002_27_ラストコンサート(2)

湯浅のギターが、イントロを鳴らし始めた。

軽い。
明るい。
けれど、どこか性格が悪い。

理沙はマイクを持ったまま、まず湯浅の方を見た。
湯浅は、いつものように少しだけ口元を緩めていた。
大丈夫や、という顔だった。

次に、フィリップを見る。
フィリップは、ベースの弦に指を置いたまま、理沙に向かって軽く顎を上げた。
早く行こうぜ、とでも言いたげだった。

理沙は振り返る。

島崎はドラムセットの向こうで、眠そうな目のままスティックを構えていた。
けれど、その目はいつもより少し鋭かった。

3人とも、問題ない。

理沙は客席に向き直った。
そして、マイクを持たない方の手を頭上に上げ、手拍子を始めた。
客席が、すぐについてくる。

小さなライブハウスの中で、手拍子が重なった。

近い。
熱い。
少し息苦しい。

けれど、理沙はその息苦しさが好きだった。

同じころ。

東京ドームスタジアムでも、同じイントロが流れ始めていた。
曲のタイトルは、説明しないことに決めていた。

「次の曲は、他人の不幸は蜜の味です」

もしそう言えば、観客はタイトルを聞いた瞬間に身構える。

笑う人もいるだろう。
引く人もいるだろう。
悪趣味だと思う人もいるだろう。

けれど、柴原はそれを避けた。
小川も同意した。
まりあも、その方がいいと思った。

タイトルではなく、曲そのもので判断してもらう。

明日になれば、あの曲は何だったのかと問い合わせが来るだろう。
曲名が広がれば、きっとまた別の反応が起こる。

それでいい。

まずは、今この場所で、歌として届けばいい。
円形ステージの中央に立つまりあは、イントロを聴きながら、静かに息を整えた。

上空には、巨大なマリア・エレーナが浮かんでいる。

照明は、これまでの曲とは少し違っていた。
白や青の透明な光ではない。
少し暗く、少し艶のある光。

巨大なマリアの目元には、どこか挑発的な影が落ちていた。

まりあは、口元を少しだけ上げた。
そして、歌い始めた。

<Shiny trap 瞬く都会の罠>
<誰かの涙で 街が潤む>

観客は、一瞬だけ戸惑った。
それまでのマリア・エレーナとは、明らかに違っていた。

きれいに前へ進む歌ではない。
祈るようなバラードでもない。
軽く笑っている。

けれど、その笑いの奥に毒がある。

巨大なマリア・エレーナは、客席に向かってゆっくり手を伸ばした。
まるで、観客の心の奥にある見たくないものを、そっと指先で触れるように。

<Justice? そんなの flavor次第>
<綺麗な声で騙せば OK>

言葉は鋭かった。

けれど、メロディは明るかった。
リズムは跳ねていた。

観客の戸惑いは、少しずつ別の熱に変わっていく。
誰かが手拍子を始める。

別の誰かが笑う。
その笑いは、馬鹿にした笑いではなかった。
予想外のものを見せられたときの、少し戸惑った、けれど引き込まれていく笑いだった。

まりあは、その反応を感じた。

怖くないわけではなかった。
けれど、歌い始めてしまえば、もう戻れない。
戻りたくもなかった。

そのとき、まりあは不思議な感覚を覚えた。

自分の声に、誰かの声が重なっているような気がした。
実際には、客席の歓声と演奏の音しかない。
イヤーモニターに返ってくるのも、自分の声と演奏だけだった。
それなのに、すぐそばで誰かが一緒に歌っている。

そんな気がした。

まりあは、ステージの端に目を向けた。
そこに、一瞬だけ理沙がいた。

黒い髪。
革ジャン。
少し挑むような目。

理沙は、当然のようにそこに立っていた。
まりあは、歌いながら、彼女に向けて指をさした。

<ねぇ 誰を救うの?>
<本当は 楽しんでるくせに>

指先を、軽く振る。
挑発するように。

本当にそこにいるなら、きっと理沙は笑うだろうと思った。

そのころ、新宿のライブハウスでは、理沙も同じフレーズを歌っていた。
ステージの熱は、さらに上がっていた。

湯浅のギターが前に出る。
フィリップのベースが楽しげにうねる。
島崎のドラムが、少し荒いくらいの勢いで客席を煽る。

理沙は、客席ではなく、ふと自分の右横を見た。

さっき、一瞬だけマリア・エレーナが見えた場所。
そこに今も、彼女が立っているような気がした。

白い衣装。
明るい表情。
自分とはまったく違う光をまとった歌姫。

理沙は、思わず笑った。
そして、その見えないマリアへ向けて、指をさした。

<止まれない taste of sin 舐めたら last forever>
<欲望を映す Black Sugar Lens>

理沙は、指先を軽く振った。
東京ドームのまりあがそうしたように。

もちろん、理沙はそんなことを知るはずがない。
まりあも、理沙の動きを見ることはできない。
それでも、2人の仕草は、同じ曲の中で重なっていた。

東京ドームスタジアムでは、巨大なマリア・エレーナが観客席の上へ視線を滑らせる。

新宿のライブハウスでは、理沙が目の前の観客に向かって笑う。

場所も、規模も、照明も、音響も、何もかも違う。
けれど、その瞬間だけ、2つのステージは同じ温度を持っていた。

<Good and evil melt together now>
<誰かの影で 生きてる私>

理沙は、片手で目元にピースを作った。

少し悪戯っぽく。
少し挑発的に。

客席から笑いと歓声が上がる。

同じころ、東京ドームの円形ステージでも、まりあが目元に指を添えた。
巨大なマリア・エレーナも、同じように目元ピースを作る。

5万人の観客の前で、マリア・エレーナはこれまで見せたことのない表情を見せていた。

綺麗なだけではない。
優しいだけでもない。
少し意地悪で、少し危うくて、それでも目を離せない。

小川は放送席で、その姿を見つめていた。

やってよかった。
そう思った。

柴原も、何も言わなかった。
けれど、モニターを見つめる横顔は、もう迷っていなかった。

<Sweet and bitter, same old dance>
<今日も誰かを映す Black Sugar Lens>

最後のフレーズが、2つの会場でほとんど同じ時刻に響いた。

新宿の小さなライブハウスでは、理沙がマイクを握ったまま、最後の音を少し長く伸ばした。
東京ドームスタジアムでは、まりあの声が巨大な空間の中をまっすぐに抜けていった。

曲が終わる。
一瞬の静寂。

そして、2つの会場で、それぞれ大きな拍手が起こった。

ライブハウスでは、観客の声がすぐ近くから降ってきた。

名前を呼ぶ声。
笑い声。
泣きそうな声。
手を叩く音。

理沙は、深く息を吐いた。

終わった。
Arisa-Mistyのラストライブが、終わった。

けれど、不思議と寂しさだけではなかった。
最後の曲の途中、確かに誰かと一緒に歌っていた。

そんな感覚が、まだ身体の奥に残っていた。

東京ドームスタジアムでも、拍手と歓声が波のように広がっていた。

まりあは、円形ステージの中央で立ち尽くしていた。
上空のマリア・エレーナも、同じ姿勢で観客席を見つめている。

曲のタイトルは、まだ誰も知らない。

けれど、観客は今の曲が何かを残したことだけは分かっているようだった。
拍手が続く。
まりあは、その音を聞きながら、さっき見えた理沙の姿を思い出していた。

本当に見えたのかは分からない。
でも、そばにいた。
そう感じた。

理沙も、たぶん歌っていた。
同じ夜、別の場所で。
同じ曲を。

放送席では、小川が小さく息を吐いた。

「よかったですね」

誰に言ったのか、自分でも分からないような声だった。
柴原は、少し間を置いて頷いた。

「ええ」

それだけだった。
けれど、その短い返事の中に、ほっとしたような響きがあった。

歌わせるかどうかで迷った曲だった。

危ない曲だった。
使い方を間違えれば、ただの悪目立ちになっていたかもしれない。

けれど、今のマリア・エレーナは、その曲を自分のものにした。

綺麗なだけではない。
明るいだけではない。
そのことを、5万人の前で示した。

理沙にとってのラストコンサートは、終わった。

小さなライブハウスのステージで、理沙は花束を抱え、3人と並んで客席に頭を下げた。
拍手はなかなか鳴りやまなかった。
湯浅が何か冗談を言い、フィリップが大げさに手を振り、島崎が最後まで少し眠そうな顔で頭を下げている。

理沙は笑っていた。
少し泣きそうにも見えた。

そして、東京ドームスタジアムでは、マリア・エレーナのファーストコンサートも終わろうとしていた。

円形ステージのライトが、少しずつ暗くなる。
上空の巨大なマリア・エレーナが、光の粒になって薄れていく。
まりあは観客席へ深く一礼し、正面バッターボックス側のゲートへ向かって歩き始めた。

歓声が降り注ぐ。
拍手が続く。

ゲートの手前で、まりあはもう一度だけ振り返った。
そして、小さく手を振る。
次の瞬間、彼女の姿は光の向こうへ消えた。

けれど、まだ終わりではなかった。



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