002_29_悲しい事があっても(2)

ライブ後の打ち上げが終わり、理沙が帰宅したのは、夜中の2時を少し過ぎたころだった。

久しぶりに、気持ちのいい酒だった。
Arisa-Mistyの4人で、よく飲み、よく笑った。

ラストライブは終わった。
バンド活動は、しばらく休止になる。
けれど、解散ではない。

そのことを、4人とも何度も確かめるように口にしていた。

「しばらくは、昼の仕事やな」

湯浅がそう言うと、フィリップが少し大げさにため息をついた。

「仕事だけの生活、つまらないね」

「でも、練習はしないと」

島崎が、眠そうな顔で言った。

「腕が落ちたら、戻るとき困ります」

「そうだね」

理沙は笑った。

「私も、歌わなくなるわけじゃないし」

活動休止中、湯浅たちは昼間の仕事に集中することになる。
それでも、完全に音楽から離れるつもりはなかった。

個人練習は続ける。
時々は集まる。
また何か面白いことがあれば、そのとき考える。

そんな話を、何度もした。

理沙が前に思いついた、3人がマリア・エレーナのバックバンドになるという案は、まだ柴原にも小川にも話していない。
まりあのファーストコンサートが無事に終わったら、理沙が改めて話をすることになっていた。
そのためにも、まずはコンサートの感想を聞きたい。

まりあは、どんな顔で話すだろう。

「すごかったです」と、少し照れたように笑うだろうか。
それとも、「もう二度とやりたくないです」と、疲れた声で言うだろうか。

どちらにしても、早く聞きたかった。

帰宅した途端、身体の奥から疲れが出てきた。
玄関で靴を脱ぎ、バッグを置く。
部屋の明かりをつけると、それだけで一日が終わったような気がした。

理沙はシャワーを浴び、髪をざっと乾かした。

そのまま寝てもよかった。
けれど、すぐにベッドへ入る気にもなれなかった。
居間のソファーに腰を下ろす。
身体が沈み込む。

もう動きたくない。

そう思いながら、なにげなく壁面ディスプレイをつけた。
深夜のニュース番組が流れていた。
画面の中では、夜の道路が映っていた。

赤い回転灯。
横転した車。
潰れたフロント部分。
道路に散らばった破片。

字幕には、自動運転車による多重衝突事故、と出ていた。

自動運転モードで走行していた乗用車が、突然制御不能になり、複数の車両に衝突したらしい。
運転手と、巻き込まれた車の乗員の多くが、即死または重体。
アナウンサーは、落ち着いた声で説明していた。

近年、自動運転車の事故は目立って増えていた。

かつては、高齢者の誤操作による事故が社会問題になっていた。
その誤操作を防ぐために普及したはずの自動運転車が、今度は別の形で人を巻き込む。
皮肉な話だと、専門家がコメントしていた。

理沙は、ぼんやりと画面を見ていた。

疲れていた。
内容は耳に入っているが、深く考えるほどの力は残っていない。
ただ、事故現場の地名だけが、少し引っかかった。

まりあのマンションから、そう遠くない場所だった。
偶然だろう。
そう思った。

東京で事故が起これば、誰かの家の近くにはなる。
それに、まりあは今日はスタッフに送られて帰るはずだ。
柴原や小川が、そこまで無防備にするとも思えない。

理沙は、ディスプレイを消した。

部屋が静かになる。
眠気が、一気に押し寄せてきた。
ベッドに横になると、すぐに意識が沈んでいった。

翌朝。
というより、昼近くになって、理沙は目を覚ました。

カーテンの隙間から、明るい光が入っている。

日曜日だった。
今日は、何もしなくていい。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
理沙はゆっくり起き上がり、キッチンへ向かった。

コーヒーを入れようとして、ふとスマホを見る。

着信履歴があった。
朝の7時。

小川美奈。

理沙は、しばらく画面を見つめた。
鳴っていたのだろう。
けれど、まったく気づかなかった。
それほど深く眠っていたらしい。

何だろう。

ファーストコンサートの報告だろうか。
それにしては、朝7時は少し早い。
理沙は、その場で折り返した。

呼び出し音は鳴らなかった。
話し中だった。

理沙は、スマホを見つめる。
嫌な感じがした。
けれど、それが何なのか分からない。

しばらく待っても、折り返しはない。

理沙はキッチンに戻り、コーヒーを入れ始めた。

粉をセットする。
水を注ぐ。
スイッチを入れる。

いつもの動作のはずなのに、少し手元が落ち着かなかった。

コーヒーの香りが立ち始めたころ、スマホが鳴った。
小川からだった。
理沙はすぐに出た。

「もしもし」

自分でもひどいと思うほど、声がかすれていた。
寝起きのせいだけではない気がした。

電話の向こうで、小川が小さく息を吸う音がした。

「大嶋さん」

いつもの小川の声ではなかった。

低い。
疲れている。
それでも、必死に形を保っているような声だった。

「はい。どうしました?」

理沙は尋ねた。

すぐに返事はなかった。
少しの沈黙。

その沈黙の間に、理沙の胸の奥が、ゆっくり冷えていく。

やがて、小川が言った。

「まりあさんが……」

そこで、声が途切れた。

理沙は何も言わなかった。
言えなかった。

小川は、もう一度息を吸った。
それから、ゆっくりと説明を始めた。

昨夜、コンサート終了後に会場を出たワゴン車が、帰路の途中で事故に巻き込まれたこと。
自動運転モードの車両が制御不能になり、交差点で複数の車に衝突したこと。
まりあを乗せた車も、その中に含まれていたこと。

病院に搬送されたこと。
夜のうちに、何度も処置が行われたこと。

そして。
今朝、亡くなったこと。

理沙は、聞いていた。
聞いているはずだった。
けれど、言葉が頭に残ってこなかった。

事故。
搬送。
処置。

今朝。
亡くなった。

それぞれの単語は聞こえる。
でも、つながらない。

まるで別の部屋で、誰かが別の人の話をしているようだった。
胸の奥に、胸やけのような感覚が広がった。
吐き気に近いものが、ゆっくり込み上げてくる。

目の前のキッチンが、少し遠くに見えた。
コーヒーメーカーの音だけが、妙にはっきり聞こえる。

「大嶋さん」

小川の声がした。

「聞こえていますか」

理沙は、何度か瞬きをした。

「はい」

自分の声が、自分のものではないようだった。
小川は、さらに何かを説明していた。

事故の詳しい状況。
ボディーガードのこと。
病院のこと。
今後の連絡のこと。
HALUCAとしての対応のこと。

理沙は、それを受け止めようとした。
けれど、うまくできなかった。
ただ、最後に小川の声が少し落ち着いたところで、ようやく言葉が出た。

「わかりました」

それだけだった。

小川は、また連絡すると言った。
理沙も、短く返事をした。
通話が終わる。

スマホの画面が暗くなる。

理沙は、そのまましばらく立っていた。

何をしていたのか分からなかった。
少しして、足元がふらついた。
居間へ戻り、ソファーに座る。

天井を見上げた。
白い天井だった。

何の変哲もない、自分の部屋の天井。
昨日までと同じ天井。
それが、急に遠いもののように見えた。

まりあが死んだ。

そう思おうとする。
でも、思えない。
昨日、彼女は歌っていた。

5万人の前で。

「La-Li-La」を歌っていた。

理沙が最後に見たのは、画面越しのニュースではない。
自分の右横に立っていたように感じた、白い衣装のマリア・エレーナだった。

あれは何だったのだろう。
理沙は、目を閉じた。
眩暈がした。

しばらくして、さっき入れたコーヒーのことを思い出した。
よろよろと立ち上がり、キッチンへ向かう。
カップに注いだコーヒーは、少し冷め始めていた。

理沙はそれを持って戻り、一口飲んだ。
味がしなかった。

何かしなければならない。
そう思った。

何をすればいいのかは分からない。
けれど、誰かには知らせなければならない。
理沙はスマホを手に取った。

湯浅。
フィリップ。
島崎。

3人の名前を選ぶ。
短い文章を打った。

<まりあさんが、昨夜の自動車事故で重傷を負い、今朝亡くなりました>

送信。

それだけで、指から力が抜けた。

理沙はスマホをテーブルに置き、ベッドへ向かった。
横になる。
しばらくすると、スマホが小さく鳴った。

一度。
また一度。
少し間を置いて、何度か。

誰かが返信している。
誰かが電話をかけているのかもしれない。
けれど、理沙は手を伸ばさなかった。

出る気になれなかった。
何かを話したら、その瞬間に本当になるような気がした。

日曜日は、そのまま過ぎていった。

起きていたのか。
眠っていたのか。

自分でもよく分からなかった。

窓の外が明るくなり、少し暗くなり、また夜になった。
何かを食べたような気もする。
何も食べていないような気もする。

スマホは、ときどき鳴った。
理沙は、ほとんど見なかった。

月曜日の朝。

理沙は、いつもの時間に起きた。
いつものように顔を洗い、いつものように服を着て、いつものように家を出た。
会社へ行く日だった。

休んでもよかったのかもしれない。
けれど、休むという選択肢が、頭に浮かばなかった。

駅まで歩く。
電車に乗る。
座席には座れなかった。

吊り革につかまりながら、理沙はようやくスマホを開いた。

湯浅から。
フィリップから。
島崎から。

何通もメッセージが来ていた。

信じられない。
どういうこと。
電話して。
大丈夫か。
今どこにいる。
何かできることあるか。

文字を追っていると、頭が痛くなった。
理沙は、画面を閉じた。

会社に着くと、いつもの空気があった。

端末の起動音。
キーボードの音。
誰かの雑談。
会議室へ向かう足音。

何も変わっていない。
変わっていないことが、不思議だった。
理沙は席に座り、淡々と仕事を始めた。

気の抜けた風船のようだった。

画面に表示される文字を読む。
手順通りに作業する。
問い合わせに短く答える。
必要な報告を書く。

それだけを繰り返した。

昼を過ぎたころ、小川から再び電話があった。
理沙は、会議室の空きを確認し、誰もいない小さな部屋へ入った。

「大嶋さん」

小川の声は、昨日よりは少し整っていた。

まだ疲れていた。
それでも、昨日よりは、言葉が形になっていた。

小川は、事故後の状況を淡々と説明した。

まりあの家族への連絡。
HALUCAとしての発表。
警察からの聞き取り。
報道対応。
今後、理沙に確認したいこと。

理沙は、短く相槌を打った。

昨日よりは、言葉が頭に残った。
残る分だけ、痛かった。

「一度、直接お話しできますか」

小川が言った。

「はい」

理沙は答えた。

「いつがいいですか」

「火曜日の夕方でしたら、こちらにいられます。HALUCAのオフィスで」

「分かりました。伺います」

約束だけが、淡々と決まっていった。
通話を終えると、理沙はしばらく会議室の椅子に座っていた。

白い壁。
細い机。
消し忘れた照明。

何もかもが、会社のいつもの風景だった。
その中で、理沙はスマホを握ったまま、もう一度だけ小さく息を吐いた。

火曜日の夕方。
HALUCAへ行く。

それだけが、次にしなければならないことになった。



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