月に一度のワンマンライブの日だった。
理沙がはじめて湯浅たちのバンドに加わってから、これで6回目になる。
最初のころ、収容人100人ほどのライブハウスは、半分埋まればいい方だった。ステージに立つと、客席の奥に空いた椅子がいくつも見えた。
けれど、この日は違っていた。
開演前に舞台袖から客席をのぞくと、席は七割ほど埋まっていた。最前列には、前回も、その前も来ていた顔がいくつかある。
いつも同じ場所に座る女性2人組。
演奏が始まる前から、湯浅のギターケースを見て何か話している若い男。
後ろの方には、仕事帰りらしいスーツ姿の客もいた。
ようやく、コアなファンができてきたのかもしれない。
理沙はそう思った。
定刻になると、客席の照明が落ちた。
湯浅のギターが、最初のコードを鳴らす。フィリップのベースがそこに重なり、島崎のドラムが軽く走る。
理沙はマイクの前に立ち、息を吸った。
一曲目は、湯浅が作詞作曲したアップテンポの曲だった。理沙がバンドに加わって2回目のライブから、ずっと歌っている曲だ。
今ではもう、イントロが鳴っただけで前列の客が手を叩いてくれる。
そのあとも、同じくテンポの速い曲が2曲続いた。
ステージの熱が、少しずつ客席に広がっていく。
理沙の声に合わせて、手拍子がそろう。初めて来たらしい客も、前列の動きにつられて、ぎこちなく手を叩いていた。
3曲目が終わると、理沙はマイクスタンドに手を添えた。
「ありがとうございます。Arisa-Mistyです」
拍手が返ってくる。
まだ大きな歓声ではない。
それでも、前よりは確かに温かい。
理沙は短く息を整え、いつものように次の曲の話を始めた。
その途中で、ふと客席全体を見渡した。
最前列の顔。
中央のテーブル席。
壁際に立っている客。
ドリンクを持ったまま、こちらを見ている人。
その中に、1人だけ、空気の違う女性がいた。
一番後ろの壁際。
肩までの髪。
黒のビジネススーツ。
黒のスカート。
他の客に隠れて、胸から上くらいしか見えない。けれど、その立ち姿だけで、ライブを楽しみに来た客とは違うことが分かった。
手拍子をしているわけでもない。
酒を持っているわけでもない。
誰かと話しているわけでもない。
ただ、ステージの上の理沙を、まっすぐ見ていた。
一瞬、視線が合ったような気がした。
理沙は言葉の続きを、ほんの少しだけ見失いかけた。
けれども、すぐに笑顔を戻した。
「次の曲、いきます」
湯浅が小さく頷く。
島崎がスティックを構える。
フィリップが軽く肩を揺らす。
理沙は黒いスーツの女性のことを、いったん頭の隅へ追いやった。
ライブは、そのまま進んだ。
中盤で何曲か歌い、最後の方に「西日が差している」を入れた。
クリスマスライブのときから歌っている曲だった。
まだ理沙の中では完成していない。けれど、この曲を歌うと、客席の空気が少し静かになる。
騒ぐのではなく、聴いてくれている。
それは、理沙にも分かった。
最後のフレーズを歌い終えると、一拍遅れて拍手が起きた。それから音が大きくなり、ライブハウスの天井に広がった。
4人はいったんステージを降りた。
アンコールの声が続く。
まだぎこちない。
けれど、確かに声は増えていた。
理沙たちはもう一度ステージに戻り、2曲歌った。
最後の曲が終わると、湯浅が軽く頭を下げ、フィリップがベースを掲げ、島崎が眠そうな顔のまま客席に手を振った。
理沙もマイクを置き、深く一礼した。
今回も、悪くないライブだった。
終演後、最前列にいたファンが何人かステージ前まで来た。理沙は軽く言葉を交わし、握手をした。
「また来ます」
そう言ってくれる人がいた。
「ありがとうございます」
理沙は笑って答えた。
蛍の光が場内に流れ始める。
観客は少しずつ出口へ向かっていった。先ほどまで握手をしていた数名のファンも、名残惜しそうに振り返りながら、最後に外へ出ていく。
客席が空いていく。
椅子の隙間。
テーブルの上に残ったグラス。
床に落ちたチラシ。
照明の熱が少しずつ冷めていくステージ。
理沙は機材の片づけを始めながら、客席の一番後ろに目を向けた。
あの黒のビジネススーツの女性が、まだ立っていた。
今度は、はっきりと見えた。
肩までのナチュラルブラウンの髪。
黒のビジネススーツ。
黒のスカート。
ピンク色のハイヒール。
彼女は笑みを浮かべ、ステージの方へゆっくり歩いてきた。
フィリップが、片づけの手を止める。
島崎も顔を上げた。
湯浅はケーブルを巻きながら、黙ってその女性を見ている。
女性はステージのすぐ下まで来ると、理沙に向かって軽く一礼した。
「お疲れ様でした」
理沙は作業の手を止め、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
距離が近くなった瞬間、理沙は思った。
たぶん、この人だ。
先日のダイレクトメッセージの差出人。
「HALUCA」の小川という人物。
文章から受けた印象と、目の前にいる女性は、不思議なくらいずれていなかった。
落ち着いている。
派手ではない。
いかにも芸能関係者という雰囲気でもない。
むしろ、理沙が昼の仕事で何度も見てきた、普通の会社員の女性に近かった。
「小川と申します。あなたが理沙さん?」
「はい」
「メールでいきなり失礼しました。たぶん、どうしたらいいか迷ったでしょうね」
小川は、申し訳なさそうに笑った。
その言い方があまりにも自然だったので、理沙は少しだけ返答に困った。
「いえ、こちらこそ」
普段の仕事のときと同じような声が出た。
「なかなか返信できずに、こちらこそ大変失礼しました」
小川は小さく首を振った。
「当然だと思います。知らない事務所から急に連絡が来たら、警戒しますよね」
理沙は、その言葉に一瞬だけ黙った。
そこまで先に言われると、逆に何も言えなくなる。
理沙は少し離れたところにいる3人を手招きした。
「湯浅さん。フィリップ。島崎くん」
3人が近づいてくる。
「こちら、HALUCAの小川さん」
小川は、4人に一枚ずつ名刺を差し出した。
「小川美奈です。今日はライブを拝見させていただきました」
湯浅は名刺を両手で受け取った。
「湯浅です」
「フィリップ・ウィルコックスです」
フィリップは、いつもより少し発音のいい日本語で言った。
「島崎です」
島崎は、やけに背筋を伸ばしていた。
理沙もそうだったが、湯浅もフィリップも島崎も、みな緊張していた。
ライブハウスの片隅で、形式ばった名刺交換をしている。
それだけで、場違いなほど現実味があった。
最初の数分は、ぎこちない会話が続いた。
今日のライブの感想。
いつから活動しているのか。
配信サイトに上げている曲のこと。
月に一度のライブのこと。
小川は、質問の仕方が丁寧だった。
相手の言葉を途中で遮らない。
大げさに褒めない。
けれど、見ていないと分からないことを、ところどころで口にする。
「3曲目のあと、少し客席の空気が変わりましたね」
小川がそう言ったとき、理沙は思わず顔を上げた。
たしかに、自分もそれを感じていた。
徐々に緊張がほどけてきたころ、小川は少しだけ声の調子を変えた。
「この後、少し時間あります?」
自然な言い方だった。
強引ではない。
けれど、断る間を与えないような、妙な流れの作り方だった。
湯浅が理沙を見る。
フィリップも理沙を見る。
島崎も、なぜか理沙を見る。
理沙は内心でため息をついた。
結局、決めるのは私なのか。
「機材の片づけが終わってからでよければ」
理沙が答える。
「もちろんです」
小川はすぐに頷いた。
「出入口のあたりで待っています」
そう言うと、小川はまた軽く一礼し、ステージから離れていった。
4人は、しばらく無言だった。
それから、湯浅が何事もなかったようにケーブルを巻き始めた。
けれど、その手は少しだけ遅かった。
フィリップは落ち着かない様子で、意味のない鼻歌を歌い始めた。
いつもなら誰かに軽口を叩くところなのに、その日は言葉が出てこないらしい。
島崎は、ケースの中にスティックを入れようとして、なぜか別のポケットに入れかけていた。
「そこじゃない」
理沙が言うと、島崎ははっとした顔をした。
「分かってた」
「嘘」
理沙は短く返した。
そのやり取りで、フィリップが少し笑った。
湯浅も口元だけで笑った。
けれど、空気は軽くならなかった。
出入口の近くに、小川は静かに立っていた。
スマホを見るでもなく、誰かと話すでもなく、ただ待っている。
理沙は片づけを続けながら、ときどきその姿を見た。
落ち着いている。
丁寧で、普通に見える。
それでも、あの人がこのあと何を言うのかは分からない。
理沙はケーブルをまとめながら、胸の奥で警戒を解かなかった。
小川美奈は、どう切り込んでくるつもりなのだろう。
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