マリア・エレーナについての話題は、その後も続いていた。
東京ドームスタジアムでのファーストコンサートの感想。
立体プロジェクターによる演出への驚き。
「Next Frontier」を生で聴けたことへの興奮。
「他人の不幸は蜜の味」という、タイトルの分からない新曲への反応。
そして、次のリリース曲や次のライブへの期待。
ファンたちは、まだ余韻の中にいた。
あの夜を実際に見た人たちは、それぞれの言葉で感想を書き込んでいた。
同時配信で見た人たちも、短い動画や切り抜きに反応し続けていた。
マリア・エレーナは、確かに一夜で大きな存在になった。
けれど、コンサートの日を境に、公式の情報は止まった。
新しい告知はない。
本人からのメッセージもない。
HALUCAの公式アカウントも、コンサートへの感謝を短く投稿したきり、目立った更新をしなかった。
最初の数日は、それほど問題にはならなかった。
大きなイベントの直後なのだから、少し休んでいるのだろう。
そう受け止める人が多かった。
しかし、一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、新しい情報は出なかった。
その沈黙は、少しずつ別のものに変わっていった。
最初は、心配だった。
体調を崩したのではないか。
声を痛めたのではないか。
過密スケジュールだったのではないか。
そういう書き込みが増えていった。
けれど、やがて別の憶測も混じり始めた。
マリア・エレーナは、本当に実在する歌手だったのか。
東京ドームに登場した人物は、本人だったのか。
そもそも「本人」とは何なのか。
立体映像も、音声処理も、あまりに完成度が高すぎた。
会場に出てきた歌手も、巧妙に用意された替え玉で、歌声は事前に作られたものだったのではないか。
あのファーストコンサートは、人間の歌手のライブではなく、HALUCAが作り上げた巨大なプロジェクトだったのではないか。
そんな書き込みを、理沙は何度も見た。
画面を閉じればいい。
見なければいい。
そう思うのに、気づくとまた見ていた。
違う。
そう言いたかった。
まりあはいた。
片岡・エレーナ・まりあという、一人の女性がいた。
HALUCAのオフィスで、緊張しながらマイクの前に立っていた。
自分の部屋で赤ワインを飲みながら、「他人の不幸は蜜の味」を聴いていた。
東京ドームのステージで、5万人の前で歌っていた。
けれど、理沙は何も言えなかった。
柴原に言われたからだけではない。
何かを書き込めば、まりあの死を、もう一度世の中に差し出すことになる。
それが怖かった。
ある日の夜、理沙は一つの書き込みを見つけた。
短い文章だった。
マリア・エレーナは亡くなっている。
それだけだった。
理沙は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
しばらく、画面から目を離せなかった。
誰が書いたのか。
どこから知ったのか。
理沙はすぐに、湯浅、フィリップ、島崎に連絡した。
3人からの返事は、思ったより早かった。
自分ではない。
そんなことは書いていない。
誰にも話していない。
3人とも、そう答えた。
理沙は、もう一度その書き込みを見ようとした。
けれど、すでに消えていた。
削除されたのか。
本人が消したのか。
誰かに消されたのか。
分からなかった。
次の日にも、似たような書き込みが出た。
今度は少し具体的だった。
マリア・エレーナはコンサートの日の夜に事故に遭ったらしい。
理沙は息を止めた。
しかし、その書き込みも、しばらくすると消えた。
拡散されるかと思えば、何事もなかったように静まる。
また誰かが書く。
また消える。
広がりそうになる。
また消える。
それが、何度か繰り返された。
理沙は、そのたびに画面の前で固まった。
真実が漏れている。
けれど、真実は表に出ない。
出ようとすると、すぐに何かに押し戻される。
目に見えない手が、情報の流れを整えているようだった。
柴原がHALUCAで言った「外には出さない」という言葉を、理沙は思い出した。
あれは、お願いだったのか。
それとも、もう決まっていたことを、理沙たちにも守らせるための確認だったのか。
分からなかった。
分からないことばかりだった。
ファーストコンサートから、ちょうど一か月が経った日。
理沙のスマホに、島崎からメッセージが届いた。
<動画、見ましたか>
それだけだった。
理沙は、すぐにマリア・エレーナの公式アカウントを開いた。
新しい動画が投稿されていた。
タイトルは短かった。
マリア・エレーナから皆さまへ。
投稿日は、その日。
ただし、動画の説明欄には、録画日は6月初旬と書かれていた。
理沙は、しばらく再生ボタンを押せなかった。
押したくない。
けれど、見ないわけにはいかなかった。
指先で画面に触れる。
動画が始まった。
映っていたのは、病院の一室のような場所だった。
白い壁。
白いカーテン。
小さなサイドテーブル。
窓際に置かれた花瓶。
けれど、大きな総合病院という感じではなかった。
もっと小さく、静かな場所。
地方の診療所の個室のようにも見えた。
映像は、スマホで撮られたようだった。
大きく揺れてはいない。
けれど、スタジオで撮った映像のような作り込まれた感じもない。
その自然さが、かえって本物らしく見えた。
ベッドの上に、マリア・エレーナが座っていた。
パジャマ姿だった。
化粧はしていなかった。
髪も、ステージのときのようには整えられていない。
けれど、血色はよかった。
顔色も悪くない。
目にも力がある。
少し痩せたようにも見えるが、病み上がりの人としては元気そうだった。
理沙は、胸の奥が冷えていくのを感じた。
元気そうに見える。
それが、残酷だった。
画面の中のまりあは、少しだけ照れたように笑った。
「お久しぶりです」
声は、少しかすれていた。
けれど、弱々しいというほどではなかった。
聞き慣れた、まりあの声だった。
理沙は、手の中でスマホを握りしめた。
「ファーストコンサートから、もうすぐ一か月になります」
まりあは、言葉を選ぶように、ゆっくり話し始めた。
東京ドームスタジアムに来てくれた人たちへの感謝。
同時配信を見てくれた人たちへの感謝。
メッセージを送ってくれた人たちへの感謝。
歌を聴いてくれた人たちへの感謝。
一つ一つの言葉は、丁寧だった。
いつものまりあらしい話し方だった。
「ちょっと事情があって、あの日のあとから、しばらく静養していました」
窓の外から、やわらかい風が入ってきた。
カーテンが、ほんの少し揺れる。
まりあの髪も、少しだけ揺れた。
動画の中だけ、穏やかな時間が流れているように見えた。
「あまり、いい声ではないと思います」
まりあは、小さく笑った。
「実は、ちょっと問題がありました」
そこで、少しだけ間が空いた。
「喉のことです」
詳しい病名も、経緯も語られなかった。
ただ、コンサート後に喉に深刻な問題が起きたこと。
医師と相談していること。
当面、歌うことは難しいこと。
そのようなことを、淡々と話した。
そして、少しだけ視線を落としたあと、まりあは言った。
「歌うことは、もうできないと思います」
理沙は、息を止めた。
それは、嘘だった。
少なくとも、真実ではなかった。
歌えないのではない。
もう、いない。
けれど、画面の中のまりあは、生きているように見えた。
歌えなくなった歌手として、そこにいた。
その後、まりあは話題を変えた。
診療所の近くの風景について。
朝になると、遠くで鳥の声が聞こえること。
窓から見える木々の葉が、風でよく揺れること。
近くに小さな川があるらしいこと。
夜は、とても静かなこと。
けれど、具体的な場所は言わなかった。
都道府県も、病院名も、町の名前も。
何も語られなかった。
まるで、どこかにいるようで、どこにもいない場所だった。
「一年近くの間、応援してくださって、ありがとうございました」
まりあは、画面に向かって深く頭を下げた。
「私は、本当に幸せでした」
その言葉を聞いたとき、理沙は、まりあの顔から目を離せなくなった。
幸せでした。
過去形だった。
「歌うことが好きでした」
まりあは続けた。
「自分の歌を、誰かが聴いてくれることが、こんなに嬉しいものだとは思っていませんでした」
声は、穏やかだった。
少しかすれていても、言葉ははっきりしていた。
「今は、少し休みます」
そして、最後にまりあは、少しだけ意味深に笑った。
「いつかまた、どこかでお会いしましょう」
一拍置いて、彼女は言った。
「では、その日まで」
動画は、そこで終わった。
画面が暗くなる。
理沙は、しばらく動けなかった。
何を見せられたのか、すぐには分からなかった。
いや、分かっていた。
分かっているからこそ、身体が動かなかった。
死んだはずのまりあが、生きていることにされていた。
マリア・エレーナは、歌えなくなった歌手として、ファンに別れを告げた。
世間にとっては、それで一つの物語になる。
突然消えたのではない。
死んだのでもない。
喉を痛め、静養し、歌えなくなった。
だから、表舞台から去る。
そういう話になった。
理沙は、スマホを握ったまま、小川の番号を呼び出した。
通話ボタンを押す。
呼び出し音は、ほとんど鳴らなかった。
小川は、すぐに出た。
まるで、理沙から連絡が来ることを分かっていたようだった。
「大嶋さん」
小川の声は低かった。
「小川さん」
理沙は、自分の声を抑えようとした。
怒鳴りたくはなかった。
泣きたくもなかった。
けれど、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。
怒りなのか。
悲しみなのか。
それとも、もっと別のものなのか。
自分でも分からなかった。
「あの動画」
理沙は、静かに言った。
「はい」
小川も、短く答えた。
理沙は、少し息を吸った。
「HALUCAが関わって作ったものですか?」
電話の向こうで、沈黙があった。
長い沈黙だった。
小川は、すぐには答えなかった。
その沈黙の長さが、ほとんど答えのようにも思えた。
やがて、小川が言った。
「肯定も否定もしません」
理沙は、目を閉じた。
その言葉は、否定ではなかった。
けれど、肯定でもない。
小川の声は、感情を殺していた。
それでも、その奥に、疲れた痛みのようなものが残っていた。
理沙は、何も言えなかった。
動画の中のまりあの最後の言葉が、耳に残っていた。
いつかまた、どこかで。
では、その日まで。
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