土曜日の午後、空はよく晴れていた。
幹線道路から少し外れた、静かなオフィス街に「HALUCA」の事務所はあった。
平日なら会社員の出入りがあるのだろうが、土曜日の昼過ぎの通りは、人影が少なかった。
古すぎるわけでも、新しすぎるわけでもない中規模のビル。
その4階の窓際に、小さく「HALUCA」と書かれた看板が見えた。
約束の時刻の5分前に、理沙たちはビルの前に到着した。
理沙。
湯浅。
フィリップ。
島崎。
4人とも、普段のライブ後のだらけた雰囲気とは違って、どこかぎこちなかった。
小川からの事前の指示通り、理沙は到着したことをショートメッセージで伝えた。
送信してから、一分もしないうちだった。
理沙たちが歩いてきたのと同じ方向から、一人の女性がこちらへ向かってきた。
背の高さは、理沙と同じくらいだった。
白っぽいTシャツに、ジーンズ。
髪は短く、黒い。
手にはスマホを持っている。
派手さはなかった。
どちらかといえば、街の中に溶け込んでしまいそうな人だった。
けれど、なぜか理沙の目には残った。
表情が暗いというわけではない。
ただ、少し疲れているようにも見える。
それでいて、目だけは妙に静かだった。
その女性は、理沙たちから数メートル離れたところで立ち止まり、スマホを操作し始めた。おそらく、誰かに到着を知らせているのだろう。
ふと、理沙と視線が合った。
一瞬、互いに何も言わなかった。
理沙はなんとなく、ビルの4階を指さした。
「HALUCA」の看板がある場所だ。
女性はそちらを見上げたあと、理沙の方を見て、小さく笑った。
そして、軽く頷いた。
同じ場所に呼ばれた人なのだと、その仕草だけで分かった。
ちょうどそのとき、目の前のビルの玄関から小川美奈が出てきた。
先日ライブハウスで会ったときの黒いビジネススーツではなく、今日はTシャツにスカートというラフな格好だった。
それでも、落ち着いた雰囲気は変わらない。
「お待たせしました」
小川が言った。
理沙たち4人は、妙に気合の入った声で挨拶した。
「本日はよろしくお願いします」
4人の声が、少しそろいすぎた。
小川は一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
一方、理沙の近くに立っていた女性は、少し遅れて頭を下げた。
けだるそうというより、まだ声が目覚めきっていないような調子だった。
「よろしくお願いします」
小川は、その女性の方を向いた。
「あなたが、片岡さん?」
「はい」
女性は小さく頷いた。
小川とは初対面のようだった。小川は名刺を差し出し、短く自己紹介をする。
片岡と呼ばれた女性は、両手でそれを受け取り、少し緊張したように頭を下げた。
理沙は、その様子を横から見ていた。
自分たちと同じく、彼女も今日ここへ呼ばれた。
けれど、バンドではない。
一人で来ている。
どんな歌を歌う人なのだろう。
ふと隣を見ると、フィリップが理沙の方を見ていた。
そして、なぜか小さく親指を立てた。
意味は、だいたい想像できた。
理沙は無言で、ほんの少し目を細めた。
フィリップの親指は、すぐに下がった。
小川と片岡の短い挨拶が終わると、一同はビルの玄関に入った。
エレベーターは狭かった。
6人で乗ると、息が詰まりそうになる。
誰も大きな声では話さなかった。
フィリップが何か言いたそうにしていたが、理沙が視線だけで制した。
島崎は階数表示をじっと見ている。湯浅は黙って腕を組んでいた。
片岡は、エレベーターの隅で、スマホを持った手を前にそろえていた。
疲れているようにも、緊張しているようにも見えた。
4階に着くと、扉が開いた。
目の前に、「HALUCA」と書かれた事務所のドアがあった。
小川が鍵を開け、中へ案内する。
広くはなかった。
けれど、清潔なオフィスだった。
空調はほどよく効いている。
白い壁。
いくつかのテーブル席。
向かって左側には、応接コーナー。
奥には、理沙が昼の職場で見慣れているような、システムエンジニア風の男女が3人、ノートパソコンに向かっていた。
音楽事務所というより、小さなIT企業のようにも見える。
理沙は、少しだけ意外に思った。
そして、窓際のテーブルに、一人の男が座っていた。
白いシャツに、グレーのジャケット。
黒いズボン。
年齢は五十代くらい。
姿勢がよく、座っているだけで、そこが彼の席だと分かるような雰囲気があった。
男はノートパソコンの画面を見ていたが、理沙たちが入ってきたことに気づくと、すぐに視線を上げた。
そして、笑顔になって立ち上がった。
「ようこそ、HALUCAへ。皆さんを歓迎します」
まだ契約したわけではないのに。
理沙は内心でそう思った。
けれど、男の言い方には、押しつけがましさはなかった。
当然のように相手を迎え入れる、経営者らしい声だった。
「こちらへどうぞ」
男に手招きされ、理沙たちは応接コーナーへ向かった。
「私が柴原です。暑い中、わざわざ来ていただいてありがとうございます」
柴原は、一人ずつ名刺を差し出した。
理沙は両手で受け取った。
縦長の名刺だった。
そういう名刺を受け取るのは、「Castel」以来久しぶりだった。
テーブルを挟んで、理沙たち4人と片岡が並んで座る。
正面に柴原。
少し遅れて、小川がアイスコーヒーのグラスを運んできた。
グラスがテーブルに並ぶと、小川は柴原の隣に座った。
まずは、柴原が簡単に自己紹介をした。
続いて小川が、今日の流れを説明する。
そのあと、理沙たちの自己紹介になった。
「大嶋理沙です。Arisa-Mistyではヴォーカルを担当しています」
理沙が最初に名乗る。
続いて、湯浅がギター担当として挨拶し、フィリップがベース、島崎がドラムと、それぞれ簡単に自己紹介した。
最後に、片岡の番になった。
理沙は、自然と彼女の方を見た。
今日、事務所の前で初めて会った女性。
控えめで、少し疲れているようにも見える女性。
けれど、目だけが静かに残る人。
その人が、どんな歌を歌うのか。
理沙は、自分でも思った以上に気になっていた。
片岡は、小さく頭を下げた。
「片岡まりあです」
声は大きくなかった。
けれど、思ったよりもはっきりしていた。
さっきビルの前で会ったときより、表情が少し明るくなっているように見えた。
少し間を置いて、片岡は続けた。
「実は、ロシア人と日本人のハーフなんです」
その一言で、理沙の中の印象が少し変わった。
目の前の控えめな女性の輪郭の奥に、今まで見えていなかったものがある気がした。
「なので、エレーナってミドルネームもあります」
隣で、誰かが小さく息をのんだ。
「Wow……」
フィリップだった。
理沙は、すぐに横を見た。
フィリップは、分かりやすいほど満面の笑顔になっていた。
理沙が鋭い視線を向けると、その笑顔は一瞬で消えた。
目の前に座っていた小川が、鼻で小さく笑った。
片岡まりあは、そのやり取りに気づいているのかいないのか、少し困ったように笑っていた。
そのあと、しばらくの間、柴原の話が続いた。
金融会社に勤めていたこと。
その後、外資系の投資会社で働いたこと。
いくつかの企業投資案件に関わったこと。
理沙たちは、事前に柴原のプロフィールを調べていた。
だから、大きく目新しい話はなかった。
ただ、一つだけ、初めて聞く話があった。
「実は、学生時代に少しだけバンドをやっていましてね」
柴原は、少し照れたように笑った。
「当時は本気で音楽で食べていけると思っていました。若かったんでしょう」
その言葉に、湯浅が少しだけ反応した。
フィリップも身を乗り出しかけたが、理沙に見られて姿勢を戻した。
音楽事務所を立ち上げたきっかけは、それだったのかもしれない。
理沙は、ふと思った。
柴原の雑談は、30分近く続いた。
話し方は理路整然としている。
無駄に偉そうではない。
けれど、相手の反応を見ながら、場の主導権は確実に握っている。
小川とは違うやり方だった。
けれど、似ているところもあった。
この人も、こちらを見ている。
理沙はそう感じた。
やがて柴原は、アイスコーヒーのグラスをテーブルに置いた。
「さて」
その一言で、場の空気が少し変わった。
「こんな畑違いの私が、なぜこんな事業を始めたのか、と思われたかもしれませんが」
柴原は、理沙たちとまりあをゆっくり見渡した。
「今日はまず、その話からさせてください」
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