002_06_分岐点

後片づけが終わるころには、ライブハウスの中の熱も、ほとんど抜けていた。

機材をケースに収め、忘れ物がないことを確認する。
理沙たち4人は、小川美奈と一緒に店を出た。

外の空気は、少し湿っていた。
ライブハウスの中に残っていた音の余韻が、まだ耳の奥で小さく鳴っている。

小川は、歩きながら言った。

「この近くに、遅くまで開いているファミリーレストランがあります。そこで少しお話ししませんか」

断る理由は、もうなかった。
ライブハウスから数分歩いたところに、幹線道路沿いのファミリーレストランがあった。
夜遅い時間にもかかわらず、店内には仕事帰りらしい客や、学生のような若者たちが何組か残っている。

5人は窓際の席に案内された。

理沙は、小川の正面に座った。
湯浅は理沙の隣。
フィリップと島崎は向かい側に並ぶ。

全員、まだどこか落ち着かなかった。
メニューを開きながら、小川がさらりと言った。

「食事代は私が持ちます。なんでも注文してください」

その一言で、フィリップと島崎の表情が一変した。

「ありがとうございます!」

ほとんど同時だった。
湯浅まで、少しだけ目を輝かせている。

理沙は、呆れて言葉が出なかった。
さっきまで緊張していたのは、どこへ行ったのか。

「すみません。お気遣いいただいて」

理沙だけは、仕事のときと同じ調子で小川に頭を下げた。
小川は笑った。

「いえ。ライブのあとですし、皆さんお腹も空いているでしょうから」

その言い方は自然だった。
けれど、理沙は少しだけ思った。
この人は、こちらがどう反応するかも見ている。

やがて、テーブルの上に食事と飲み物が並んだ。
フィリップは迷わず肉料理を頼み、島崎は炭水化物ばかり選んだ。湯浅は少し遠慮したような注文をしていたが、結局ビールも頼んでいた。
理沙も、軽い食事と酒を頼んだ。
一方、小川が頼んだのは、ノンアルコールビールだった。

「飲まないんですか?」

フィリップが聞いた。

「今日は仕事ですから」

小川は、何でもないことのように答えた。
その一言で、理沙は改めて背筋を伸ばした。

場は和んでいる。
けれど、小川だけは崩れていない。
酒が入ると、3人の緊張は少しずつほどけていった。

会話は、バンド結成までの経緯から始まった。

クリスマスの夜のライブ。
理沙が予定外の形でステージに立ったこと。
そのあと、営業終了後の「白河」に集まるようになったこと。
バンド名が、理沙の源氏名から自然に決まってしまったこと。

小川は、静かに聞いていた。

相づちを打つ。
時々、短く笑う。
気になったところだけ、丁寧に質問する。

大げさに褒めることはなかった。
けれど、話のどこを面白がっているのかは、表情で分かった。

フィリップが少し調子に乗り、話を盛った。
島崎がそれをすぐに突っ込む。

「そこ、だいぶ違う」

「違わない。Drama is important」

「事実が重要」

「つまらない男だな」

「嘘つきよりはいい」

小川は、そこで声を上げて笑った。
理沙はすぐに2人を見た。

「小川さんの前で漫才しない」

「漫才じゃない」

島崎が言う。

「漫才じゃないのに面白いなら、もっと問題でしょ」

理沙が返すと、フィリップが笑った。

場はかなり砕けてきていた。
それでも理沙は、時々湯浅の方へ視線を向けた。

湯浅も同じだった。

笑ってはいる。
話にも乗っている。
けれど、完全には気を許していない。
そのことが分かって、理沙は少し安心した。

会話はやがて、「HALUCA」の話に移っていった。

小川は、自分たちの事務所がまだ大きくないことを隠さなかった。
社員も多くない。知名度も高くない。
けれど、これから新しい形でアーティストを育てていきたいと考えている。

「柴原も、皆さんにぜひ会いたいと言っていました」

小川がそう言ったところで、理沙は顔を上げた。

柴原勝。
HALUCAの社長。

理沙たちが事前に調べた限りでは、金融や投資の世界にいた人物だった。音楽畑の人間ではない。

「柴原さんは、私たちのどこに興味を持たれたんですか」

湯浅が、さりげなく聞いた。

声は柔らかい。
けれど、質問の芯ははっきりしていた。
小川は、少しだけ湯浅を見た。

「それは、柴原本人から聞いていただいた方がいいと思います」

軽くかわされた。
湯浅は、それ以上追わなかった。

理沙は、小川の表情を見ていた。
笑顔は変わっていない。
でも、答えられることと答えないことの線引きが、はっきりしている。

やっぱり、何かある。
そう思った。

小川は少し姿勢を正した。

「柴原の都合で恐縮なのですが、次の土曜日、13時にお時間をいただけないでしょうか。場所はHALUCAのオフィスです」

3人の視線が、理沙に集まった。

また私か。

理沙はそう思ったが、顔には出さなかった。

小川は、急かさなかった。
ただ静かに、理沙の返事を待っている。

理沙は少し考えた。

怪しいところはある。
けれど、ここで逃げる理由もない。
何より、自分たちの何を見たのかを、理沙自身が知りたくなっていた。

「分かりました」

理沙は頷いた。

「私も、柴原さんのお考えを聞きたくなりました」

小川は、少しだけ表情を緩めた。

「ありがとうございます」

そのあと、土曜日の時間と場所を確認し、簡単な連絡先を交換した。
気がつけば、もう日付が変わろうとしていた。

店を出ると、小川はタクシーを呼んだ。
別れ際、彼女は思い出したように言った。

「当日は、もう一人の方にも来ていただく予定です」

理沙は、その言葉を聞いていた。
聞いていたはずだった。
けれど、疲れと緊張で、意味まではうまく入ってこなかった。

「では、土曜日に」

小川は軽く一礼し、タクシーに乗り込んだ。
車のテールランプが、幹線道路の流れの中に消えていく。

そのあと、4人は駅の近くの居酒屋に入った。

反省会だった。
最初の十分間は、ほとんど理沙の説教だった。

「食べ物で買収されるなんて最低」

理沙は、テーブルの向こうの3人を順番に見た。
フィリップは、目をそらした。

「買収じゃない。Hospitality」

「都合のいい英語を使わない」

島崎は、焼き鳥の皿を見つめていた。

「でも、奢りって言われたら、普通うれしい」

「嬉しそうにしすぎ」

湯浅は黙ってビールを飲んでいた。

「湯浅さんもです」

「俺も?」

「目が輝いてました」

「……気のせいや」

「気のせいじゃありません」

ようやく理沙の説教が一段落すると、湯浅が真面目な顔になった。

「で、本題やけど」

空気が少し変わった。

「柴原社長の本音をどうやって聞き出すか、やな」

理沙は頷いた。

「小川さん、そこは答えなかったね」

「軽くかわされたな」

湯浅は言った。

「でも、答えたくないというより、本人から言わせたいって感じにも見えた」

島崎がぽつりと言った。

「柴原って人、ほんとに音楽分かるのかな」

フィリップが肩をすくめる。

「Money guy, right?」

「金融出身だからって、音楽が分からないとは限らない」

理沙は言った。

「でも、普通の音楽事務所の社長とは違うのかも」

しばらく、4人は黙った。

小川は丁寧だった。
感じも悪くなかった。
少なくとも、安っぽい詐欺師には見えなかった。

けれど、だからといって安全だとは限らない。

「やっぱり、何かありそう」

理沙が言うと、フィリップがすぐに反応した。

「Human trafficking?」

「まだ言うの」

島崎が呆れた声を出す。

「Criminal scout?」

「フィリップ、黙って」

理沙は否定も肯定もしなかった。
笑い飛ばしたい気持ちもある。
でも、完全には笑えない。

理沙は、グラスの中の氷を見つめた。

「ある意味、ここが運命の分かれ道かも」

口にしてから、自分でも少し大げさだと思った。
けれど、間違っているとも思わなかった。

HALUCAに行く。
柴原勝に会う。

その先で、何かが変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
でも、もう何もなかったことにはできない。

そのとき、島崎が思い出したように言った。

「そういえば」

3人が島崎を見る。

「あともう一人来るって言ってたよね」

理沙は顔を上げた。

「え?」

「小川さん。別れ際に。もう一人の方にも来ていただく予定です、って」

フィリップが頷いた。

「言ってた」

湯浅も小さく頷く。

「言ってたな」

理沙には、その言葉の記憶がほとんどなかった。
聞いたはずなのに、頭の中をすり抜けていた。

「もう一人って……」

島崎は、何気ない顔で言った。

「いったい、どんなアーティストなんだろう?」

理沙は、箸を持つ手を止めた。

少し遅れて、その言葉の意味が胸に落ちてくる。

「……今、何て言った?」

島崎は、きょとんとした顔で理沙を見た。



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