仕事帰りのある夜、
同僚のキャストに誘われて、理沙は新宿の小さなショットバーに立ち寄った。
店の名は**「白河」**。
十人も入れば満席になるほどの小さな店だった。
カウンターの奥では、古いジャズのレコードが静かに回っている。
店内の照明は柔らかく、グラスの縁がかすかに光っていた。
騒がしさとは無縁の場所だった。
カウンターの中にはバーテンダーが二人いる。
一人は五十代くらいの店長。
もう一人は二十代半ばほどの若い店員だった。
同僚のキャストは店長とすぐに打ち解け、昔からの常連のように会話を始めていた。
理沙はカウンターの端に座り、しばらく黙って酒を飲んでいた。
店の空気は静かだった。
グラスの触れ合う音。
レコードのかすかなノイズ。
ゆっくり流れるジャズ。
夜の店の喧騒とはまるで違う。
理沙はその静けさを気に入った。
若い店員は、理沙に必要以上に話しかけてこなかった。
注文を受けるときだけ近づき、それ以外の時間は少し離れた場所で静かにグラスを磨いている。
理沙はその距離感が心地よかった。
店にいた一時間ほどのあいだ、
二人が交わした言葉はほんのわずかだった。
軽い自己紹介と、天気の話のような世間話。
それだけだった。
それから理沙は、ときどき「白河」に立ち寄るようになった。
月に二回ほど。
同僚キャストと来ることもあれば、一人で来ることもあった。
仕事帰りの喧騒を離れて、ただ静かに酒を飲める場所だった。
店員との会話も、少しずつ増えていった。
けれど、それはいつも短いものだった。
互いの生活について深く話すことはなかった。
それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
年が明けた一月のある夜。
仕事を終えた理沙は、電車を途中で降りた。
そのまま歩いて、横浜の山下公園まで出る。
深夜の時間。
それでも港の近くには人の気配がある。
二十四時間営業のラウンジからは、遠くに客の話し声が聞こえる。
カップルがゆっくり歩いている。
海の向こうには、東京湾スペースポートの工事現場の灯りが見えていた。
静かな夜だった。
理沙は海沿いを歩く。
すると、どこからか音楽が聞こえてきた。
ロックだった。
ジャズとは正反対の、派手なギターの音。
理沙は足を止める。
音のする方を見ると、少し先に人だかりができていた。
数人の見物客が円を作っている。
その中心で、一人の男が演奏していた。
派手な動きだった。
身体を大きく振り、ギターを弾いているような動き。
けれど、よく見るとギターは持っていない。
流れている音楽に合わせて、ただ身体だけで演奏している。
エアギターだった。
それでも動きは本格的だった。
観客の視線を意識しているのか、身体の動きが大きい。
まるで本当にギターを持っているように見える。
理沙は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
演奏が終わる。
観客からばらばらの拍手が起きる。
理沙も手を叩いた。
男が顔を上げる。
理沙は、その顔を見て少し驚いた。
どこかで見た顔だった。
男も理沙を見て、少し目を細める。
視線が合う。
理沙は気づいた。
「白河」の店員だった。
あの、静かにグラスを磨いていた男。
店ではほとんど言葉を発しない、あの物静かな店員。
けれど、今目の前にいる男はまるで別人のようだった。
身体全体で音楽を表現している。
その姿は、店で見ていた彼とはまるで違っていた。
理沙は少し笑いながら、男の方へ歩いていった。
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