002_25_ちょっとした反抗心

柴原は、いつもなら10時には事務所に来ている。
けれど、その日は30分ほど遅れて姿を見せた。

午前中はHALUCAのオフィスで打ち合わせを行い、午後から東京ドームスタジアムへ向かう予定になっていた。
時間に余裕があるわけではない。
けれど、今日すぐに現場へ走らなければならないほどでもない。

小川は、柴原が事務所に入ってきたのを見ると、すぐに立ち上がった。

「柴原さん」

柴原はコートを脱ぎかけたまま、小川の方を見た。

「はい」

「少し、お時間をいただけますか」

柴原は、腕時計に目を落とした。

「長くなりますか」

「曲を一つ聴いていただきたいだけです」

その言い方に、柴原は少しだけ眉を動かした。

小川がこの時期に、わざわざ予定外の曲を聴かせようとしている。
それがただの確認ではないことは、柴原にもすぐに分かった。

応接テーブルには、すでにまりあが座っていた。
昨日よりは少し顔色がよい。
けれど、どこか緊張している。

小川は、まりあのすぐ隣に座った。
その位置を見て、柴原は一瞬、2人の間に何か決めてきたことがあるのだと察した。

「分かりました」

柴原は向かいの席に腰を下ろした。
小川は、まりあからスマホとイヤホンを受け取り、それを柴原に差し出した。

「これです」

柴原はスマホの画面を見た。

そこには、音源ファイルの再生画面が表示されていた。
曲名を見た瞬間、表情がほんの少し止まる。

他人の不幸は蜜の味。

柴原は、画面から目を上げ、小川を見た。
次に、まりあを見た。

「……なかなか強いタイトルですね」

「はい」

小川は否定しなかった。
まりあも、黙って柴原を見ていた。
柴原はそれ以上言わず、イヤホンを耳に入れた。

そして、再生ボタンを押した。
イントロが流れ始める。

最初の数秒、柴原の表情にはまだ違和感が残っていた。
タイトルの印象が先に立っていたのだろう。
けれど、曲が進むにつれて、その表情は少しずつ変わっていった。

眉間に寄っていた力が、考える時の顔に変わる。
指先が、テーブルの上でごく小さくリズムを取る。
視線はスマホの画面に落ちているが、実際には別のものを見ているようだった。

小川とまりあは、何も言わずに待った。

曲が終わる。
柴原は、すぐにはイヤホンを外さなかった。
少し間を置いてから、ゆっくりと耳から外す。

「タイトルで一瞬引きましたが」

柴原は静かに言った。

「盛り上がりそうな曲ですね」

小川は、内心で小さく頷いた。

予想していた反応に近かった。
柴原は、この曲を単なる悪ふざけとは見なさなかった。
少なくとも、可能性は見た。

小川は姿勢を正した。

「まりあさんの、別な可能性を引き出せる曲だと思います」

柴原は、小川を見る。
小川は一度、隣のまりあに視線を向けた。

そして続けた。

「ファーストコンサートの曲目に、加えてほしいのですが」

その瞬間、柴原の表情が変わった。

評価する顔から、判断する顔へ。
曲そのものの面白さと、それを本番で使うことは別の問題だった。
柴原は腕を組んだ。

「残り、4週間を切っています」

「はい」

「曲順も演出も、ほぼ固まっている。立体プロジェクターの調整も、今の時点でまだ完全とは言えない」

「分かっています」

「しかも、配信サイトでも未発表の曲です」

柴原はスマホの画面にもう一度目を落とした。

「このタイトルを、ファーストコンサートで初めて出す」

小川は答えなかった。
柴原の言っていることは、すべて正しかった。

マリア・エレーナのファーストコンサートは、ただのライブではない。
HALUCAにとっても、まりあにとっても、大きな勝負だった。
そこに、予定外の曲を入れる。
しかも、マリア・エレーナの明るく前向きなイメージからは、かなり外れた曲を。

反対意見が出るのは当然だった。

スポンサーがどう見るか。
宣伝チームがどう扱うか。
演出をどう組み直すか。
観客が、タイトルを聞いた瞬間にどう反応するか。

考えなければならないことは多かった。
小川は、それでも引かなかった。

「危ない曲だとは思います」

柴原は顔を上げた。

「ですが、ただ危ないだけではありません」

小川の声は、いつもより少しだけ強かった。

「この曲は、綺麗なマリア・エレーナだけでは出せないものを出せると思います。明るいだけではなく、痛みも、毒も、笑い飛ばす力もある。今のまりあさんが歌うなら、意味があります」

まりあは、小川の横顔を見た。
小川が、自分の言いたかったことを代わりに言ってくれている。
そう思った。

けれど、それだけでは足りない。

これは、小川の提案ではない。
自分の希望でもある。
まりあは、膝の上で軽く握っていた手をほどいた。

そして、柴原を見た。

「私からもお願いします」

小川が、ほんの少しだけ驚いたようにまりあを見た。
柴原も、まりあへ視線を移した。

まりあの声は大きくなかった。
けれど、途中で引っ込めるつもりのない声だった。

「この曲を、歌ってみたいです」

柴原は、何も言わなかった。

まりあは続けた。

「今までの曲が嫌なわけじゃありません。どの曲も大事です。でも、それだけだと、少し怖いんです」

「怖い?」

柴原が聞き返す。
まりあは頷いた。

「マリア・エレーナが、綺麗なものだけでできているみたいに見えてしまうのが」

言葉にしてみると、胸の奥が少し震えた。
それでも、まりあは続けた。

「私は、そんなに綺麗な人間じゃないです。疲れるし、怖くなるし、嫌なことを考えることもあります。でも、それでも歌えるなら、その方が本当のマリア・エレーナに近い気がします」

部屋の中が静かになった。

小川は、何も言わなかった。
柴原は腕を組んだまま、まりあを見ていた。
やがて、視線をスマホへ戻す。

考えている。

残り4週間。
未発表曲。
強すぎるタイトル。
既存の曲順。
演出の組み直し。
観客の反応。
世間の評価。
投資リスク。

そして、その全部の向こう側にある、可能性。
しばらくして、柴原は小さく息を吐いた。

「面白いです」

それは承認ではなかった。
けれど、拒絶でもなかった。

「ただ、私一人で即答する話ではありません。演出上、どこに入れるかで意味が変わる曲です。使い方を間違えると、ただの悪目立ちになる」

「はい」

小川が頷く。
柴原はスマホをテーブルに置いた。

「ディレクターと相談します」

まりあは、少しだけ息を止めた。

「すぐにですか」

「すぐにです」

柴原は立ち上がった。

「午後のスタジアム入りまでには、いったん方向性を出します」

そう言って、柴原はスマホを小川に返した。

「音源、こちらに送っておいてください」

「分かりました」

柴原はそのまま事務所の奥へ向かった。
おそらく、静かな場所で電話をするのだろう。

小川とまりあは、応接テーブルに残された。
しばらく、2人とも何も言わなかった。
まりあは、カップの中のコーヒーを見つめていた。
湯気はもう薄くなっている。

「言えましたね」

小川が、小さく言った。
まりあは顔を上げた。

「はい」

「昨日、言おうとしていたのは、このことですか」

まりあは少し迷ってから、頷いた。

「たぶん」

「たぶん?」

「昨日は、まだ自分でもよく分かっていなかったので」

小川は、静かに頷いた。

「今は?」

まりあは、少しだけ笑った。

「今は、少し分かります」

小川も小さく笑った。

「それなら、よかったです」

その日の午後、柴原は東京ドームスタジアムへ向かう車の中で、短く結果を伝えた。

「入れましょう」

まりあは、すぐに言葉を返せなかった。

「本当ですか」

「ただし、条件があります」

柴原はいつもの冷静な声で言った。

「曲順と演出はこちらで再構成します。タイトルの出し方も考えます。中途半端に扱うくらいなら、入れない方がいい」

「はい」

「やるなら、きちんと意味を持たせます」

まりあは頷いた。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく気がした。

小川は、運転席の隣でその表情を横目に見た。

昨日までとは、少し違う顔だった。
疲れていないわけではない。
不安が消えたわけでもない。
けれど、まりあの中に、自分で選んだものが一つ入った。

それだけで、彼女の立ち方が少し変わったように見えた。

それからの4週間は、慌ただしく過ぎていった。

「他人の不幸は蜜の味」を加えるため、曲順は一部組み直された。

照明の色が変わった。
立体プロジェクターの演出が足された。
曲前の映像が作り直された。
スタッフの手順書には、新しいページが差し込まれた。

リハーサルはさらに増えた。
認事項も増えた。

日付が変わる頃に、まりあがマンションへ戻る日も何度もあった。
それでも、不思議なことに、まりあは以前ほど疲れを感じなかった。

身体は疲れている。

足は重い。
喉も乾く。
眠ればすぐに深く沈む。

けれど、胸の奥にあった重い雲は、少し薄くなっていた。
自分が歌いたいと言った曲がある。
それが、彼女を支えていた。

もちろん、怖さもあった。

本番でタイトルを聞いた観客がどう反応するのか。
マリア・エレーナのイメージが壊れるのではないか。
理沙の曲を、自分が本当に歌えるのか。

考えれば、不安はいくらでも出てきた。

それでも、まりあは練習を続けた。
ただ用意された歌を歌うだけではない。
自分が選んだ歌を、そこに置く。
それは、ほんの少しの反抗心だった。

けれど、まりあにとっては、大きな一歩だった。

やがて、コンサート当日が来た。

午後になると、東京ドームスタジアムの前には、少しずつ人が集まり始めた。
駅から続く歩道を、観客たちが流れてくる。

友人同士で話しながら歩く人。
チケットを何度も確認する人。
グッズ売り場の列に並ぶ人。
スマホで会場の外観を撮る人。

夕方になる頃には、スタジアムの周囲は大きなざわめきに包まれていた。

入場が始まる。
観客席が、少しずつ埋まっていく。
場内の照明は、いつもより少し暗めに落とされていた。

まだ何も始まっていない。
それでも、空気はすでに本番へ向かっていた。

音響テスト用のBGMが、低く、静かに流れている。
その音が、人々の期待を少しずつ持ち上げていく。

ステージの上には、まだ誰もいない。
上空にも、まだ光はない。
けれど、誰もが待っていた。

マリア・エレーナが現れる瞬間を。

そして、同じ頃。
新宿近くの小さなライブハウスでは、Arisa-Mistyのラストライブが始まろうとしていた。



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