2038年7月。
渋谷の正午は、すでに夏の頂点に近かった。
高層ビルの壁面に反射した光が、地面に白く広がる。
アスファルトの上の空気はゆっくりと揺れ、遠くの信号機がわずかに歪んで見えた。
理沙は歩いていた。
採用面接のために、今日もいくつかの会社を回っている。
何社目だったのかは、もう思い出せない。
面接室の机。
同じような質問。同じような表情。
担当者は履歴書を見て、短く頷き、そして決まりきった言葉を並べる。
街に出ると、また次の場所へ歩く。
渋谷駅前のスクランブル交差点に人の流れが集まっていた。
信号が変わる。
人波が一斉に動き出す。
理沙も、その流れに乗った。
交差点の中央に差しかかったところで、足元がわずかに揺れた。
地面が傾いたように感じる。
視界が白くなる。
一歩、踏み出そうとして――
体が前に崩れた。
その瞬間、誰かの腕が肩を支えた。
「ちょっと、大丈夫?」
女性の声だった。
理沙は返事をしようとしたが、うまく声が出ない。
そのまま腕を引かれ、交差点を抜け、近くの街路樹の下まで連れていかれる。
木陰に入ると、空気が少しだけ柔らいだ。
理沙は壁にもたれるように座り込む。
しばらくして、視界がゆっくり戻ってきた。
目の前に、女性の顔がある。
覗き込むようにして、理沙を見ている。
「理沙?」
その名前を呼ばれて、理沙は瞬きをする。
どこかで聞いた声だった。
けれど、すぐには思い出せない。
女性は少し笑った。
「覚えてない?」
その顔を、理沙はもう一度見る。
少し強い目。整った横顔。落ち着いた声。
そこでようやく名前が浮かぶ。
「……彩名?」
女性は頷いた。
中野彩名だった。
---
二人は近くの喫茶店に入った。
冷房の効いた店内に入った瞬間、
理沙の体から力が抜けた。
アイスコーヒーが運ばれてくる。
グラスの表面に水滴が浮かび、氷が小さく音を立てた。
理沙はゆっくり飲む。
体の奥に、ようやく冷たい感覚が広がっていく。
「久しぶりだね」
彩名が言う。
理沙は頷く。
高校を卒業してから、ほとんど会っていなかった。
一年半ぶりくらいになる。
話は途切れなかった。
近況。大学。就職活動。
彩名は理沙の話を黙って聞いている。
時々、短く相槌を打つ。
そして、グラスをテーブルに置くと、言った。
「このあと、時間ある?」
理沙は少し考えて、頷いた。
その日の夕方。
理沙は赤坂にいた。
彩名のあとを歩き、ビルのエレベーターに乗る。
扉が開くと、柔らかな照明の廊下が続いていた。
「ここ」
彩名が言う。
扉の横には、小さなプレートがある。
**Shangri-la**
店の中に入ると、まだ開店前だった。
キャストたちがソファに座り、雑談している。
グラスの準備をする黒服の姿も見える。
彩名が入ってくると、店内の空気が少し変わった。
何人かが姿勢を正す。話し声が小さくなる。
理沙はその変化を見ていた。
彩名は、迷わずフロアを横切る。
「この子、今日から」
突然そう言った。
周囲の視線が一斉に理沙に集まる。
「新人。名前は……」
彩名は一瞬だけ考える。
「ありさ」
理沙は思わず彩名を見る。
「いいでしょ」
そう言って笑う。
すぐにドレスを渡される。
更衣室に連れて行かれ、着替える。
鏡の前に立つと、そこにいるのはさっきまで渋谷を歩いていた自分とは少し違う人間に見えた。
店の空気も、昼間の世界とはどこか違っている。
理沙はその感覚をうまく言葉にできないまま、更衣室を出た。
戻ると、彩名が理沙の手を引いた。
「とりあえず、座ってればいいから」
フロア席。
客の前に立つ。
「新人」
彩名が軽く紹介する。
客は笑って頷く。
キャストたちも自然に会話を続ける。
理沙は、その輪の中に座った。
話の流れは早い。
笑い声。
グラスの音。
視線のやり取り。
理沙はほとんど口を開けなかった。
ただ、目の前の光景を見ていた。
キャストたちは皆、大人に見えた。
あとで聞けば、同年代の者も多いのに。
夜は思ったより早く過ぎていく。
閉店の頃には、
理沙は何をしたのかよく覚えていなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
何も決まっていない。
それでも、
何かが始まってしまった気がした。
|