002_30_悲しい事があっても(3)

週末の営業終了後の「白河」は、静かだった。

カウンターの上には、洗い終えたグラスが伏せられている。
店内の照明は、少し落とされていた。
さっきまで客の声が残っていた空間も、今はほとんど何も聞こえない。

外では、夜がゆっくり薄くなり始めている。
店内に残っているのは、理沙と湯浅だけだった。

理沙はカウンター席に座り、グラスを両手で包むようにして持っていた。

飲んでいるのか。
ただ見ているだけなのか。
自分でもよく分からなかった。

湯浅は、カウンターの内側で後片づけをしていた。

無理に話しかけてはこない。
それが、今の理沙にはありがたかった。

この一週間のことが、頭の中で何度も行ったり来たりしていた。

まりあが亡くなったことを知らされた日。
普段通りに仕事へ行った月曜日。
そして火曜日の夕方。

理沙は、HALUCAのオフィスを訪れた。

以前、理沙とまりあが初めて出会った場所。
狭くて、清潔で、音楽事務所というよりIT企業のように見えた、あのオフィス。
そこに、柴原と小川がいた。

小川の顔は、電話で聞いた声と同じくらい疲れていた。
柴原も、いつものように冷静に見えた。
けれど、その目の奥には、疲労とは別のものが沈んでいた。

応接テーブルに座ると、柴原は事故後の状況を淡々と説明した。
自動運転モードで走行していた乗用車が、交差点に進入する直前に制御不能になったこと。
複数の車に衝突したこと。
まりあを乗せたワゴン車も、その巻き添えになったこと。

警察は、車両側の自動運転システムの不具合と、外部からの不正操作の両方を視野に入れて調べていること。
けれど、現時点では、原因は確定していないこと。

事故。
不具合。
外部操作。
調査中。

理沙は、その言葉を聞きながら、ただ頷いていた。
聞きたくない話だった。
それでも、聞かないわけにはいかなかった。

まりあは、もういない。
でも、なぜいなくなったのかは、まだ誰にも分からない。

そのことが、理沙にはひどく気味悪かった。
しかし、その日、理沙が一番強い違和感を覚えたのは、事故の説明そのものではなかった。

「大嶋さん」

柴原は、声の調子をほとんど変えずに言った。

「まりあさんの件について、お願いがあります」

理沙は顔を上げた。

「現時点では、まりあさんが亡くなったことは、まだ公にはしていません」

理沙は、すぐには返事ができなかった。

「親族への説明、警察との調整、関係各所との確認があります。報道が先行すれば、ご遺族にも、事故調査にも、不要な混乱が起こります」

柴原の説明は、筋が通っていた。
少なくとも、言葉の上では。

「ですので、正式な発表までは、外には出さないでいただきたい」

外には出さない。
その言い方が、理沙の中で冷たく残った。

「Arisa-Mistyの3人には、もう伝えています」

理沙が言うと、柴原は小さく頷いた。

「それは伺っています。3名にも、同じようにお願いしていただけますか」

お願い。

それは確かにお願いの形をしていた。
けれど、理沙には、断れるものには聞こえなかった。

柴原の態度は、いつものように丁寧だった。
威圧的ではない。
声を荒げてもいない。

それなのに、理沙はその向こう側に、見えない大きなものを感じた。

HALUCAという小さな会社だけではない。
柴原個人の判断だけでもない。

もっと大きな力。

事故の原因より先に、情報の流れを押さえようとする何か。
理沙は、そう感じた。

小川は、柴原の隣に座っていた。

ほとんど何も言わなかった。
ただ一度だけ、理沙と目が合った。
その目を見て、理沙は思った。

小川も、納得していない。
けれど、今は従うしかない。
そんな顔だった。

そのまま、話は淡々と続いた。

HALUCAとしての発表時期。
関係者への連絡。
警察への協力。
理沙に確認したいこと。

まりあと最後に会った日のこと。
理沙が提供した曲のこと。

「他人の不幸は蜜の味」を、まりあがどんな経緯で歌うことになったのか。

理沙は一つずつ答えた。
話している間、あの日のまりあの部屋の匂いまで思い出した。

赤ワイン。
和牛。
窓の外の夜景。

疲れた顔で笑うまりあ。

「この曲、面白いです」

そう言った声。
今はもう、それを本人に確かめることはできない。

そして土曜日。

まりあの葬儀が行われた。
理沙は、友人の一人として参列した。
目立たない黒い服を着て、一人で斎場へ向かった。

そこにいたのは、マリア・エレーナのファンではなかった。
大きな報道陣もいなかった。

親族。
HALUCAの関係者。
以前まりあが勤めていた会社の同僚らしい人たち。

数は、多くなかった。
東京ドームスタジアムで5万人の前に立ったマリア・エレーナではなく、片岡・エレーナ・まりあという一人の女性の葬儀だった。

式は、静かに進んだ。
誰かが大きく泣き崩れることもなかった。
誰かが声を荒げることもなかった。

読経の声。
焼香の順番を知らせる係員の声。
小さなすすり泣き。
椅子の軋む音。

それだけが、淡々と流れていった。
遺影の中のまりあは、穏やかに笑っていた。
理沙は、その写真を見たとき、なぜか東京ドームの上空に浮かぶ巨大なマリア・エレーナを思い出した。

大きすぎる光の歌姫。
そして、目の前の小さな写真。
その落差が、うまく飲み込めなかった。

式が終わったあと、理沙は斎場の隅で小川と少し話した。
2人とも、声は小さかった。

「来てくださって、ありがとうございます」

小川はそう言った。

「友人なので」

理沙は答えた。
言ってから、その言葉が少し遅れて胸に刺さった。

友人。

自分は、まりあの友人だったのだろうか。
そう呼んでいいのだろうか。
もっと何かできたのではないか。

そんな考えが、頭の中をかすめた。

小川は、手元の紙コップを見つめていた。
中身はほとんど減っていなかった。

「全部、準備していたんです」

小川がぽつりと言った。

「ボディーガードも、車も、ルートも。出待ちや報道も、ドローンも、全部考えたつもりでした」

理沙は何も言えなかった。

「でも、守れませんでした」

小川の声は、崩れなかった。
けれど、その言葉だけが、少し震えていた。

「私が、あの車に乗せたんです」

「小川さんのせいじゃありません」

理沙は言った。
言うしかなかった。
けれど、自分の言葉が小川に届いたかどうかは分からなかった。

小川は、小さく首を横に振った。

「誰のせいにすればいいのか、分からないんです」

その声には、怒りがあった。
誰に向ければいいのか分からない怒り。

事故を起こした車にか。
自動運転システムにか。
それを作った会社にか。
外部操作の可能性があるなら、その何者かにか。

それとも、最後にまりあを送り出した自分にか。

理沙にも、分からなかった。
少し離れた窓際の席では、柴原がまりあの親族らしき人たちと話していた。

親族の表情は険しかった。
柴原は、深く頭を下げていた。
何かを説明している。
何かを謝っている。

その顔は、いつもの社長の顔ではなかった。
追い詰められているようにも見えた。

しばらくして、柴原は席を離れ、廊下の方へ出ていった。
スマホを耳に当て、誰かと短く話している。

葬儀の場でさえ、事後対応は止まらない。
まりあが亡くなったことを悲しむ時間より先に、処理しなければならないことが押し寄せている。
理沙は、それを見ながら、胸の奥が重くなるのを感じた。

「白河」のカウンターで、理沙はグラスを少しだけ傾けた。

氷が、小さく音を立てる。

「……それで?」

湯浅の声で、理沙は我に返った。

湯浅は、カウンターの向こうから理沙を見ていた。
責めるような目ではなかった。
ただ、続きを待っている目だった。

理沙は少し息を吐いた。

「言えなかった」

「何を?」

「前に話してたこと。マリア・エレーナのバックバンドを、湯浅さんたちにやってもらえないかって話」

湯浅は、すぐには返事をしなかった。

理沙はグラスを見つめた。

「HALUCAに行ったけど、事故の話と、今後の対応と、葬儀のことで終わっちゃった。そんな話、出せる空気じゃなかった」

「そら無理や」

湯浅は、静かに言った。

「今そんな話できるわけないやろ」

「うん」

「気にせんでええ」

理沙は、小さく頷いた。
湯浅は、洗い終えたグラスを棚に戻した。

「理沙は、しばらく休んだらええ」

「休む?」

「歌も、仕事も、全部いっぺんに考えんでええ。気分を変えて、また歌いたくなったら歌えばええ」

また歌いたくなったら。
その言葉が、理沙の中で静かに落ちた。

歌いたくなる日が、本当に来るのだろうか。
今は、分からなかった。

理沙は、ふと昔のことを思い出した。

まだ「Shangri-la」で働いていたころ。
客の前で歌い、店の中で少しずつ歌姫のように扱われるようになっていたころ。
湯浅に、何気なく言われた言葉。

<歌っているときの、あのいつもの感じは、どこに行ってしまったのかな?>

あのとき、自分はその言葉に少し救われた。
歌っているときの、あのいつもの感じ。
自分の中に確かにあったもの。

けれど今は、それがどこにあったのか、よく分からなかった。

東京ドームの上空に浮かんだ光のマリア。
ライブハウスで隣に立っていたように見えたマリア・エレーナ。

斎場の遺影。
小川の震えた声。
柴原の背中。

それらが、ばらばらの映像のように頭の中に残っている。

理沙は、グラスを置いた。

「旅にでも出ようかな」

口に出してから、自分でも少し驚いた。
湯浅は、驚かなかった。

「ええんちゃう」

「軽いですね」

「帰ってくるんやろ」

理沙は、少しだけ笑った。

「たぶん」

「なら、ええわ」

湯浅はそう言って、カウンターの照明を一つ落とした。

店内が、さらに静かになる。
外の空は、少し明るくなり始めていた。

5月末。

理沙の職場での最終出勤日が来た。
その日も、特別な朝ではなかった。

いつもの時間に起きる。
いつもの電車に乗る。
いつものビルに入る。
いつもの端末を立ち上げる。

人員整理の対象になった人たちは、順番に最終日を迎えていた。
だから、理沙の番が来ても、職場全体が大きく揺れるわけではなかった。

朝の挨拶も、いつも通りだった。

メールを確認する。
残っている作業を片づける。
引き継ぎ資料を更新する。
不要になったファイルを整理する。
貸与端末の返却手順を確認する。

それだけで、時間は過ぎていった。

昼休みには、同僚が何人か声をかけてくれた。

「次、決まってるんですか」

「少し休むつもりです」

「いいですね。羨ましいです」

理沙は笑って答えた。
その笑いが、どこまで本当だったのかは分からなかった。

夕方、小さなお疲れ様会があった。
会議室の一角に、紙コップと簡単な飲み物が並ぶ。

上司が短く挨拶をする。
理沙も、ありきたりな言葉で礼を言う。

お世話になりました。
またどこかで。
元気で。

そんな言葉が、いくつも交わされた。

あっけなかった。
これで終わりなのかと思うほど、何も起こらなかった。

仕事も。
歌も。
まりあのことも。

世界は、どれか一つが終わったくらいでは止まらない。

理沙は、返却した端末のない机を一度だけ見た。
そして、荷物を持って職場を出た。

ビルの外には、いつもの夕方の風が吹いていた。



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