夜勤明けに、あの自販機コーナーへ寄ることが増えた。
最初は、ただコーヒーを買うためだった。
新しい監視制御センターでの作業を終え、二つ上のフロアへ上がる。ブラックコーヒーを一杯買い、それを飲んでからバスに乗る。
いつの間にか、それが夜勤明けの習慣になっていた。
カーリーがいる日もあった。
いない日もあった。
「おはよう、リサ」
「おはよう」
それだけの日もある。
「昨日のテスト、どうだった?」
「3つ引っかかった」
「3つだけ?」
「3つも」
カーリーが笑う。
そんな短いやり取りだけで、それぞれ自分の仕事へ戻っていくこともあった。
*
現行センター側との確認事項があると、理沙は作業リーダーについてオペレーションフロアへ行った。
コンソールの間を歩いていると、少し離れたところにカーリーがいる。
端末を見ながら、別の担当者と何か話していた。
視線が合う。
カーリーがほんの少し顎を上げる。
理沙も同じように返す。
それだけだった。
仕事中にわざわざ話しかける必要はない。
それでも、不思議とそこに知っている顔があるだけで、以前とは少し違って見えた。
*
二週間ほど経つころには、話す内容も仕事だけではなくなっていた。
「休みの日、何してるの?」
カーリーが聞いた。
「歩いてる」
「歩いてる?」
「まだ知らないところ多いから」
「観光?」
「最初はね。最近はスーパー探したり」
「すごく現実的になったね」
「生活してるから」
理沙がそう答えると、カーリーは声を立てて笑った。
別の日には、食事の話になった。
「いつも自分で作ってるの?」
「だいたい」
「何作る?」
「適当」
「それ料理の名前じゃない」
「野菜と肉を炒めれば、だいたい食べられるから」
「それは分かる」
そんな話をしているうちに、時計を見る。
「あ、戻らなきゃ」
「私も帰る」
「じゃあまた」
「またね」
何か約束をしているわけではない。
次の日に会えるとも限らない。
それでも、また数日後には同じ場所で顔を合わせた。
*
疲れている朝もあった。
その日は理沙もカーリーもほとんど喋らなかった。
理沙は壁際の椅子に座り、コーヒーを飲んでいた。
隣ではカーリーがスマートフォンを見ている。
何度か画面をスクロールする。
理沙も自分の端末を見る。
求人情報を確認するほどの気力はなく、天気予報だけを眺めた。
数分間、二人とも何も言わなかった。
それでも、気まずくはなかった。
カーリーがコーヒーを飲む。
理沙も飲む。
自販機の内部で、次の客のカップが落ちる音がした。
それだけだった。
理沙は、こういう時間も悪くないと思った。
*
いつ連絡先を交換したのか、後から考えるとはっきりしなかった。
たぶん、勤務時間が変わるという話をしていたときだった。
「じゃあ、一応送っとくね」
「うん」
それだけの流れだった。
カーリーのスマートフォンが理沙の手元に近づいた。
連絡先を登録する。
そのとき、画面の背景に写真が表示された。
カーリーと、小さな女の子。
女の子はカーリーに抱きつくようにして笑っていた。
どことなく雰囲気が似ている。
理沙の視線に気づいたのか、カーリーも画面を見た。
「ああ、この子?」
笑った。
「今、四歳。娘よ」
「娘さんなんだ」
「うん。一緒に住んでる」
「似てるね」
「そう?」
「目が」
カーリーは少しだけ嬉しそうな顔をした。
「本人に言ったら喜ぶかも」
それ以上、理沙は聞かなかった。
カーリーも詳しく説明しなかった。
ただ、これまで職場でしか知らなかった彼女に、もう一つ別の生活があることだけは分かった。
*
それからは、時々カーリーからメッセージが届くようになった。
仕事に関係することもある。
まったく関係のないこともあった。
ある日の夜勤中、休憩に入った理沙がスマートフォンを見ると、新しいメッセージが表示されていた。
カーリーからだった。
<娘が熱出しちゃって、今日はお休み>
理沙は画面を見つめた。
「……そんなことまで報告するんだ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
少し考える。
返信欄を開いた。
<おだいじに。無理しないで>
送信。
画面を閉じる。
それだけだった。
なのに、なぜか少し気になった。
熱は高いのだろうか。
食事はできているのか。
そんなことを考えながら、理沙は仕事へ戻った。
*
数日後。
いつもの自販機コーナー。
「もう大丈夫なの?」
理沙が聞いた。
「娘?」
「うん」
「翌日には走り回ってた」
「子供ってすごいね」
「ほんと。こっちが先に倒れる」
カーリーは笑った。
理沙も笑う。
少し間が空いた。
「そういえば」
カーリーが言った。
「リサって、休みの日も一人で食べてるの?」
「まあ」
「外で?」
「家」
「自分で作って?」
「そう」
「毎回?」
「だいたい」
カーリーは少し考えるような顔をした。
「今度、うち来る?」
「え?」
「ご飯」
理沙は一瞬、返事に困った。
「いや、でも……」
「何?」
「娘さんもいるんでしょ」
「いるよ」
「邪魔じゃない?」
「なんで?」
カーリーが不思議そうな顔をした。
「娘もいるし、たいしたもの作らないから。気にしなくていいよ」
「そういう問題?」
「そういう問題」
カーリーは当然のように言った。
理沙はコーヒーを一口飲んだ。
断る理由を探してみる。
特に思いつかなかった。
「……じゃあ、お邪魔しようかな」
「決まり」
カーリーが笑った。
その場で二人の勤務予定を確認した。
ちょうど週末に、二人とも休みになる日があった。
「じゃあ、その日」
「うん」
待ち合わせの時間と場所を決める。
理沙は自分のスマートフォンへ入力した。
*
その日の帰り。
バスの窓から、朝の街を眺めていた。
いつもの道だった。
いつもの建物。
いつもの交差点。
少し前なら、どこを見ても知らない場所だった。
今では、曲がり角の先に何があるのかくらいは分かる。
仕事場がある。
よく行くスーパーがある。
自分の部屋がある。
そして週末には、知り合ったばかりの女性の家へ食事に行く。
理沙は窓に頭を預けた。
友達。
その言葉が頭をよぎった。
まだ、わざわざそう呼ぶ必要もない気がした。
けれど、少なくとももう、ただの同僚ではなかった。
理沙はスマートフォンを開いた。
予定表に入れた週末の日付を見る。
それから画面を閉じた。
口元が少しだけ緩んだ。
ロサンゼルスへ来てから、こういう予定が入ったのは初めてだった。
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