001_33_最終出勤日

営業終了後のミーティングで、オーナーが前に立った。
言葉は短かった。

「二号店の話、進んでます」

それだけで、空気が変わる。
具体的な場所は出なかった。ただ、東京の中心部とだけ言う。
十分だった。

誰もが、同じ方向を思い浮かべる。

規模の話はない。時期も曖昧だった。
一年後か、二年後か。
それでも、現実として置かれる。

店の中に、新しい軸ができる。
ざわめきは、長く続かなかった。すぐに収まる。

ママが前に出る。
視線が、全体をなぞる。

「募集は、近いうちに始める」

声は落ち着いている。

「スタッフも、キャストも」

一度、間を置く。

「ママは、ここから選ぶ」

それだけだった。
再び、空気が動く。
小さな声が重なる。視線が、交差する。

ママの目が、一瞬だけ止まる。
彩名の位置だった。

ほんの一拍。彩名は、その視線を受ける。
外さない。
それで終わる。
何も言わない。

ミーティングは、そこで区切られた。
人が動き出す。
いつもの流れに戻る。

その夜、帰り道で彩名が言った。

「少し寄ろう」

行き先は聞かない。

「白河」だった。

店に入ると、空いていた。
カウンターに並ぶ。

彩名は、最初からペースが速い。
グラスが空く。次が出る。
話が続く。

店のことではない。
先の話だった。
場所の話。形の話。やり方の話。

具体的ではない。
だが、止まらない。

店長に向かって、言葉を重ねる。

笑いが混じる。
声が少しだけ大きい。いつもより、明るい。

理沙は、少し離れた位置にいた。
グラスに触れながら、見ている。
隣に、湯浅がいる。同じ方向を見ている。

会話には入らない。
必要もなかった。

時間が過ぎる。
客が減る。
音が落ちる。
それでも、彩名は止まらない。

やがて、外に出る。
タクシーを止める。
ドアを開ける。彩名が乗る。

「また明日」

笑って言う。

理沙はうなずく。
ドアが閉まる。車が動く。尾灯が遠ざかる。
理沙は、その場に少しだけ立っていた。

そのあと、歩き出す。
そのまま帰るつもりだった。

途中で足を止める。
体に熱が残っている。頭も、少し重い。

駅を過ぎて、そのまま歩く。
方向を変える。海の方へ。

山下公園は、まだ暗かった。
人は少ない。
風が通る。

理沙は、小さな丘に上がる。

ベンチに座る。息を吐く。
冷たい空気が、体に入る。
少しだけ楽になる。

目を閉じない。遠くを見る。
さっきの光景が、残っている。

彩名の顔。
笑っていた。迷いは見えない。
先を見ている顔だった。

そのまま、思い出す。
言葉も、動きも。すべてが軽い。
重さが、ない。
それが、少しだけ引っかかる。

音が鳴る。
低く、長い。
港の方からだった。

理沙は顔を上げる。遠くの海上に、光が見える。
ゆっくりと、上がっていく。
一直線に。
夜の中を、抜ける。

今年から動き始めた設備だった。
説明を聞いたことがある。名前も知っている。
理沙は、それを見ていた。

目で追う。消えるまで。
空が、少しだけ薄くなる。時間が進む。
理沙は立ち上がる。

服の裾を払う。そのまま、歩き出す。

翌週。
営業が終わる。
ミーティングも終わる。

更衣室に入る。人は、いない。
彩名が先にいた。
着替えをしている。

理沙は、少しだけ待つ。

音が止まる。
そのタイミングで、口を開く。

「あたし」

声は、変わらない。

「今月末で、やめようと思ってる」

それだけだった。



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