンサートの曲目としては、あまりに唐突かもしれない。
タイトルだけでも、反対意見は出るだろう。

柴原は、どう判断するだろうか。

宣伝チームは。
演出チームは。
スポンサーは。

小川の頭の中に、現実的な懸念が次々に浮かぶ。
けれど、同時に、別の感覚もあった。

まりあがこれを歌ったら、どうなるのだろう。
マリア・エレーナが、この悪趣味で明るい毒を歌ったら。
綺麗なだけの歌姫ではない。
前向きな光だけではない。

笑いながら痛みを踏み越えていくような歌。
それは、今のまりあにしか歌えないものかもしれない。

曲が終わった。

小川は、しばらく動かなかった。
イヤホンを外すまでに、少し時間がかかった。

「……驚きました」

小川は、ようやくそう言った。
まりあは、静かに小川を見ていた。

「ですよね」

「タイトルも、曲も、歌詞も、全部かなり強いです」

「うん」

「でも……」

小川はスマホの画面をもう一度見た。

「ただ強いだけではないですね」

まりあの表情が、少し明るくなった。

「そう思います?」

「思います」

小川は正直に答えた。

「理沙さんらしい曲だと思います。でも、まりあさんが歌うと、また違う意味になる気がします」

まりあは、カップに手を伸ばした。
けれど、飲まずにまた置いた。
そして、小川をまっすぐ見た。

「この曲を」

一度、言葉を切る。

昨日は、ここで止まった。
でも、今日は止まらない。

まりあは、ゆっくり息を吸った。

「この曲を、ファーストコンサートの曲目に含めてほしいです」

小川は、すぐには答えなかった。
部屋の中が、少し静かになった。

コーヒーの湯気だけが、二人の間で細く揺れていた。



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