002_28_悲しい事があっても(1)

マリア・エレーナがゲートの向こうへ消えたあとも、東京ドームスタジアムの場内は暗いままだった。
観客は、すぐには席を立たなかった。

拍手が続いている。
歓声が続いている。
その中に、少しずつ別の声が混じり始めた。

アンコール。

最初は、前方の席からだった。
それが左右に広がっていく。
やがて上段の客席にも届き、スタジアム全体をゆっくり揺らし始めた。

アンコール。
アンコール。
アンコール。

声は、徐々に大きくなっていった。

誰かに指示されたものではない。
観客たちが、まだ帰りたくないと思っている。
その気持ちが、暗い場内に満ちていた。

しばらくして、正面バッターボックス側のゲートにスポットライトが当たった。
歓声が、一気に大きくなる。

光の中から、マリア・エレーナが再び姿を現した。
まりあは、少し驚いたような、けれど嬉しそうな表情で客席を見上げた。
そして、深く頭を下げた。

上空には、少し遅れて巨大なマリア・エレーナの立体映像が現れる。

実体のまりあと、光のマリア。
2人が同時に頭を上げると、会場は再び熱を取り戻した。

アンコールの一曲目は、明るい曲だった。
観客の手拍子が、すぐに重なる。

二曲目は、少しテンポを落とした曲だった。
まだ高ぶっている会場を、ゆっくりと夜の終わりへ向かわせるような曲。
まりあは、最後のフレーズを丁寧に歌い終えると、もう一度客席へ頭を下げた。

そして、ゲートの奥へ戻っていった。

場内は、再び暗くなる。
今度こそ終わり。
そう思った観客もいた。

それでも、拍手は止まらなかった。

少し遅れて、またアンコールの声が起こる。
今度は、先ほどよりもゆっくりだった。
けれど、消えない。

もう一度。
もう一度だけ。

そんな空気が、暗いスタジアムの中に残っていた。

やがて、すべての照明が落ちた。
BGMも消える。
ほんの数秒、場内から音がなくなった。

次の瞬間。
暗闇の中に、まりあの声だけが響いた。

<La-Li-La La-Li-La……>

伴奏は、まだない。
声だけだった。

遠くから聞こえてくるようで、すぐそばにあるような声。
観客が、その声を追うように反応した。
最初は小さく。

やがて、あちこちで同じフレーズが重なる。

<La-Li-La La-Li-La……>

5万人の声が、少しずつ一つの波になっていく。
その波の中で、正面バッターボックス側のゲートに、淡い光が差した。

マリア・エレーナが、3度目に姿を現した。
先ほどまでの華やかさとは、少し違っていた。
照明は控えめで、衣装の白さも柔らかく見える。

巨大なマリア・エレーナの立体映像も、上空に静かに浮かんでいた。
まりあは、観客の声を受け止めるように、ゆっくりとステージへ歩いていった。
曲が、静かに始まる。

<街角に風が吹いて 夏の名残りをさらう>
<少しだけ冷たい空気が 季節のドアを叩いた>

高くなりきった会場の熱を、少しずつ静めていくような歌だった。
まりあは、ときどき頭上で手拍子をしながら、観客に無理のない声で応えるように歌った。

盛り上げるのではない。
置いていくのでもない。
今日ここにいた人たちを、ゆっくり現実へ返していく。

そんな歌い方だった。

<La-Li-La 振り返らずに行くの>
<新しい夢が ほら待っているから>

そのころ、舞台裏では、別の動きが始まっていた。

小川は、放送席からステージを見つめていた。
会場の空気が、少しずつ落ち着いていくのが分かる。

成功した。

そう思っていいはずだった。
けれど、小川の仕事はまだ終わっていなかった。
事前に段取りは決めてある。

本当に最後の曲である「La-Li-La」が始まったら、裏では撤収と退場準備を始める。
観客が余韻に包まれている間に、まりあを安全に会場から出す。
それが今日の最後の大事な手順だった。

小川は、ヘッドセットを外し、放送席を出た。
通路には、スタッフが慌ただしく行き来している。

表では、まりあの歌声が穏やかに響いている。
けれど裏では、すでに現実が動き出していた。

照明班が次の手順を確認する。
音響スタッフが撤収用のリストを見ている。
警備担当者が出口付近の状況を連絡している。
関係者用通路では、スタッフが無線で短い報告を交わしている。

小川は、バッターボックス裏のスタッフエリアへ向かった。
歩きながら、頭の中で何度も確認する。

観客の退場導線。
出待ちの有無。
報道関係者の動き。
SNSで会場裏口の情報が流れていないか。
ドローンによる追跡の可能性。

考え始めれば、不測の事態はいくらでもあった。

今日のまりあは、極度の緊張の中で歌い続けた。
今はまだ、ステージ上にいる。
けれど、終わった瞬間に力が抜けるかもしれない。

できるだけ早く、静かな場所へ連れて帰る。
それが、小川の考えだった。

<La-Li-La 悲しい事があっても>
<涙の跡は飾りじゃない>

通路のスピーカーからも、まりあの声が聞こえていた。
小川は、そのフレーズを無意識に口ずさんでいた。

悲しい事があっても。

その言葉が、妙に胸に残った。

スタッフエリアに着くと、3人のボディーガードが待機していた。
黒ではなく、目立たない濃いグレーの服装。
いかにも警備員という雰囲気を出しすぎないように、事前に指示してある。

機材搬入口の近くには、ワゴン車が一台停まっていた。
こちらも、目立たない色だった。
関係者車両の中に混じれば、特に目を引くことはない。

小川は、警備担当者に確認した。

「外の状況は?」

「今のところ問題ありません。正面側は人が多いですが、機材搬入口付近に不審な動きはありません」

「報道は?」

「確認されていません」

「ドローンは?」

「今のところ検知なしです」

小川は頷いた。

「分かりました。このまま予定通りで」

再び、場内からまりあの声が響いた。

<La-Li-La 明日はきっと晴れる>
<そんな予感を胸に 歩き出すの>

最後のフレーズが、ゆっくりと伸びていく。

小川は、通路の奥を見た。
もうすぐ、まりあが戻ってくる。
やがて、客席の方から大きな拍手が聞こえた。

歌が終わったのだ。

歓声が、少し遅れて通路まで届く。
スタッフエリアの人々も、自然に拍手を始めた。

少しして、まりあが戻ってきた。
ステージ衣装の白い裾が、通路の光を受けて揺れている。
顔には、まだステージの表情が残っていた。

けれど、目の奥には疲れが見える。

「お疲れさまでした」

スタッフの声が重なる。
拍手が起こる。

まりあは、何度も頭を下げた。

「ありがとうございました」

小川も近づいた。

「まりあさん、本当にお疲れさまでした」

まりあは、小川を見る。

少し笑った。

「終わりましたね」

「はい。でも、まだ少しだけ段取りがあります」

小川は、余韻を壊しすぎないように、けれどはっきり言った。

「すぐ着替えて、予定通り車に向かいます」

まりあは頷いた。

「分かりました」

そこからは、慌ただしかった。

衣装担当のスタッフがまりあを控室へ案内する。
小川は外部との連絡を確認する。
警備担当者が、搬入口周辺の最終確認を行う。

2分も経たないうちに、まりあは普段着に着替えて戻ってきた。

ステージ衣装を脱いだ彼女は、急に小さく見えた。
さっきまで5万人の前で歌っていたマリア・エレーナではなく、一人の疲れた女性に戻ったようだった。
それでも、表情は穏やかだった。

ボディーガードの1人が先に歩き、2人が左右につく。
小川は、機材搬入口の前で待っていた。
警備担当者が無線を確認する。

「出口、問題なし」

「観客の退場はまだ始まっていません」

「報道関係者の姿もありません」

小川は、ワゴン車のドアが開くのを確認した。
まりあが、車の前で一度だけ振り返る。

「小川さん」

「はい」

「今日は、ありがとうございました」

小川は少しだけ目を細めた。

「こちらこそ。今日は本当に、よく頑張りました」

まりあは、照れたように笑った。
小川は、できるだけ普段通りの声で言った。

「それじゃ、今日はゆっくり休んでね」

まりあは小さく頷いた。

「はい」

そして、ボディーガードと一緒にワゴン車へ乗り込んだ。

ドアが閉まる。
ワゴン車は、静かに動き出した。
機材搬入口から外へ出ていく。

小川は、その車を見送った。
完全に見えなくなるまで、目を離さなかった。

この日のために、柴原と小川は臨時でボディーガードを雇った。
事故や混乱が起こると決まっていたわけではない。
けれど、マリア・エレーナの注目度は、ここ数か月で急速に上がっていた。

出待ち。
報道。
追跡。
盗撮。
無許可ドローン。

あり得ないと笑えることは、もうほとんどなかった。
だからこそ、できる準備はすべてした。

ワゴン車が会場の外へ出ていくのを確認すると、小川は小さく息を吐いた。
少なくとも、ここまでは予定通りだった。

小川は、再び放送席へ戻った。

会場は、すでに明るくなっていた。
客席では、観客の退出が段取りよく始まっている。
係員の案内に従い、人の流れがゆっくりと出口へ向かっている。

大きな混乱はない。
出入口付近にも、今のところ問題は報告されていなかった。
小川は、放送席の椅子に座った。

ようやく、少しだけ肩の力が抜けた。

ステージを見る。
さっきまでマリア・エレーナが立っていた円形ステージは、すでに次の作業のために照明が切り替えられていた。
スタッフたちが、撤収の準備を始めている。

成功した。

たぶん、そう言っていい。
そう思った。

ワゴン車が会場を出てから、30分ほど経ったころだった。

小川のスマホが、突然鳴った。
画面に表示された番号を見る。
その瞬間、小川の表情が変わった。

彼女は、すぐに電話に出た。



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