003_09_ささやかな幸せ(2)

 待ち合わせは、カーリーの家から少し離れた小さな商業施設の前だった。

 午前10時を少し過ぎたころ、理沙が到着すると、カーリーはすでにそこにいた。

 その横に、小さな女の子がいる。

 理沙を見ると、女の子はカーリーの脚の後ろへ半分だけ隠れた。

「おはよう」

 カーリーが手を上げた。

「おはよう」

 理沙はその隣へ視線を向けた。

 スマートフォンの壁紙で見た顔だった。

「この子?」

「そう」

 カーリーが娘の肩へ手を置く。

「ほら。リサよ」

 女の子はカーリーを見上げ、それから理沙を見た。

 しばらく黙っている。

「こんにちは」

 理沙が少し腰をかがめた。

 女の子も、小さな声で返した。

「……こんにちは」

 カーリーが笑った。

「人見知りするの、最初だけだから」

「そうなんだ」

「5分くらい」

「短いね」

 女の子がカーリーを見上げた。

「5分じゃないよ」

 今度は理沙も笑った。

     *

 三人で近所のスーパーへ向かった。

 今日の昼は庭でバーベキューにするらしい。

 カーリーが肉や野菜を選んでいる間、娘は母親の手を握ったまま店内を歩いていた。

 最初のうちは理沙を気にしているだけだった。

 だが、カーリーが食材を選ぶたびに、

「これは嫌い」

「これは好き」

 と口を出し始める。

「どっち?」

 カーリーが二種類のソーセージを持ち上げる。

 娘は片方を指した。

「そっち」

「昨日は反対だったじゃない」

「今日はこっち」

「そうですか」

 カーリーは言われた方をカートへ入れた。

 理沙は横で見ていた。

「結構、意見強いね」

「誰に似たんだろうね」

 カーリーが言う。

「……カーリーじゃない?」

「失礼ね」

 二人が笑うと、娘も意味が分からないまま笑った。

 店を出るころには、娘は理沙にも話しかけるようになっていた。

 帰り道で見つけた犬のこと。

 昨日見たテレビのこと。

 幼稚園の友達のこと。

 話は次々と変わる。

 理沙は相槌を打ちながら歩いた。

 たしかに、5分よりは長かった。

 それでも一時間はかからなかった。

     *

 昼前にカーリーの家へ着いた。

 大きな家ではなかった。

 一階建ての、ごく普通の住宅。

 それでも庭は思っていたより広かった。

 芝生の端に簡単なバーベキューセットが置かれている。

「いいところだね」

「借り物だけどね」

 カーリーは買ってきた袋をテーブルへ置いた。

「庭があるから気に入ってる」

 娘は靴を脱ぐなり家の中へ走っていった。

「手洗ってから!」

 カーリーが後ろから声を飛ばす。

「はーい!」

 奥から返事がした。

 理沙はカーリーを見た。

 職場では、システムの状態を確認し、淡々と指示を出している姿しか見ていない。

 今は、買い物袋から野菜を取り出しながら、娘に手を洗えと言っている。

 その方が本来の姿なのかもしれない。

 理沙はそんなことを思った。

     *

 昼には、庭に肉の焼ける匂いが漂った。

 天気はよかった。

 日差しは強いが、日陰に入れば風が気持ちいい。

 カーリーが肉を焼く。

 理沙は野菜を並べる。

 娘はテーブルと庭を何度も往復している。

「走ると転ぶよ」

「大丈夫」

「転んでから言わないでね」

 その数分後、娘は芝生に足を取られた。

「あ」

 転びそうになったところを、自分で踏ん張る。

 カーリーは何も言わずに娘を見る。

 娘も母親を見る。

「転んでないよ」

「見てた」

「転んでない」

「はいはい」

 カーリーが肉を裏返した。

 理沙は笑いを堪えた。

「笑った?」

「笑ってない」

「絶対笑った」

 今度は娘まで加わってくる。

 三人で同じ話をしているのが、不思議な感じだった。

 理沙は紙皿を手に、焼き上がった肉を口へ運んだ。

「おいしい」

「でしょ?」

「カーリーが焼いただけだけど」

「焼き加減があるの」

「そういうもの?」

「そういうもの」

 風が吹いた。

 テーブルの上の紙ナプキンが浮き上がり、娘が慌てて押さえる。

 理沙は空を見上げた。

 仕事場の人工照明とはまったく違う青だった。

     *

 気づけば午後もかなり過ぎていた。

 食べ終えたあとも、三人はしばらく庭にいた。

 娘は芝生の上で一人遊びを始めた。

 理沙とカーリーは冷たい飲み物を手に、椅子へ座っていた。

 仕事の話は、ほとんどしなかった。

 理沙が最近覚えた近所の店。

 カーリーが昔住んでいた街。

 ロサンゼルスの渋滞。

 食料品の値段。

 どうでもいいことばかりだった。

 だからこそ、気楽だった。

 夕方近くになって、カーリーが立ち上がった。

「そろそろ片づけようか」

「手伝う」

 二人でバーベキューセットを片づける。

 娘も何か手伝おうとして、小さな皿を一枚だけ運んだ。

 それを大仕事のようにテーブルへ置く。

「ありがとう」

 カーリーが言った。

 娘は満足そうだった。

     *

 家の中は、きれいに片づいていた。

 豪華ではない。

 ただ、必要なものが必要な場所にある。

 玩具もある。

 子供向けの絵本もある。

 生活の跡は十分にあるのに、散らかっている感じはしなかった。

 理沙は手を洗いに行く途中、小さな部屋の前を通った。

 扉が少し開いている。

 中に机が見えた。

 本が何冊も積まれている。

 タイトルの文字が目に入った。

 法学。

 契約。

 行政。

 判例。

 机の横には学習端末が置かれ、画面には細かな文字が並んでいた。

 理沙は少しだけ足を止めた。

「リサ?」

 後ろからカーリーの声がした。

「あ、ごめん」

「何?」

「いや。なんでもない」

 理沙はその場を離れた。

 聞くほどのことでもない気がした。

     *

 夕食の準備も一緒にした。

 昼にかなり食べたので、夜は簡単なものだった。

 スープ。

 パン。

 残っていた野菜。

 少しだけ肉。

 三人でテーブルを囲んだ。

 陽が落ちる。

 窓の外が少しずつ暗くなる。

 娘は昼間あれだけ走り回ったのに、まだ元気だった。

 理沙とカーリーはワインを一杯ずつ飲んだ。

「飲める?」

「普通には」

「よかった。私、そんな強くないから」

「じゃあなんで出したの」

「休みの日だから」

「なるほど」

 理沙はグラスを口へ運んだ。

 少しずつ身体の力が抜けていく。

 こうして人の家で夕食を食べるのは、いつ以来だろう。

 思い出そうとして、やめた。

 わざわざ数える必要もない。

     *

「眠くなったら泊まってけば?」

 食後、カーリーが言った。

「え?」

「部屋はあるよ」

「いや、そこまではいいよ」

「遠慮しなくてもいいのに」

「明日の朝、着替えとか困るし」

「貸すけど?」

「カーリーの服?」

「たぶん入る」

「……やめとく」

「なによ」

 二人で笑った。

 そのころになると、娘の方が先に眠そうな顔をしていた。

 カーリーは娘を風呂へ入れた。

 しばらくして、パジャマ姿の娘が居間へ戻ってくる。

「リサ、おやすみ」

「おやすみ」

「また来る?」

 理沙は一瞬答えに詰まった。

「……呼んでもらえたら」

「呼ぶ」

 娘はそれだけ言うと、カーリーに手を引かれて寝室へ向かった。

     *

 しばらくして、カーリーだけが戻ってきた。

「寝た?」

「速攻」

「昼間あれだけ動いてたからね」

 カーリーはテーブルの上を少し片づけ、椅子へ座った。

 さっきまでより、家の中が急に静かになった。

 理沙もグラスを手にした。

「毎日、こんな感じ?」

「だいたいね」

「仕事から帰って、ご飯作って、お風呂入れて?」

「うん」

「全部一人で?」

 理沙が何気なく聞いた。

 カーリーはグラスを少し傾けた。

「まあね。二年前から」

「二年前?」

「離婚したの」

 あまりにも普通の声だったので、理沙は一瞬返事が遅れた。

「……そうだったんだ」

「言ってなかったね」

「聞いてなかったから」

「聞かれなかったし」

 カーリーは笑った。

 理沙は以前から、彼女の右手に指輪がないことには気づいていた。

 娘と二人で暮らしていることを知ってからも、あえて聞こうとは思わなかった。

「大変じゃない?」

 言ってから、ずいぶん普通の質問だと思った。

 カーリーは少し考えた。

「大変なことはあるよ」

 そう言って、残っていたワインを一口飲んだ。

「でも、娘がいるからね」

 それだけだった。

 カーリーはグラスを置いた。

「止まってられないのよ」

 理沙は何も言わなかった。

 昼間、庭を走り回っていた娘。

 何度転びそうになっても見守っていたカーリー。

 きれいに片づいた家。

 仕事。

 料理。

 洗濯。

 そして、さっき見た小さな書斎。

「あれ」

 理沙が廊下の方を指した。

「法律の本?」

「見た?」

「ちょっと」

「勉強してるの」

「法律?」

「うん」

 カーリーは少し照れたように笑った。

「まだ全然だけどね」

「なんでまた?」

「先のため」

 カーリーの表情が、ほんの少しだけ真面目になった。

「今の仕事、ずっとあると思う?」

 理沙は答えなかった。

 システム管理。

 監視。

 自動化。

 自分にも覚えのある言葉だった。

「たぶん、このままじゃないよね」

「でしょ?」

 カーリーは頷いた。

「新しいセンターだって、今までより人いらなくなるでしょうし。システムもどんどん自分で判断するようになってる」

「うん」

「だから、今のうちに他のこともできるようにしときたいの」

「法律?」

「その辺の仕事なら、人が相手だから」

 カーリーは笑った。

「簡単にはなくならないかなって」

「なるほど」

「まあ、どうなるか分からないけど」

 そう言って、カーリーは肩をすくめた。

 大きな夢を語っているようには見えなかった。

 ただ、必要だから準備している。

 娘と二人で暮らし続けるために。

 今日と同じ生活が明日も続くとは限らないから。

 理沙は自分のグラスを見た。

「すごいね」

「何が?」

「いや……ちゃんと考えてるんだなって」

「リサだって考えてるでしょ」

「私は」

 そこで止まった。

 何を考えているのだろう。

 今の仕事を続ける。

 金を貯める。

 ロサンゼルスで暮らす。

 それから?

 答えはなかった。

 カーリーは理沙の顔を見ていたが、それ以上聞かなかった。

     *

 話はそのあとも続いた。

 仕事とは関係のない話。

 昔の話。

 ロサンゼルスへ来たころの話。

 カーリーがテキサスから出てきたころの話。

 気づけば、日付が変わろうとしていた。

「さすがに帰る」

 理沙が時計を見る。

「ほんとに泊まらない?」

「大丈夫」

「じゃあタクシー呼ぶよ」

「自分で呼ぶ」

「家の前まで来てもらいなさい」

「はいはい」

 理沙が端末を操作する。

 カーリーが玄関まで見送った。

「今日はありがとう」

「こちらこそ」

「また来てね」

「うん」

 今回は、少し迷わずに答えた。

     *

 タクシーの後部座席に座る。

 カーリーの家が窓の向こうへ遠ざかっていった。

 理沙はシートに身体を預けた。

 静かだった。

 昼間の庭。

 三人で囲んだ食卓。

 娘の声。

 カーリーの笑い声。

 ずいぶん久しぶりに、家庭の中で一日を過ごした気がした。

 派手なことは何もなかった。

 買い物をして。

 食べて。

 片づけて。

 話した。

 それだけだった。

 でも、その「それだけ」が、今の理沙には少し眩しかった。

 窓の外を街灯が流れていく。

 カーリーの言葉を思い出す。

 今の仕事が、ずっとあるとは限らない。

 だから、準備している。

 理沙は目を閉じた。

 自分は、この先どうするのだろう。

 東京へ戻らないと決めただけでは、何も決めたことにはならない。

 ロサンゼルスで働いている。

 生活もできている。

 それでも、その先に何があるのかは見えていない。

 カーリーには、娘がいる。

 守りたいものがある。

 そのために、今より先を見ている。

 では、自分は。

 理沙は答えを探そうとはしなかった。

 今夜すぐに見つかるものでもない。

 ただ。

 少し前まで考えもしなかった問いが、心の中に残った。

 タクシーは夜の街を走り続けていた。

 理沙は窓の外を眺めながら、いつか自分にも、今とは違う何かを目指す日が来るのだろうかと、ぼんやり考えていた。



003_10へ