フロアの奥、スタッフ用の通路に近い位置から、彩名は店全体を眺めていた。
暗い店内では、テーブルごとに柔らかな光が落ちている。
グラスが触れ合う音、低く流れる音楽、客とキャストの笑い声。
それらが混ざり合い、「Shangri-la」の夜を形づくっていた。
その光景を見ながら、彩名は時々思い出す。
――自分が、見張られている側だった頃のことを。
当時のママは、客の前では穏やかな笑顔を絶やさない女性だった。
しかしバックヤードでは、別人のように鋭かった。
閉店後、名前を呼ばれて呼び出される。
誰もいない事務スペースの椅子に座らされ、短い言葉を投げられる。
「今日の接客、雑だったわね」
感情を荒げることはない。
それでも、その一言で十分だった。
あの頃の自分は、ただ必死だった。
この世界で生き残るために、必死で客の顔を覚え、言葉を覚え、立ち居振る舞いを覚えた。
その転機になったのが、阿久津光徳だった。
初めて会った時の印象は、拍子抜けするほど軽かった。
街角で声をかけてきたスカウトマン。
口調も態度も、どこにでもいそうな男だった。
「新しくできた店なんだけどさ。興味あったら、ちょっと見てみない?」
それが「Shangri-la」との出会いだった。
入店してからの毎日は、決して楽ではなかった。
むしろ、厳しかった。
新しい店だったとはいえ、すでに力を持っているキャストもいる。
新人の彩名は、何かにつけて冷たい扱いを受けた。
それでも辞めなかったのは、阿久津の言葉があったからだった。
ある日の閉店後、落ち込んでいる彩名に向かって、彼は言った。
「悔しいならさ。ナンバー1になって、見返せばいい」
冗談のような口調だった。
けれど、その言葉は妙に真っ直ぐだった。
それから彩名は、ただ働いた。
客の顔を覚え、会話を覚え、酒を覚え、夜の世界の流れを身体に叩き込んだ。
やがて、売り上げが少しずつ伸び始める。
そしてある月、彩名は店のナンバー1になった。
その報告を受けた時、阿久津は笑った。
まるで自分のことのように、嬉しそうに。
「やるじゃん」
それだけだった。
だがその時、彩名の胸の奥に、何かが芽生えた。
感謝と――
それとは少し違う、別の感情。
しかし、それが特別なものではないことを、彩名はすぐに理解した。
阿久津は、誰に対しても同じだった。
キャストの誰に対しても分け隔てなく接する。
誰か一人を特別扱いすることはない。
それが彼のやり方だった。
だから彩名は、その感情を口に出したことは一度もない。
ただ心の奥にしまったまま、
別の形に変えていった。
――仕事。
店を強くすること。
キャストをまとめること。
そして、いつかこの店の中心に立つこと。
そのために必要なことは、すべてやる。
彩名は静かにフロアを見渡した。
客の隣で笑っているキャスト。
グラスを運ぶ黒服。
ステージの上では、別のキャストが歌っている。
この場所を動かしているのは、誰なのか。
それを、いつか自分が決める側に立つ。
そのためには、越えなければならない壁があることも、彩名は理解していた。
その夜、営業が終わったあと。
控室へ戻ろうとしていた恵梨香を、彩名は呼び止めた。
「ちょっといい?」
キャストたちから少し離れ、店の奥にあるVIP席へ向かう。
店内の喧騒から切り離された、静かな空間。
彩名はソファに腰を下ろすと、恵梨香を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「少し、話そうか」
VIP席の空気が、わずかに変わった。
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