002_07_変わらないもの

<ありがとうございます。では、来週土曜日にお会いできるのを楽しみにしています>

まりあは、そのメッセージをじっと眺めていた。

返信したのは自分だった。
送信ボタンを押したのも、自分だった。

それなのに、画面に表示された小川からの返事を見ていると、少しだけ落ち着かない気持ちになった。
まるで、深夜に勢いで何かを注文して、翌朝になってから確認メールを見ているような気分だった。

HALUCAの小川に返信をしてから、話は一気に進んだ。

来週土曜日。
午後一時。
HALUCAのオフィス。
柴原社長との面談。

予定は、あっという間に決まってしまった。
さらに、小川からは追伸が届いていた。

<当日は、柴原とのお話のあと、もしよろしければ、まりあさんの持ち歌を一曲お聴かせいただけますでしょうか。代表的な曲をご用意いただければと思います>

まりあは、その一文を何度か読み返した。

代表的な曲。
配信サイトに置いてある曲の中で、一番ダウンロード数が多いものを選べばいいのかもしれない。
小川も柴原も、おそらくそれはもう聴いているだろう。
それでも、生で聴きたいということなのだと思う。

けれど、すぐに決める気にはなれなかった。

これぞという曲を持っていった方がいいのだろうか。
それとも、配信サイトには置いていない、もっと自分に近い曲の方がいいのだろうか。

まりあは、スマホとノートパソコンをテーブルの上に並べた。

フォルダを開く。

作りかけの詩。
途中で止まったメロディ。
仮タイトルだけのファイル。
録音したまま、誰にも聴かせていない歌。

未完成のものは、山のようにあった。
ひとつずつ開いていくうちに、まりあは小川のことも、HALUCAのことも、少しずつ忘れていった。

古いファイルの中には、今見ると恥ずかしいほど真っすぐな言葉もあった。
逆に、何を言いたかったのか、自分でも分からないものもあった。
けれど、どの言葉の奥にも、そのときの自分がいた。

学生のころ、試験勉強の合間に書いた短いメモ。
就職が決まった日の夜に、眠れなくなって書いた言葉。
夜勤明けの電車の中で、画面を見ないまま打った詩の断片。
母の写真の前で、泣いたあとに残した一行。

父親の記憶は、ほとんどなかった。

物心がつくころには、もう家にはいなかった。
母は父のことを悪く言わなかった。
けれど、詳しく話すこともなかった。

だから、まりあにとって家族の記憶は、ほとんど母との記憶だった。

朝、起こしてくれた声。
弁当箱を包む手。
試験の日に、何も言わずに置かれていた温かいお茶。
就職が決まったとき、少しだけ泣いた顔。

母は、まりあを大事に育ててくれた。

大学を卒業し、就職して、これからはようやく、2人で少し楽に暮らせる。
まりあは、そう思っていた。
けれど、その母は2年前に亡くなった。

それから、言葉を書き留めることが少し増えた。

誰かに見せるためというより、忘れないためだった。
いや、忘れないためというより、自分の中で消えてしまわないようにするためだった。

母の笑顔。
勉強ばかりしていた日々。
たまに友人と出かけた夜。
うまく実らなかった恋のこと。
何でもない朝。
何も起こらなかった一日。

そういうものが、詩や曲の断片の中に、少しずつ残っていた。

まりあは、いつの間にか時間を忘れていた。
昼食のあと、少しだけ見るつもりだった。
けれど、気がつくと部屋の光は変わっていた。

窓の外では、日が沈みかけている。
カーテンの端が、夕方の色に染まっていた。

そのとき、古いフォルダの中にある一つのファイルが目に留まった。

タイトルは、「誰のために歌うわけでもなく」

はじめて作った、曲らしい曲だった。

短い曲だった。
音も、言葉も、今聴けば拙い。

どんな出来事がきっかけで作ったのかは、はっきり思い出せなかった。

それでも、再生ボタンを押した瞬間、まりあは手を止めた。
小さな音で、自分の声が流れ始める。

今より少しだけ幼い声。
うまく歌おうとしているのに、ところどころ力が抜けている。
伴奏も単純で、録音状態もよくない。
けれど、その歌は、とても素朴だった。

何かを証明しようとしていない。
誰かに認められようともしていない。
ただ、そのときの自分が、そこにいる。

画面には、歌詞のメモが残っていた。

<うまく言えないけれど、生きてるってそれだけで歌になる>

まりあは、しばらくその一行を見つめた。

派手ではない。
完成度が高いわけでもない。
代表曲と呼べるほど、整っているとも思えない。

でも、変わっていないものがあるとしたら、たぶんここにある。

まりあは画面から視線をそらし、天井を見上げた。

柴原社長がどう思うかは分からない。
小川が期待している曲かどうかも分からない。

それでも、今の自分が持っていくなら、この曲がいい。
まりあは、もう一度、画面に表示されたタイトルを見た。

「誰のために歌うわけでもなく」

この曲にしようと、まりあは思った。



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