002_31_病室から

マリア・エレーナについての話題は、その後も続いていた。

東京ドームスタジアムでのファーストコンサートの感想。
立体プロジェクターによる演出への驚き。
「Next Frontier」を生で聴けたことへの興奮。
「他人の不幸は蜜の味」という、タイトルの分からない新曲への反応。

そして、次のリリース曲や次のライブへの期待。

ファンたちは、まだ余韻の中にいた。

あの夜を実際に見た人たちは、それぞれの言葉で感想を書き込んでいた。
同時配信で見た人たちも、短い動画や切り抜きに反応し続けていた。

マリア・エレーナは、確かに一夜で大きな存在になった。
けれど、コンサートの日を境に、公式の情報は止まった。

新しい告知はない。
本人からのメッセージもない。

HALUCAの公式アカウントも、コンサートへの感謝を短く投稿したきり、目立った更新をしなかった。

最初の数日は、それほど問題にはならなかった。
大きなイベントの直後なのだから、少し休んでいるのだろう。
そう受け止める人が多かった。

しかし、一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、新しい情報は出なかった。
その沈黙は、少しずつ別のものに変わっていった。

最初は、心配だった。
体調を崩したのではないか。
声を痛めたのではないか。
過密スケジュールだったのではないか。

そういう書き込みが増えていった。

けれど、やがて別の憶測も混じり始めた。

マリア・エレーナは、本当に実在する歌手だったのか。
東京ドームに登場した人物は、本人だったのか。
そもそも「本人」とは何なのか。

立体映像も、音声処理も、あまりに完成度が高すぎた。
会場に出てきた歌手も、巧妙に用意された替え玉で、歌声は事前に作られたものだったのではないか。
あのファーストコンサートは、人間の歌手のライブではなく、HALUCAが作り上げた巨大なプロジェクトだったのではないか。

そんな書き込みを、理沙は何度も見た。

画面を閉じればいい。
見なければいい。
そう思うのに、気づくとまた見ていた。

違う。

そう言いたかった。

まりあはいた。
片岡・エレーナ・まりあという、一人の女性がいた。

HALUCAのオフィスで、緊張しながらマイクの前に立っていた。
自分の部屋で赤ワインを飲みながら、「他人の不幸は蜜の味」を聴いていた。
東京ドームのステージで、5万人の前で歌っていた。

けれど、理沙は何も言えなかった。
柴原に言われたからだけではない。

何かを書き込めば、まりあの死を、もう一度世の中に差し出すことになる。
それが怖かった。

ある日の夜、理沙は一つの書き込みを見つけた。
短い文章だった。

マリア・エレーナは亡くなっている。

それだけだった。

理沙は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
しばらく、画面から目を離せなかった。

誰が書いたのか。
どこから知ったのか。

理沙はすぐに、湯浅、フィリップ、島崎に連絡した。
3人からの返事は、思ったより早かった。

自分ではない。
そんなことは書いていない。
誰にも話していない。
3人とも、そう答えた。

理沙は、もう一度その書き込みを見ようとした。
けれど、すでに消えていた。

削除されたのか。
本人が消したのか。
誰かに消されたのか。

分からなかった。

次の日にも、似たような書き込みが出た。
今度は少し具体的だった。

マリア・エレーナはコンサートの日の夜に事故に遭ったらしい。

理沙は息を止めた。

しかし、その書き込みも、しばらくすると消えた。
拡散されるかと思えば、何事もなかったように静まる。

また誰かが書く。
また消える。
広がりそうになる。
また消える。

それが、何度か繰り返された。

理沙は、そのたびに画面の前で固まった。

真実が漏れている。
けれど、真実は表に出ない。
出ようとすると、すぐに何かに押し戻される。

目に見えない手が、情報の流れを整えているようだった。

柴原がHALUCAで言った「外には出さない」という言葉を、理沙は思い出した。

あれは、お願いだったのか。
それとも、もう決まっていたことを、理沙たちにも守らせるための確認だったのか。

分からなかった。
分からないことばかりだった。

ファーストコンサートから、ちょうど一か月が経った日。
理沙のスマホに、島崎からメッセージが届いた。

<動画、見ましたか>

それだけだった。

理沙は、すぐにマリア・エレーナの公式アカウントを開いた。

新しい動画が投稿されていた。
タイトルは短かった。

マリア・エレーナから皆さまへ。

投稿日は、その日。
ただし、動画の説明欄には、録画日は6月初旬と書かれていた。

理沙は、しばらく再生ボタンを押せなかった。

押したくない。
けれど、見ないわけにはいかなかった。
指先で画面に触れる。

動画が始まった。

映っていたのは、病院の一室のような場所だった。

白い壁。
白いカーテン。
小さなサイドテーブル。
窓際に置かれた花瓶。

けれど、大きな総合病院という感じではなかった。
もっと小さく、静かな場所。
地方の診療所の個室のようにも見えた。

映像は、スマホで撮られたようだった。
大きく揺れてはいない。
けれど、スタジオで撮った映像のような作り込まれた感じもない。

その自然さが、かえって本物らしく見えた。

ベッドの上に、マリア・エレーナが座っていた。
パジャマ姿だった。
化粧はしていなかった。
髪も、ステージのときのようには整えられていない。

けれど、血色はよかった。
顔色も悪くない。
目にも力がある。

少し痩せたようにも見えるが、病み上がりの人としては元気そうだった。

理沙は、胸の奥が冷えていくのを感じた。

元気そうに見える。
それが、残酷だった。
画面の中のまりあは、少しだけ照れたように笑った。

「お久しぶりです」

声は、少しかすれていた。
けれど、弱々しいというほどではなかった。

聞き慣れた、まりあの声だった。
理沙は、手の中でスマホを握りしめた。

「ファーストコンサートから、もうすぐ一か月になります」

まりあは、言葉を選ぶように、ゆっくり話し始めた。

東京ドームスタジアムに来てくれた人たちへの感謝。
同時配信を見てくれた人たちへの感謝。
メッセージを送ってくれた人たちへの感謝。
歌を聴いてくれた人たちへの感謝。

一つ一つの言葉は、丁寧だった。
いつものまりあらしい話し方だった。

「ちょっと事情があって、あの日のあとから、しばらく静養していました」

窓の外から、やわらかい風が入ってきた。
カーテンが、ほんの少し揺れる。
まりあの髪も、少しだけ揺れた。

動画の中だけ、穏やかな時間が流れているように見えた。

「あまり、いい声ではないと思います」

まりあは、小さく笑った。

「実は、ちょっと問題がありました」

そこで、少しだけ間が空いた。

「喉のことです」

詳しい病名も、経緯も語られなかった。
ただ、コンサート後に喉に深刻な問題が起きたこと。

医師と相談していること。
当面、歌うことは難しいこと。
そのようなことを、淡々と話した。

そして、少しだけ視線を落としたあと、まりあは言った。

「歌うことは、もうできないと思います」

理沙は、息を止めた。

それは、嘘だった。
少なくとも、真実ではなかった。
歌えないのではない。

もう、いない。

けれど、画面の中のまりあは、生きているように見えた。
歌えなくなった歌手として、そこにいた。

その後、まりあは話題を変えた。

診療所の近くの風景について。
朝になると、遠くで鳥の声が聞こえること。
窓から見える木々の葉が、風でよく揺れること。
近くに小さな川があるらしいこと。
夜は、とても静かなこと。

けれど、具体的な場所は言わなかった。
都道府県も、病院名も、町の名前も。

何も語られなかった。

まるで、どこかにいるようで、どこにもいない場所だった。

「一年近くの間、応援してくださって、ありがとうございました」

まりあは、画面に向かって深く頭を下げた。

「私は、本当に幸せでした」

その言葉を聞いたとき、理沙は、まりあの顔から目を離せなくなった。

幸せでした。
過去形だった。

「歌うことが好きでした」

まりあは続けた。

「自分の歌を、誰かが聴いてくれることが、こんなに嬉しいものだとは思っていませんでした」

声は、穏やかだった。

少しかすれていても、言葉ははっきりしていた。

「今は、少し休みます」

そして、最後にまりあは、少しだけ意味深に笑った。

「いつかまた、どこかでお会いしましょう」

一拍置いて、彼女は言った。

「では、その日まで」

動画は、そこで終わった。
画面が暗くなる。

理沙は、しばらく動けなかった。

何を見せられたのか、すぐには分からなかった。
いや、分かっていた。
分かっているからこそ、身体が動かなかった。

死んだはずのまりあが、生きていることにされていた。
マリア・エレーナは、歌えなくなった歌手として、ファンに別れを告げた。

世間にとっては、それで一つの物語になる。

突然消えたのではない。
死んだのでもない。
喉を痛め、静養し、歌えなくなった。
だから、表舞台から去る。

そういう話になった。

理沙は、スマホを握ったまま、小川の番号を呼び出した。

通話ボタンを押す。
呼び出し音は、ほとんど鳴らなかった。

小川は、すぐに出た。
まるで、理沙から連絡が来ることを分かっていたようだった。

「大嶋さん」

小川の声は低かった。

「小川さん」

理沙は、自分の声を抑えようとした。

怒鳴りたくはなかった。
泣きたくもなかった。
けれど、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。

怒りなのか。
悲しみなのか。

それとも、もっと別のものなのか。
自分でも分からなかった。

「あの動画」

理沙は、静かに言った。

「はい」

小川も、短く答えた。
理沙は、少し息を吸った。

「HALUCAが関わって作ったものですか?」

電話の向こうで、沈黙があった。
長い沈黙だった。

小川は、すぐには答えなかった。
その沈黙の長さが、ほとんど答えのようにも思えた。

やがて、小川が言った。

「肯定も否定もしません」

理沙は、目を閉じた。

その言葉は、否定ではなかった。
けれど、肯定でもない。

小川の声は、感情を殺していた。
それでも、その奥に、疲れた痛みのようなものが残っていた。

理沙は、何も言えなかった。
動画の中のまりあの最後の言葉が、耳に残っていた。

いつかまた、どこかで。

では、その日まで。



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