003_08_ささやかな幸せ(1)

 夜勤明けに、あの自販機コーナーへ寄ることが増えた。

 最初は、ただコーヒーを買うためだった。

 新しい監視制御センターでの作業を終え、二つ上のフロアへ上がる。ブラックコーヒーを一杯買い、それを飲んでからバスに乗る。

 いつの間にか、それが夜勤明けの習慣になっていた。

 カーリーがいる日もあった。

 いない日もあった。

「おはよう、リサ」

「おはよう」

 それだけの日もある。

「昨日のテスト、どうだった?」

「3つ引っかかった」

「3つだけ?」

「3つも」

 カーリーが笑う。

 そんな短いやり取りだけで、それぞれ自分の仕事へ戻っていくこともあった。

     *

 現行センター側との確認事項があると、理沙は作業リーダーについてオペレーションフロアへ行った。

 コンソールの間を歩いていると、少し離れたところにカーリーがいる。

 端末を見ながら、別の担当者と何か話していた。

 視線が合う。

 カーリーがほんの少し顎を上げる。

 理沙も同じように返す。

 それだけだった。

 仕事中にわざわざ話しかける必要はない。

 それでも、不思議とそこに知っている顔があるだけで、以前とは少し違って見えた。

     *

 二週間ほど経つころには、話す内容も仕事だけではなくなっていた。

「休みの日、何してるの?」

 カーリーが聞いた。

「歩いてる」

「歩いてる?」

「まだ知らないところ多いから」

「観光?」

「最初はね。最近はスーパー探したり」

「すごく現実的になったね」

「生活してるから」

 理沙がそう答えると、カーリーは声を立てて笑った。

 別の日には、食事の話になった。

「いつも自分で作ってるの?」

「だいたい」

「何作る?」

「適当」

「それ料理の名前じゃない」

「野菜と肉を炒めれば、だいたい食べられるから」

「それは分かる」

 そんな話をしているうちに、時計を見る。

「あ、戻らなきゃ」

「私も帰る」

「じゃあまた」

「またね」

 何か約束をしているわけではない。

 次の日に会えるとも限らない。

 それでも、また数日後には同じ場所で顔を合わせた。

     *

 疲れている朝もあった。

 その日は理沙もカーリーもほとんど喋らなかった。

 理沙は壁際の椅子に座り、コーヒーを飲んでいた。

 隣ではカーリーがスマートフォンを見ている。

 何度か画面をスクロールする。

 理沙も自分の端末を見る。

 求人情報を確認するほどの気力はなく、天気予報だけを眺めた。

 数分間、二人とも何も言わなかった。

 それでも、気まずくはなかった。

 カーリーがコーヒーを飲む。

 理沙も飲む。

 自販機の内部で、次の客のカップが落ちる音がした。

 それだけだった。

 理沙は、こういう時間も悪くないと思った。

     *

 いつ連絡先を交換したのか、後から考えるとはっきりしなかった。

 たぶん、勤務時間が変わるという話をしていたときだった。

「じゃあ、一応送っとくね」

「うん」

 それだけの流れだった。

 カーリーのスマートフォンが理沙の手元に近づいた。

 連絡先を登録する。

 そのとき、画面の背景に写真が表示された。

 カーリーと、小さな女の子。

 女の子はカーリーに抱きつくようにして笑っていた。

 どことなく雰囲気が似ている。

 理沙の視線に気づいたのか、カーリーも画面を見た。

「ああ、この子?」

 笑った。

「今、四歳。娘よ」

「娘さんなんだ」

「うん。一緒に住んでる」

「似てるね」

「そう?」

「目が」

 カーリーは少しだけ嬉しそうな顔をした。

「本人に言ったら喜ぶかも」

 それ以上、理沙は聞かなかった。

 カーリーも詳しく説明しなかった。

 ただ、これまで職場でしか知らなかった彼女に、もう一つ別の生活があることだけは分かった。

     *

 それからは、時々カーリーからメッセージが届くようになった。

 仕事に関係することもある。

 まったく関係のないこともあった。

 ある日の夜勤中、休憩に入った理沙がスマートフォンを見ると、新しいメッセージが表示されていた。

 カーリーからだった。

 <娘が熱出しちゃって、今日はお休み>

 理沙は画面を見つめた。

「……そんなことまで報告するんだ」

 誰にも聞こえない声で呟いた。

 少し考える。

 返信欄を開いた。

 <おだいじに。無理しないで>

 送信。

 画面を閉じる。

 それだけだった。

 なのに、なぜか少し気になった。

 熱は高いのだろうか。

 食事はできているのか。

 そんなことを考えながら、理沙は仕事へ戻った。

     *

 数日後。

 いつもの自販機コーナー。

「もう大丈夫なの?」

 理沙が聞いた。

「娘?」

「うん」

「翌日には走り回ってた」

「子供ってすごいね」

「ほんと。こっちが先に倒れる」

 カーリーは笑った。

 理沙も笑う。

 少し間が空いた。

「そういえば」

 カーリーが言った。

「リサって、休みの日も一人で食べてるの?」

「まあ」

「外で?」

「家」

「自分で作って?」

「そう」

「毎回?」

「だいたい」

 カーリーは少し考えるような顔をした。

「今度、うち来る?」

「え?」

「ご飯」

 理沙は一瞬、返事に困った。

「いや、でも……」

「何?」

「娘さんもいるんでしょ」

「いるよ」

「邪魔じゃない?」

「なんで?」

 カーリーが不思議そうな顔をした。

「娘もいるし、たいしたもの作らないから。気にしなくていいよ」

「そういう問題?」

「そういう問題」

 カーリーは当然のように言った。

 理沙はコーヒーを一口飲んだ。

 断る理由を探してみる。

 特に思いつかなかった。

「……じゃあ、お邪魔しようかな」

「決まり」

 カーリーが笑った。

 その場で二人の勤務予定を確認した。

 ちょうど週末に、二人とも休みになる日があった。

「じゃあ、その日」

「うん」

 待ち合わせの時間と場所を決める。

 理沙は自分のスマートフォンへ入力した。

     *

 その日の帰り。

 バスの窓から、朝の街を眺めていた。

 いつもの道だった。

 いつもの建物。

 いつもの交差点。

 少し前なら、どこを見ても知らない場所だった。

 今では、曲がり角の先に何があるのかくらいは分かる。

 仕事場がある。

 よく行くスーパーがある。

 自分の部屋がある。

 そして週末には、知り合ったばかりの女性の家へ食事に行く。

 理沙は窓に頭を預けた。

 友達。

 その言葉が頭をよぎった。

 まだ、わざわざそう呼ぶ必要もない気がした。

 けれど、少なくとももう、ただの同僚ではなかった。

 理沙はスマートフォンを開いた。

 予定表に入れた週末の日付を見る。

 それから画面を閉じた。

 口元が少しだけ緩んだ。

 ロサンゼルスへ来てから、こういう予定が入ったのは初めてだった。



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