待ち合わせは、カーリーの家から少し離れた小さな商業施設の前だった。
午前10時を少し過ぎたころ、理沙が到着すると、カーリーはすでにそこにいた。
その横に、小さな女の子がいる。
理沙を見ると、女の子はカーリーの脚の後ろへ半分だけ隠れた。
「おはよう」
カーリーが手を上げた。
「おはよう」
理沙はその隣へ視線を向けた。
スマートフォンの壁紙で見た顔だった。
「この子?」
「そう」
カーリーが娘の肩へ手を置く。
「ほら。リサよ」
女の子はカーリーを見上げ、それから理沙を見た。
しばらく黙っている。
「こんにちは」
理沙が少し腰をかがめた。
女の子も、小さな声で返した。
「……こんにちは」
カーリーが笑った。
「人見知りするの、最初だけだから」
「そうなんだ」
「5分くらい」
「短いね」
女の子がカーリーを見上げた。
「5分じゃないよ」
今度は理沙も笑った。
*
三人で近所のスーパーへ向かった。
今日の昼は庭でバーベキューにするらしい。
カーリーが肉や野菜を選んでいる間、娘は母親の手を握ったまま店内を歩いていた。
最初のうちは理沙を気にしているだけだった。
だが、カーリーが食材を選ぶたびに、
「これは嫌い」
「これは好き」
と口を出し始める。
「どっち?」
カーリーが二種類のソーセージを持ち上げる。
娘は片方を指した。
「そっち」
「昨日は反対だったじゃない」
「今日はこっち」
「そうですか」
カーリーは言われた方をカートへ入れた。
理沙は横で見ていた。
「結構、意見強いね」
「誰に似たんだろうね」
カーリーが言う。
「……カーリーじゃない?」
「失礼ね」
二人が笑うと、娘も意味が分からないまま笑った。
店を出るころには、娘は理沙にも話しかけるようになっていた。
帰り道で見つけた犬のこと。
昨日見たテレビのこと。
幼稚園の友達のこと。
話は次々と変わる。
理沙は相槌を打ちながら歩いた。
たしかに、5分よりは長かった。
それでも一時間はかからなかった。
*
昼前にカーリーの家へ着いた。
大きな家ではなかった。
一階建ての、ごく普通の住宅。
それでも庭は思っていたより広かった。
芝生の端に簡単なバーベキューセットが置かれている。
「いいところだね」
「借り物だけどね」
カーリーは買ってきた袋をテーブルへ置いた。
「庭があるから気に入ってる」
娘は靴を脱ぐなり家の中へ走っていった。
「手洗ってから!」
カーリーが後ろから声を飛ばす。
「はーい!」
奥から返事がした。
理沙はカーリーを見た。
職場では、システムの状態を確認し、淡々と指示を出している姿しか見ていない。
今は、買い物袋から野菜を取り出しながら、娘に手を洗えと言っている。
その方が本来の姿なのかもしれない。
理沙はそんなことを思った。
*
昼には、庭に肉の焼ける匂いが漂った。
天気はよかった。
日差しは強いが、日陰に入れば風が気持ちいい。
カーリーが肉を焼く。
理沙は野菜を並べる。
娘はテーブルと庭を何度も往復している。
「走ると転ぶよ」
「大丈夫」
「転んでから言わないでね」
その数分後、娘は芝生に足を取られた。
「あ」
転びそうになったところを、自分で踏ん張る。
カーリーは何も言わずに娘を見る。
娘も母親を見る。
「転んでないよ」
「見てた」
「転んでない」
「はいはい」
カーリーが肉を裏返した。
理沙は笑いを堪えた。
「笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
今度は娘まで加わってくる。
三人で同じ話をしているのが、不思議な感じだった。
理沙は紙皿を手に、焼き上がった肉を口へ運んだ。
「おいしい」
「でしょ?」
「カーリーが焼いただけだけど」
「焼き加減があるの」
「そういうもの?」
「そういうもの」
風が吹いた。
テーブルの上の紙ナプキンが浮き上がり、娘が慌てて押さえる。
理沙は空を見上げた。
仕事場の人工照明とはまったく違う青だった。
*
気づけば午後もかなり過ぎていた。
食べ終えたあとも、三人はしばらく庭にいた。
娘は芝生の上で一人遊びを始めた。
理沙とカーリーは冷たい飲み物を手に、椅子へ座っていた。
仕事の話は、ほとんどしなかった。
理沙が最近覚えた近所の店。
カーリーが昔住んでいた街。
ロサンゼルスの渋滞。
食料品の値段。
どうでもいいことばかりだった。
だからこそ、気楽だった。
夕方近くになって、カーリーが立ち上がった。
「そろそろ片づけようか」
「手伝う」
二人でバーベキューセットを片づける。
娘も何か手伝おうとして、小さな皿を一枚だけ運んだ。
それを大仕事のようにテーブルへ置く。
「ありがとう」
カーリーが言った。
娘は満足そうだった。
*
家の中は、きれいに片づいていた。
豪華ではない。
ただ、必要なものが必要な場所にある。
玩具もある。
子供向けの絵本もある。
生活の跡は十分にあるのに、散らかっている感じはしなかった。
理沙は手を洗いに行く途中、小さな部屋の前を通った。
扉が少し開いている。
中に机が見えた。
本が何冊も積まれている。
タイトルの文字が目に入った。
法学。
契約。
行政。
判例。
机の横には学習端末が置かれ、画面には細かな文字が並んでいた。
理沙は少しだけ足を止めた。
「リサ?」
後ろからカーリーの声がした。
「あ、ごめん」
「何?」
「いや。なんでもない」
理沙はその場を離れた。
聞くほどのことでもない気がした。
*
夕食の準備も一緒にした。
昼にかなり食べたので、夜は簡単なものだった。
スープ。
パン。
残っていた野菜。
少しだけ肉。
三人でテーブルを囲んだ。
陽が落ちる。
窓の外が少しずつ暗くなる。
娘は昼間あれだけ走り回ったのに、まだ元気だった。
理沙とカーリーはワインを一杯ずつ飲んだ。
「飲める?」
「普通には」
「よかった。私、そんな強くないから」
「じゃあなんで出したの」
「休みの日だから」
「なるほど」
理沙はグラスを口へ運んだ。
少しずつ身体の力が抜けていく。
こうして人の家で夕食を食べるのは、いつ以来だろう。
思い出そうとして、やめた。
わざわざ数える必要もない。
*
「眠くなったら泊まってけば?」
食後、カーリーが言った。
「え?」
「部屋はあるよ」
「いや、そこまではいいよ」
「遠慮しなくてもいいのに」
「明日の朝、着替えとか困るし」
「貸すけど?」
「カーリーの服?」
「たぶん入る」
「……やめとく」
「なによ」
二人で笑った。
そのころになると、娘の方が先に眠そうな顔をしていた。
カーリーは娘を風呂へ入れた。
しばらくして、パジャマ姿の娘が居間へ戻ってくる。
「リサ、おやすみ」
「おやすみ」
「また来る?」
理沙は一瞬答えに詰まった。
「……呼んでもらえたら」
「呼ぶ」
娘はそれだけ言うと、カーリーに手を引かれて寝室へ向かった。
*
しばらくして、カーリーだけが戻ってきた。
「寝た?」
「速攻」
「昼間あれだけ動いてたからね」
カーリーはテーブルの上を少し片づけ、椅子へ座った。
さっきまでより、家の中が急に静かになった。
理沙もグラスを手にした。
「毎日、こんな感じ?」
「だいたいね」
「仕事から帰って、ご飯作って、お風呂入れて?」
「うん」
「全部一人で?」
理沙が何気なく聞いた。
カーリーはグラスを少し傾けた。
「まあね。二年前から」
「二年前?」
「離婚したの」
あまりにも普通の声だったので、理沙は一瞬返事が遅れた。
「……そうだったんだ」
「言ってなかったね」
「聞いてなかったから」
「聞かれなかったし」
カーリーは笑った。
理沙は以前から、彼女の右手に指輪がないことには気づいていた。
娘と二人で暮らしていることを知ってからも、あえて聞こうとは思わなかった。
「大変じゃない?」
言ってから、ずいぶん普通の質問だと思った。
カーリーは少し考えた。
「大変なことはあるよ」
そう言って、残っていたワインを一口飲んだ。
「でも、娘がいるからね」
それだけだった。
カーリーはグラスを置いた。
「止まってられないのよ」
理沙は何も言わなかった。
昼間、庭を走り回っていた娘。
何度転びそうになっても見守っていたカーリー。
きれいに片づいた家。
仕事。
料理。
洗濯。
そして、さっき見た小さな書斎。
「あれ」
理沙が廊下の方を指した。
「法律の本?」
「見た?」
「ちょっと」
「勉強してるの」
「法律?」
「うん」
カーリーは少し照れたように笑った。
「まだ全然だけどね」
「なんでまた?」
「先のため」
カーリーの表情が、ほんの少しだけ真面目になった。
「今の仕事、ずっとあると思う?」
理沙は答えなかった。
システム管理。
監視。
自動化。
自分にも覚えのある言葉だった。
「たぶん、このままじゃないよね」
「でしょ?」
カーリーは頷いた。
「新しいセンターだって、今までより人いらなくなるでしょうし。システムもどんどん自分で判断するようになってる」
「うん」
「だから、今のうちに他のこともできるようにしときたいの」
「法律?」
「その辺の仕事なら、人が相手だから」
カーリーは笑った。
「簡単にはなくならないかなって」
「なるほど」
「まあ、どうなるか分からないけど」
そう言って、カーリーは肩をすくめた。
大きな夢を語っているようには見えなかった。
ただ、必要だから準備している。
娘と二人で暮らし続けるために。
今日と同じ生活が明日も続くとは限らないから。
理沙は自分のグラスを見た。
「すごいね」
「何が?」
「いや……ちゃんと考えてるんだなって」
「リサだって考えてるでしょ」
「私は」
そこで止まった。
何を考えているのだろう。
今の仕事を続ける。
金を貯める。
ロサンゼルスで暮らす。
それから?
答えはなかった。
カーリーは理沙の顔を見ていたが、それ以上聞かなかった。
*
話はそのあとも続いた。
仕事とは関係のない話。
昔の話。
ロサンゼルスへ来たころの話。
カーリーがテキサスから出てきたころの話。
気づけば、日付が変わろうとしていた。
「さすがに帰る」
理沙が時計を見る。
「ほんとに泊まらない?」
「大丈夫」
「じゃあタクシー呼ぶよ」
「自分で呼ぶ」
「家の前まで来てもらいなさい」
「はいはい」
理沙が端末を操作する。
カーリーが玄関まで見送った。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「また来てね」
「うん」
今回は、少し迷わずに答えた。
*
タクシーの後部座席に座る。
カーリーの家が窓の向こうへ遠ざかっていった。
理沙はシートに身体を預けた。
静かだった。
昼間の庭。
三人で囲んだ食卓。
娘の声。
カーリーの笑い声。
ずいぶん久しぶりに、家庭の中で一日を過ごした気がした。
派手なことは何もなかった。
買い物をして。
食べて。
片づけて。
話した。
それだけだった。
でも、その「それだけ」が、今の理沙には少し眩しかった。
窓の外を街灯が流れていく。
カーリーの言葉を思い出す。
今の仕事が、ずっとあるとは限らない。
だから、準備している。
理沙は目を閉じた。
自分は、この先どうするのだろう。
東京へ戻らないと決めただけでは、何も決めたことにはならない。
ロサンゼルスで働いている。
生活もできている。
それでも、その先に何があるのかは見えていない。
カーリーには、娘がいる。
守りたいものがある。
そのために、今より先を見ている。
では、自分は。
理沙は答えを探そうとはしなかった。
今夜すぐに見つかるものでもない。
ただ。
少し前まで考えもしなかった問いが、心の中に残った。
タクシーは夜の街を走り続けていた。
理沙は窓の外を眺めながら、いつか自分にも、今とは違う何かを目指す日が来るのだろうかと、ぼんやり考えていた。
|