<ありがとうございます。では、来週土曜日にお会いできるのを楽しみにしています>
まりあは、そのメッセージをじっと眺めていた。
返信したのは自分だった。
送信ボタンを押したのも、自分だった。
それなのに、画面に表示された小川からの返事を見ていると、少しだけ落ち着かない気持ちになった。
まるで、深夜に勢いで何かを注文して、翌朝になってから確認メールを見ているような気分だった。
HALUCAの小川に返信をしてから、話は一気に進んだ。
来週土曜日。
午後一時。
HALUCAのオフィス。
柴原社長との面談。
予定は、あっという間に決まってしまった。
さらに、小川からは追伸が届いていた。
<当日は、柴原とのお話のあと、もしよろしければ、まりあさんの持ち歌を一曲お聴かせいただけますでしょうか。代表的な曲をご用意いただければと思います>
まりあは、その一文を何度か読み返した。
代表的な曲。
配信サイトに置いてある曲の中で、一番ダウンロード数が多いものを選べばいいのかもしれない。
小川も柴原も、おそらくそれはもう聴いているだろう。
それでも、生で聴きたいということなのだと思う。
けれど、すぐに決める気にはなれなかった。
これぞという曲を持っていった方がいいのだろうか。
それとも、配信サイトには置いていない、もっと自分に近い曲の方がいいのだろうか。
まりあは、スマホとノートパソコンをテーブルの上に並べた。
フォルダを開く。
作りかけの詩。
途中で止まったメロディ。
仮タイトルだけのファイル。
録音したまま、誰にも聴かせていない歌。
未完成のものは、山のようにあった。
ひとつずつ開いていくうちに、まりあは小川のことも、HALUCAのことも、少しずつ忘れていった。
古いファイルの中には、今見ると恥ずかしいほど真っすぐな言葉もあった。
逆に、何を言いたかったのか、自分でも分からないものもあった。
けれど、どの言葉の奥にも、そのときの自分がいた。
学生のころ、試験勉強の合間に書いた短いメモ。
就職が決まった日の夜に、眠れなくなって書いた言葉。
夜勤明けの電車の中で、画面を見ないまま打った詩の断片。
母の写真の前で、泣いたあとに残した一行。
父親の記憶は、ほとんどなかった。
物心がつくころには、もう家にはいなかった。
母は父のことを悪く言わなかった。
けれど、詳しく話すこともなかった。
だから、まりあにとって家族の記憶は、ほとんど母との記憶だった。
朝、起こしてくれた声。
弁当箱を包む手。
試験の日に、何も言わずに置かれていた温かいお茶。
就職が決まったとき、少しだけ泣いた顔。
母は、まりあを大事に育ててくれた。
大学を卒業し、就職して、これからはようやく、2人で少し楽に暮らせる。
まりあは、そう思っていた。
けれど、その母は2年前に亡くなった。
それから、言葉を書き留めることが少し増えた。
誰かに見せるためというより、忘れないためだった。
いや、忘れないためというより、自分の中で消えてしまわないようにするためだった。
母の笑顔。
勉強ばかりしていた日々。
たまに友人と出かけた夜。
うまく実らなかった恋のこと。
何でもない朝。
何も起こらなかった一日。
そういうものが、詩や曲の断片の中に、少しずつ残っていた。
まりあは、いつの間にか時間を忘れていた。
昼食のあと、少しだけ見るつもりだった。
けれど、気がつくと部屋の光は変わっていた。
窓の外では、日が沈みかけている。
カーテンの端が、夕方の色に染まっていた。
そのとき、古いフォルダの中にある一つのファイルが目に留まった。
タイトルは、「誰のために歌うわけでもなく」
はじめて作った、曲らしい曲だった。
短い曲だった。
音も、言葉も、今聴けば拙い。
どんな出来事がきっかけで作ったのかは、はっきり思い出せなかった。
それでも、再生ボタンを押した瞬間、まりあは手を止めた。
小さな音で、自分の声が流れ始める。
今より少しだけ幼い声。
うまく歌おうとしているのに、ところどころ力が抜けている。
伴奏も単純で、録音状態もよくない。
けれど、その歌は、とても素朴だった。
何かを証明しようとしていない。
誰かに認められようともしていない。
ただ、そのときの自分が、そこにいる。
画面には、歌詞のメモが残っていた。
<うまく言えないけれど、生きてるってそれだけで歌になる>
まりあは、しばらくその一行を見つめた。
派手ではない。
完成度が高いわけでもない。
代表曲と呼べるほど、整っているとも思えない。
でも、変わっていないものがあるとしたら、たぶんここにある。
まりあは画面から視線をそらし、天井を見上げた。
柴原社長がどう思うかは分からない。
小川が期待している曲かどうかも分からない。
それでも、今の自分が持っていくなら、この曲がいい。
まりあは、もう一度、画面に表示されたタイトルを見た。
「誰のために歌うわけでもなく」
この曲にしようと、まりあは思った。
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