開演時刻になった。
けれど、東京ドームスタジアムの場内は、すぐには暗転しなかった。
客席の照明は、少し落とされたまま残っている。
音響テストのようにも聞こえるBGMが、低く流れ続けている。
観客のざわめきは、まだ会場全体を薄く満たしていた。
まだ始まらないのだろうか。
そんな空気が、少しずつ広がり始めたころだった。
スピーカーから、古いモノラル音声のような音が流れ始めた。
ざらついた音。
少し遠い音。
どこか、古い記録映像の中から聞こえてくるような音。
観客の何人かが、顔を上げる。
聞き覚えのあるイントロだった。
けれど、音はまだ小さく、遠い。
会場のあちこちで、ざわめきが変わっていく。
始まったのか。
まだなのか。
これは演出なのか。
その迷いを残したまま、音はさらに小さくなった。
次の瞬間、場内の照明が一気に落ちた。
巨大なスタジアムが、暗闇に沈む。
そして、さっきまでのざらついたモノラル音声が、突然、澄んだ高音質の大音量に切り替わった。
音が、会場全体を押し広げる。
低音が客席の足元を震わせる。
高音が天井へ抜けていく。
観客のざわめきが、歓声に変わった。
グラウンド中央の円形ステージが、ゆっくりと光に包まれる。
同時に、正面バッターボックス側のゲートが明るく照らされた。
そこから、マリア・エレーナが姿を現した。
白を基調にしたステージ衣装が、照明を受けて淡く輝く。
まりあは、観客席に向かって手を振った。
歓声が大きくなる。
巨大なスタジアムの中では、生身の彼女は小さく見えるはずだった。
けれど、その小さささえ、今は演出の一部のように見えた。
まりあは、ゆっくりと円形ステージへ向かって歩いていく。
ステージまでの通路が、光の道のように浮かび上がっていた。
放送席では、柴原と小川がほとんど息を止めるように、その様子を見守っていた。
何度も失敗したオープニング。
タイミングがずれた。
映像が遅れた。
音と照明が合わなかった。
立体プロジェクターが起動しなかった。
そのすべてが、今この瞬間に集約されている。
まりあがステージ中央に立った。
わずかな間。
そして、彼女の上空に、巨大なマリア・エレーナが現れた。
身長25メートルの、光のマリア。
観客席から、ひときわ大きな歓声が上がる。
ステージ上のまりあと、上空のマリアが、同じように手を広げた。
その動きは、遅れなかった。
指先の動きも、髪の揺れも、衣装の流れも、自然につながっている。
巨大なマリアは、ただの映像ではなかった。
まるで、スタジアムそのものの上に立つ、もう一人の歌姫だった。
曲は、そのまま「Next Frontier」のイントロへつながった。
まりあが、息を吸う。
そして、歌い始めた。
最初の一声が、スタジアムの中に伸びていく。
リハーサルでは何度も止まったオープニングが、何事もなかったように進んでいた。
柴原は、モニターから目を離せなかった。
小川も、手を胸の前で握ったまま、ステージを見つめていた。
イントロから歌い出しへ。
照明の切り替え。
立体映像の同期。
最初のサビ。
すべてが、予定通りに進む。
小川は、ようやく息を吐いた。
その瞬間、隣にいた柴原も、小さく息を吐いた。
2人は、ほとんど同時に顔を見合わせた。
そして、思わず手を上げる。
乾いた音が、放送席の片隅で小さく鳴った。
ハイタッチ。
すぐに2人とも、少し照れたようにステージへ視線を戻した。
小川がふとディレクターの方を見ると、彼はモニターを見つめたまま、小さく拳を握っていた。
誰にも見せるつもりのない、控えめなガッツポーズだった。
小川は、それを見て少し笑った。
立体プロジェクターの演出は、成功していた。
大きな会場では、歌手はどうしても小さく見える。
ステージ上の表情までは、遠い席からはほとんど分からない。
けれど、上空のマリア・エレーナは違った。
笑う口元。
伏せたまつげ。
手を伸ばす角度。
歌い出す前の一瞬の呼吸。
そのすべてが、客席から見えた。
5万人の観客が、一人の歌手の表情を同時に見ている。
それは、画面の中の映像とは違っていた。
そこにいる。
そう思わせる力があった。
「Next Frontier」が終わるころには、会場全体の空気は完全に変わっていた。
歓声。
拍手。
足元から立ち上がる熱。
まりあは、その熱の中で、次の曲へ進んでいった。
明るい曲が続いた。
リズムの強い曲。
客席に手拍子を促す曲。
巨大なマリアが空中でステップを踏む曲。
そのたびに、観客の反応は大きくなっていく。
けれど、コンサートは盛り上がる曲だけではなかった。
照明が深い青に変わる。
ステージ中央に、白い光だけが落ちる。
まりあは、静かな曲を歌った。
「変わらないもの」
声は、派手ではなかった。
けれど、広いスタジアムの中で、不思議なほど遠くまで届いた。
続いて、「泥の中に咲く一輪の花」。
白いレース状のドレスをまとったマリア・エレーナが、上空に静かに浮かぶ。
スポットライトを受けたその姿は、どこか神々しくも見えた。
小川は、放送席からそれを見つめていた。
あれは、片岡まりあだ。
そう思う。
けれど同時に、もう片岡まりあだけではないとも思う。
マリア・エレーナ。
その名前が、いま、この会場の中で形を持ち始めていた。
そして、中盤の静かな場面で、まりあは「誰のために歌うわけでもなく」を歌った。
柴原と小川の前で、初めて歌った曲。
あの狭いHALUCAのスタジオで、まりあが一人でマイクの前に立った日のことを、小川は思い出した。
あの時のまりあは、まだ何者でもなかった。
少なくとも、世の中にとっては。
自分で作った曲を、自分のために歌っているだけの女性だった。
けれど、その歌を聴いたとき、柴原は何かを見つけた。
小川も、たぶん同じものを見た。
それから一年も経っていない。
けれど、その一年の間に、片岡まりあの人生は、マリア・エレーナとともに大きく変わった。
その変化を、まりあ自身がどう受け止めているのか。
小川には、まだ分からなかった。
一方、そのころ。
新宿近くの小さなライブハウスでは、Arisa-Mistyのラストライブが進んでいた。
東京ドームスタジアムとは、何もかもが違っていた。
客席は100人ほどで満員になる。
今日は、明らかに定員を超えているように見えた。
壁際にも人が立っている。
後方の通路にも人がいる。
カウンターの近くまで、観客が詰まっている。
空調は効いているはずなのに、会場の中は少し熱い。
照明は近い。
ステージも近い。
観客の顔も、声も、汗も、すべてが近かった。
理沙は、その近さの中で歌っていた。
最前列には、最初のライブのころから来てくれている顔があった。
理沙が名前を知っている客もいる。
名前までは知らなくても、顔を覚えている客もいる。
その人たちが、今日はいつもより少し真剣な顔でステージを見ていた。
一曲目は、「西日が差している」だった。
理沙がHALUCAのスタジオで歌った曲。
あのとき、まりあはこの曲を聴いていた。
理沙はそれを思い出しながら、歌った。
続けて、何曲も歌う。
古い持ち歌。
ライブで少しずつ育ってきた曲。
最近になって形になった曲。
湯浅は、いつもより少しだけ張り切っていた。
ギターを弾きながら、曲間で得意のエアギターまで披露する。
観客が笑う。
フィリップがそれを見て大げさに肩をすくめる。
島崎がドラムの後ろで、少し遅れて笑う。
いつものArisa-Mistyだった。
けれど、理沙は知っていた。
この形で歌うのは、しばらく最後になる。
そう思うと、楽しい場面ほど、少し胸に引っかかった。
途中のMCで、理沙は活動休止についてもう一度触れた。
湿っぽくしたくはなかった。
だから、できるだけ軽く話した。
それでも、客席のどこかから声が上がった。
「頑張れ!」
別の声が続く。
「待ってるから!」
また、手拍子が起こる。
頑張れ。
頑張れ。
前回と同じようなコールが、会場に広がった。
理沙は、マイクを持ったまま苦笑した。
「もう、泣かせにこないでよ」
客席から笑いが起こる。
けれど、その笑いにも少し湿り気があった。
理沙は、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、湿っぽくなったところで、最悪にカッコいいやつ、いきます」
湯浅がギターを構える。
フィリップがベースを鳴らす。
島崎がスティックを軽く合わせる。
理沙は笑った。
「労基に駆け込みたい」
会場が、一瞬だけ沸いた。
イントロが始まる。
鬱積した感情を、笑い飛ばすような曲。
客席は、一気に盛り上がった。
手拍子。
笑い声。
掛け声。
理沙は、思いきり歌った。
叫ぶのではなく、笑うように。
怒るのではなく、突き放すように。
この曲があったから、自分たちは少しだけ自分たちらしくなれた。
理沙はそう思った。
一時間半ほどのラストライブは、あっという間に終わりに近づいていた。
予定していた曲は、あと一曲だけだった。
理沙はマイクを持ち、客席を見た。
最前列の何人かが、花束を抱えているのが見えた。
そのうちの一人が、少し照れたようにステージの前へ出てくる。
「理沙さん、湯浅さん、フィリップさん、島崎さん。ありがとうございました」
花束が、順番に差し出された。
理沙は一瞬、言葉に詰まった。
「ありがとう」
それだけを、なんとか言った。
湯浅は少し照れくさそうに受け取り、フィリップは大げさに胸に手を当てて礼をし、島崎は両手で花束を受け取って、深く頭を下げた。
拍手が起こる。
理沙は花束をステージ脇に置き、もう一度マイクを握った。
「本当に、ここまで応援してくれてありがとうございました」
客席が静かになる。
「Arisa-Mistyは、今日でいったんお休みに入ります。でも、前にも言った通り、解散じゃありません」
理沙は3人を振り返った。
湯浅が頷く。
フィリップが軽く手を上げる。
島崎が、少し眠そうな顔のまま頷く。
理沙は、客席に向き直った。
「またいつか戻ってきます。そのときに、今日より少しでも面白いバンドになってたらいいなと思います」
小さな拍手が起こる。
理沙は少し笑った。
「なので、最後は明るく締めます」
観客の何人かが、すでに曲名を予想しているようだった。
理沙は言った。
「他人の不幸は蜜の味」
会場がざわめき、すぐに笑いと歓声に変わった。
今回で、まだ2度目の披露だった。
それでも、すでにこの曲には妙な存在感があった。
理沙はマイクを構えた。
湯浅がギターの位置を直す。
フィリップがベースの弦に指を置く。
島崎がスティックを構える。
その瞬間だった。
理沙は、ふと自分の右横を見た。
フィリップとの間の、何もない空間。
そこに、一瞬だけ、誰かが立っているように見えた。
白いステージ衣装。
明るい表情。
静かに前を見つめる目。
マリア・エレーナ。
理沙は、瞬きをした。
次の瞬間には、そこには何もなかった。
ただ、いつものステージの光があるだけだった。
けれど理沙は、不思議と驚かなかった。
同じ夜。
別の場所で、彼女も歌っている。
そう思った。
理沙は、ゆっくり息を吸った。
そして、最後の曲の始まりを待った。
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