003_10_社会の理不尽

 12月、最初の週末。

 新しい監視制御センターの照明は、深夜になっても昼間とほとんど変わらなかった。

 壁面を埋める大型ディスプレイ。

 整然と並んだコンソール。

 ラックの中で点滅を続ける機器。

 少し前まで倉庫だった場所に、その面影はもうなかった。

 理沙は自分の席で、切り替え手順をもう一度確認していた。

 画面の隅に表示された時刻は、午前2時を回っている。

「次、同期確認」

 リーダーの声が飛ぶ。

「はい」

 理沙は画面を切り替えた。

 現在稼働しているシステムから、新しいシステムへ。

 交通情報。

 設備状態。

 障害履歴。

 制御情報。

 一つずつ、最新状態が反映されていることを確認する。

「同期、正常です」

「次」

 短い言葉だけが続く。

 誰も余計な話をしなかった。

 ここまで何週間もかけて機材を運び、配線し、接続試験を繰り返してきた。

 その最後が、今夜だった。

     *

 切り替え作業は三つのシフトに分かれていた。

 深夜帯を担当する理沙たちの役目は、最も大きな切り替え部分だった。

 一つ止める。

 一つつなぐ。

 待つ。

 確認する。

 また次へ進む。

 画面には大量の情報が流れている。

 それでも、室内は静かだった。

 理沙は何度も時計を見た。

 午前3時。

 4時。

 5時。

 窓のない部屋では、外が明るくなり始めていることすら分からない。

「五番系統、切り替え完了」

「了解」

「通信遅延なし」

「記録して」

「はい」

 理沙は結果を入力した。

 予定より少し早い。

 だからといって誰も喜ばなかった。

 最後まで終わるまでは、何が起きるか分からない。

     *

 午前6時を過ぎるころ、現行センターからの引き継ぎが始まった。

 新しい監視制御センターへ、運用担当者たちが入ってくる。

 二週間の訓練を終えたシステム管理者たちも、その中にいた。

 カーリーの姿が見えた。

 理沙と一瞬だけ目が合った。

 カーリーが小さく頷く。

 理沙も同じように返した。

 声をかける余裕はなかった。

 カーリーは自分の担当コンソールへ座った。

 他の管理者も、それぞれ指定された席へ入る。

 午前6時50分。

 各席から準備完了の連絡が入った。

「一番、準備完了」

「二番、問題なし」

「三番、準備完了」

 短い報告が続く。

 理沙は壁面ディスプレイを見上げた。

 まだ一部には確認用の表示が残っている。

 7時まで、あと三分。

 室内にいる全員が、それぞれの画面を見ていた。

 二分。

 一分。

 リーダーが時計を見る。

「切り替えます」

 誰も答えなかった。

 午前7時。

 表示が一度だけ切り替わった。

 壁面ディスプレイいっぱいに、交通情報の画面が現れる。

 道路網。

 交通量。

 規制。

 事故情報。

 信号設備の状態。

 理沙が何度も二つ上の旧センターで見てきた画面と、ほとんど同じだった。

 数秒。

 十秒。

 三十秒。

 何も起きない。

 交通情報は更新され続けている。

 道路も止まっていない。

 警告も出ない。

 カーリーたちはコンソールの前で、静かに画面を見ているだけだった。

 理沙は息を吐いた。

 気づかないうちに、息を止めていたらしい。

「正常」

 どこかから声がした。

 別の担当者も続く。

「こちらも正常」

「通信問題なし」

 それだけだった。

 拍手は起きなかった。

 歓声もない。

 外を走っている人たちには、何が起きたのかすら分からないだろう。

 昨日までと同じように信号が動き、交通情報が表示され、道路が流れている。

 それが、今朝の成功だった。

     *

 理沙たちは、その後も一時間ほどセンターに残った。

 異常が出ないことを確認する。

 ログを見る。

 応答時間を見る。

 新しい環境へ移ったことなど忘れたように、システムは淡々と動いていた。

「もういい。夜勤組は上がって」

 リーダーが言った。

 理沙は椅子から立ち上がった。

 身体が重い。

 しかし、気分は軽かった。

 カーリーの席の近くを通る。

「どう?」

 小さな声で聞いた。

 カーリーは画面から目を離さずに答えた。

「今のところ、暇」

「いいことじゃない」

「最高」

 二人とも少し笑った。

 それだけ言って、理沙はセンターを出た。

     *

 その夜、理沙は再び建物へ戻った。

 切り替え後しばらくは、二十四時間体制で構築チームも待機することになっていた。

 夜のセンターへ入る。

 昨日までとは違う。

 もうここは工事現場ではない。

 オペレーターが座り、管理者が画面を見ている。

 壁面には本番の交通情報が表示されている。

 警告音が鳴る。

 誰かが確認する。

 処理される。

 また静かになる。

 理沙たちは、その後ろで何か起きないかを見守るだけだった。

 二日目。

 三日目。

 大きな問題は起きなかった。

 細かな調整はいくつかあった。

 表示速度。

 ログの出力。

 一部機器の設定。

 どれも運用を止めるようなものではない。

 三日目の朝。

「待機体制、これで終了」

 リーダーが言った。

 その言葉を聞いた瞬間、理沙の肩から力が抜けた。

「終わった……」

 今度は、本当に口に出した。

     *

 その夜、構築チームだけの小さな打ち上げが行われた。

 センターから少し離れた店の一角。

 テーブルには肉料理や果物が並び、酒も用意されていた。

 いつもは必要なことしか話さない作業員たちが、今日はよく喋った。

「お前、最初に机落としかけただろ」

「落としてない」

「俺、見たぞ」

「持ち直したんだから同じだ」

 笑い声が上がる。

 別のテーブルでは、ケーブルの接続ミスを誰が最初に見つけたかで揉めている。

「それ私です」

 理沙が口を挟む。

「違うだろ」

「私です」

「証拠は?」

「ログに名前残ってます」

「そういうところだけシステム屋だな」

 理沙も笑った。

 酒が入るにつれて、普段はほとんど話さない人まで陽気になった。

 あの夜勤中の静かな休憩時間と同じメンバーとは思えない。

 仕事の話。

 くだらない話。

 次に行きたい場所の話。

 誰かがグラスを上げる。

 理沙もそれに合わせた。

 何週間も続いた仕事が、本当に終わった。

 その実感が、ようやく湧いてきた。

     *

 日付が変わったころ、理沙は帰宅した。

 シャワーを浴びる気力もなく、上着だけ脱いでベッドへ横になる。

 目を閉じた。

 その次に目を開けたときには、朝だった。

「……頭痛い」

 額を押さえる。

 飲みすぎた。

 それでも仕事はある。

 水を飲む。

 シャワーを浴びる。

 朝食を少しだけ口に入れる。

 身体は重かったが、どうにか家を出た。

     *

 センターへ到着すると、構築メンバー全員が会議室へ呼ばれた。

 昨日の宴会とは違い、皆静かだった。

 ただし、何となく理由は分かっていた。

 リーダーが前に立つ。

「まずは、お疲れさまでした」

 短い挨拶から始まった。

 新システムへの切り替えは無事完了したこと。

 安定稼働も確認できたこと。

 当初予定していた構築作業は、すべて終了したこと。

 そこまで聞けば、次に何を言われるかは分かった。

「したがって、今回の構築チームは解散します」

 室内にざわめきは起きなかった。

「契約は予定どおり、順次終了になります。各自、最終勤務日と引き継ぎ内容について確認してください」

 理沙は椅子に座ったまま聞いていた。

 自分は一週間後。

 予想していた。

 もともと欠員を埋める形で入った仕事だった。

 センターを作るために集められた人間が、センター完成後まで全員必要なはずもない。

 それでも、昨日まで成功を祝っていた場所で聞くと、妙な感じはした。

 周囲を見る。

 誰も深刻な顔はしていなかった。

 隣の男は、渡された書類を確認している。

 その向こうでは、もう誰かが別の仕事の話をしていた。

「次、どこ行く?」

「まだ決めてない」

「東の案件、募集始まるらしいぞ」

「ほんとか?」

 そんな声まで聞こえる。

 理沙は少し驚いた。

 彼らにとっては、これも仕事の一部なのだろう。

 一つ終われば、次へ行く。

 それだけだった。

     *

 翌朝。

 理沙はいつもの自販機コーナーへ行った。

 カーリーがいた。

 コーヒーを買い、横へ座る。

「終わった」

 理沙が言った。

「切り替え?」

「そっちじゃなくて。私の方」

 カーリーが理沙を見る。

「一週間後で契約終了」

「ああ」

 カーリーは小さく頷いた。

 驚いた様子はなかった。

「まあ、そうなるよね」

「分かってはいたけどね」

 理沙はコーヒーを一口飲んだ。

「しばらく、また仕事探し」

 カーリーは少し黙った。

 紙カップを両手で持ち、黒い液面を見ている。

 その表情が、ほんの少しだけ曇った。

「私も」

「え?」

「今月末まで」

 理沙はカーリーを見る。

「ここ?」

「うん」

「なんで?」

 聞いてから、何となく答えは分かった。

 カーリーは新センターの方を見た。

「新しいシステム、よくできてるでしょ?」

 笑っている。

 でも、いつもの笑顔とは少し違った。

「今までより、管理する人いらないの」

 理沙は何も言えなかった。

 自分たちは、あのシステムを完成させるために雇われた。

 仕事が終わったから、いなくなる。

 カーリーたちは違う。

 あのシステムが完成したから、人数を減らせるようになった。

「……早かったね」

 理沙が言った。

「うん」

 カーリーは少しだけ肩をすくめた。

「予想よりはね」

 カーリーの家で見た、小さな書斎が頭に浮かんだ。

 机の上の法律書。

 学習端末。

 あれは、まだ先のための準備だと思っていた。

 その「先」が、思ったより早く来ただけだった。

「大丈夫?」

 理沙が聞いた。

 カーリーはすぐには答えなかった。

 一口だけコーヒーを飲む。

 それから言った。

「娘いるしね」

 ほんの少し笑った。

「また探すだけ」

 理沙はそれ以上、何も言わなかった。

「そうだね」

「そういうこと」

 二人はしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。

 以前と同じ沈黙だった。

 ただ、その朝だけは、少し違って感じられた。

     *

 理沙の最終勤務日。

 自分が担当していた資料を整理し、引き継ぎ先へ渡した。

 端末から個人設定を削除する。

 ロッカーを空にする。

 最初の日にはあれほど大きく感じた監視制御センターも、今では見慣れた職場だった。

 荷物をまとめていると、背後から声をかけられた。

「リサ」

 振り返る。

 同じ構築チームの男だった。

 50歳前後。

 作業中はほとんど口を開かなかった男で、理沙も名前と仕事くらいしか知らない。

「もう帰るのか?」

「はい」

「次、決まってる?」

「まだです」

「そうか」

 男は近くの机にもたれた。

「でも、そんな深刻に考えなくていいぞ」

 理沙は少し首を傾けた。

「こういう仕事って、そういうもんだから」

「そういうもの?」

「作って、終わって、次へ行く」

 男は新しいセンターを見回した。

「一つの会社にずっといる奴もいる。でも、現場渡り歩く奴も多い」

「慣れるものなんですか」

「慣れたくなくても慣れる」

 男は笑った。

「ただな。毎回、仕事が終わってから次を探してたらしんどい」

「じゃあ、どうするんです?」

「残すんだよ」

「何を?」

「自分が何やったか」

 男は指を折った。

「担当したシステム。作業内容。使った技術。トラブル対応。誰と仕事したか。取れる資格があれば取る。終わる前に連絡先も残す」

 理沙は黙って聞いた。

「それで?」

「次にどっかで人が足りなくなったとき、あいつ呼べって名前が出るようにする」

「なるほど」

「技術だけじゃないぞ。時間守るとか、途中で投げないとか、面倒な仕事でもちゃんとやるとか。そういうの、意外と覚えられてる」

 理沙は少し笑った。

「ずいぶん普通ですね」

「普通のことを毎回やる奴が少ないんだよ」

 男も笑った。

 少し間を置く。

「機械が賢くなっても、人間が現場に行かなきゃできない仕事はまだある」

 新センターの壁面ディスプレイへ視線を向ける。

「ただ、同じ仕事が永遠にあると思わない方がいい」

 理沙はカーリーを思い出した。

「……そうですね」

「だから選ばれるようにしとくんだ」

「選ばれる?」

「仕事探して頭下げるばっかりじゃ疲れるだろ」

 男は肩をすくめた。

「そのうち、向こうから『来ないか』って言わせりゃいい」

 理沙は笑った。

「簡単に言いますね」

「簡単じゃないから、今からやるんだよ」

 男は理沙の肩を軽く叩いた。

「まあ、頑張れ」

「ありがとうございます」

「じゃあな」

「はい」

 男はそれだけ言うと、先に歩いていった。

     *

 理沙は一人で新しい監視制御センターを見回した。

 壁面ディスプレイには、今日も交通情報が表示されている。

 オペレーターたちは昨日と同じように働いている。

 システムも動いている。

 自分がいなくなっても、何も変わらない。

 それでいい。

 それが仕事だった。

 理沙は出口へ向かった。

 途中で一度だけ振り返る。

 何もなかった倉庫。

 大量の梱包箱。

 台車。

 ケーブル。

 深夜零時の静かな食事。

 接続試験。

 初めて見た現行センター。

 壊れたコーヒー自販機。

 カーリー。

 全部、この場所で起きた。

 仕事は終わった。

 けれど、何も残らなかったわけではない。

 理沙はスマートフォンを取り出した。

 自分の職歴情報を開く。

 まだ歩きながらだった。

 新しい項目を追加する。

 **ロサンゼルス交通管制センター。**

 期間。

 担当業務。

 システム構築支援。

 運用テスト。

 切り替え対応。

 入力を終える。

 保存。

 画面を閉じた。

 自動ドアが開いた。

 外の空気は少し冷たかった。

 理沙はバッグを肩へ掛け直し、そのまま歩き出した。

 また仕事を探す。

 少し前と同じだった。

 ただ、今度は履歴書に一行増えていた。



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