002_04_Arisa-Misty

営業終了が近づいた「白河」は、いつものように静かだった。

カウンターの中では、湯浅がグラスを磨いている。
店内には、最後の客が残した煙草の匂いと、酒の甘い匂いが、まだ少し漂っていた。
理沙はカウンター席に座り、伏せたスマホをしばらく眺めていた。

「まだ返事してないんやろ」

湯浅が、グラスから目を離さずに言った。

「してない」

理沙は短く答えた。

「怪しいから?」

「それもあるけど」

理沙は、少し間を置いた。

「それだけじゃない」

湯浅は、それ以上急かさなかった。

音楽事務所「HALUCA」の小川という人物から、ダイレクトメッセージが届いてから数日が経っていた。
会って話をしたい。
内容としては、それだけだった。文章は丁寧で、妙に大げさなところもない。
怪しいとは言い切れない。けれど、すぐに信用できるほど単純な話でもなかった。

それ以上に、理沙には引っかかっていることがあった。

自分たちは、まだ何者でもない。
そんな感覚が、胸の奥に残っていた。

湯浅がギターを弾く。
フィリップがベースを弾く。
島崎がドラムを叩く。
理沙が歌う。

形だけなら、もうバンドだった。
名前もある。

Arisa-Misty。

けれど、その名前が決まった夜のことを思い出すと、理沙は今でも少しだけ複雑な気持ちになる。

最初に四人で「白河」に集まったのは、あのクリスマスのライブの翌月だった。
まだ正月気分が完全には抜けていない、1月の夜だった。
そのころ理沙は、まだ「Castel」で働いていた。
けれど心はもう、夜の店よりも、営業終了後に集まって音を鳴らす時間の方へ傾きかけていた。

その日も、店が閉まったあとの「白河」で、四人はだらだらと話していた。

バンドを続けるなら、名前が必要だ。
誰かがそう言い出した。
しばらく、どうでもいい案がいくつも出た。どれも悪くはない。けれど、どれも残らなかった。

そのとき、湯浅がふとつぶやいた。

「ありさ……」

理沙は顔を上げた。

「何よ」

「いや、ええ響きやなと思って」

「なにそれ?」

島崎が、眠そうな顔で聞いた。

「店での源氏名」

湯浅が答える。

「ありさ……あ、理沙!」

ふと思いついたように、フィリップが笑った。
理沙の表情は、その瞬間、はっきり険しくなった。

「それ、面白がってるでしょ」

「No, no. Good name. Really」

「軽い」

島崎がぼそっと言った。

「お前に言われたくない」と、フィリップが返す。

そこから、誰が言い出したのか分からないまま、Mistyという単語が後ろについた。

ありさ。
理沙。
少し霧がかったもの。
夜の歌。
見えそうで、見えないもの。

こじつけのような理由をいくつも並べているうちに、なぜかそれが一番しっくりきた。

Arisa-Misty。

バンド名は、そんなふうに自然発生的に決まった。

あの日から、もう半年近くになる。

「名前はあるんだけどね」

現在の「白河」で、理沙はぽつりと言った。
湯浅が顔を上げる。

「ん?」

「バンド名」

「ああ」

「でも、名前だけじゃだめでしょ」

湯浅は、磨いていたグラスを棚に戻した。

「代表曲が欲しい、って話?」

「そう」

理沙は、カウンターに肘をついた。

「Arisa-Mistyって言ったら、この曲、みたいなやつ」

「確かにな」

今に始まった話ではなかった。

「白河」に集まるたびに、これからの方向性については何度も話してきた。

ライブで何を歌うのか。
配信に何を出すのか。
自分たちは何を売りにしていくのか。

けれど、決定的なものはまだない。

「西日が差している」は、クリスマスのライブでは好評だった。けれど理沙の中では、まだ完成した曲ではなかった。

悪くはない。
でも、あれが自分たちの中心だとは思えない。

「小川って人に返事できないのも、そこなんだよね」

理沙は言った。

「先方を疑ってるのもある。でも、それだけじゃなくて」

「自信がない?」

湯浅が言った。
理沙は少し考えた。

「自信がないというか……説明できない」

「何を?」

「私たちが、何をやりたいのか」

湯浅は黙った。
その沈黙のあと、店の入口のドアが開いた。

「Sorry, late」

フィリップが入ってきた。
その後ろから、島崎が眠そうな顔で続く。

「同時に来ると、なんか負けた気がする」

「何に?」

理沙が聞く。

「分からない」

島崎はそう言って、いつもの席に座った。
営業終了時刻を過ぎると、店内は4人だけになった。

湯浅が看板の灯りを落とし、カウンターの中から酒とつまみを出す。
外の気配が遠ざかり、代わりに、店の奥に残った小さな音だけが聞こえるようになった。

最初のうちは、だらだらとした世間話だった。
フィリップが先日のライブハウスのスタッフの話をし、島崎が昼間の仕事の愚痴を言い、湯浅が時々短く突っ込む。
理沙はそれを聞きながら、何度か笑った。

酒が少し進むと、話題は自然と小川のメッセージに移った。

「So, HALUCA. Replyした?」

フィリップが聞いた。

「まだ」

理沙は答えた。

「Why?」

「だから、怪しいかもしれないでしょ」

「でも、Chance」

「チャンスかどうかも分からない」

島崎が、テーブルの上のナッツをつまみながら言った。

「小さい事務所なんだよね」

「小さいからダメとは限らんやろ」

湯浅が言う。

「それはそう」

島崎は頷いた。

「でも、こっちも何を見せるのか決まってない」

その言葉で、話はまた代表曲へ戻った。

全くネタがないわけではなかった。
フィリップが、思いつきで書いたというメモを見せた。
スマホを店の壁面プロジェクターにつなぐと、白い壁に英語混じりの歌詞らしき言葉が映し出された。

理沙はそれを眺めた。

荒い。
けれど、勢いはある。

労働。
退屈。
嘘みたいな会議。
誰のためか分からない資料。
上司の顔色。
満員電車。

その中に、ひときわ大きく、こう書かれていた。

<Bullshit job>

「クソどうでもいい仕事、ってこと?」

理沙が聞いた。

「Yes. Everyone knows. Everyone hates. Good rock theme」

フィリップは得意そうに言った。
島崎は壁を見たまま、少し顔をしかめた。

「その言葉が、なんだかウザい」

「Why?」

「強すぎるわりに、浅い」

フィリップの表情が変わった。

「Shallow?」

「うん。言いたいことは分かる。でも、それをそのまま言うと、なんか負けた感じがする」

「負け?」

「世の中に文句言ってるだけに聞こえる」

フィリップが英語で何か言い返そうとしたが、理沙が先に口を開いた。

「気持ちはすごく分かる」

フィリップは、少しだけ満足そうな顔になった。

「ほら」

「でも」

理沙は続けた。

「これを私が歌うかって言われると、ちょっと違う気がする」

フィリップの顔から、また笑みが消えた。
湯浅がグラスを置いた。

「そもそも、ロックってのは労働者階級の不満から生まれた歌やからな」

「じゃあ、これでいいじゃん」

フィリップが言った。

「でも、俺らがやりたいのは、正統派のロックなんか?」

湯浅は静かに返した。
そこで、4人は黙った。

理沙は壁に映った文字を見つめた。

確かに、不満はある。
怒りもある。
仕事のばかばかしさも、世の中の不公平さも、歌にしたいと思うことはある。

でも、それだけではない。

怒りだけを歌いたいわけではない。
慰めだけを歌いたいわけでもない。
きれいな夢だけを歌いたいわけでもない。

では、自分たちは何を歌いたいのか。
そこから先が、いつも分からなくなる。

議論は続いた。

フィリップは、もっとストレートな言葉が必要だと言った。
島崎は、ストレートすぎると安っぽくなると言った。
湯浅は、曲として成立するなら、言葉はあとからついてくることもあると言った。
理沙は、それでも最初に言葉が欲しいと思った。

誰も完全には間違っていなかった。
だから、余計にまとまらなかった。

目指す目的地は、たぶんどこかにある。
けれど4人は、そのまわりを人工衛星のように周回しているだけだった。なかなか着陸できない。
とりとめもない会話は、夜明け近くまで続いた。

やがて湯浅が、もう始発が動くころだと言った。

4人は店を出た。

朝の新宿は、夜の残り香と、これから始まる一日の匂いが混ざっていた。空は薄く白みはじめている。
駅へ向かう途中、フィリップと島崎は、また何かを言い合っていた。途中から英語になったので、理沙は聞くのをやめた。

朝の電車に乗ると、体の奥から眠気が上がってきた。
理沙はドアのそばに立ち、窓に映る自分の顔をぼんやり見た。

Arisa-Misty。

名前はある。
曲もある。
仲間もいる。

けれど、それが何なのかを、自分たちはまだうまく言葉にできない。
本当のところ、小川という人は、私たちの何を見たのだろう。

電車が揺れる。
理沙は吊り革につかまりながら、その問いだけを、ぼんやりと考え続けていた。



002_05へ