目覚ましの音がしない朝だった。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の壁を明るく照らしている。
理沙はベッドの中で寝返りを打った。
時計を見る。
午前9時を少し過ぎていた。
いつもなら、もう仕事へ出かける準備をしている時間だった。
けれど、今日は何も予定がない。
夜勤もない。
作業の引き継ぎもない。
次の勤務時間を確認する必要もない。
「……休みか」
理沙は再び目を閉じた。
ロサンゼルス交通管制センターで働いたのは、4か月ほどだった。
機材の搬入から始まり、設置、接続試験、新しいシステムへの切り替え。
夜勤が多く、身体を使う仕事も少なくなかった。
それでも、どうにか最後までやり遂げることができた。
給与もよかった。
為替の違いもあるので単純には比較できないが、東京の「Shangri-la」や「Castel」で働いていたころと、ほぼ同じくらいの収入を得られた。
少なくとも、当面の生活費を心配する必要はなくなっていた。
今日は一日、ゆっくりしよう。
明日から、また仕事を探せばいい。
そう思って、枕に顔を埋めた。
そのときだった。
枕元のスマートフォンが鳴った。
通知音だった。
理沙は目を開けたが、画面を見る気にはなれなかった。
どうせ、また職探しエージェントからの求人案内だろう。
今すぐ見る必要もない。
布団を肩まで引き上げる。
数分後。
また鳴った。
「……」
理沙は動かなかった。
さらに数分後。
また鳴る。
「うるさいなあ……」
スマートフォンを裏返し、再び目を閉じた。
今日は休むと決めたのだ。
しかし、その後も通知音は鳴り続けた。
結局、一時間ほど経ったところで、理沙は諦めて身体を起こした。
「そんなに何があるのよ」
寝ぼけた顔のままスマートフォンを手に取った。
画面を開く。
通知一覧が表示された。
10件近くの新着メッセージ。
ほとんどが職探しエージェントからだった。
「……また求人?」
理沙は一番上の通知を開いた。
*
システム管理。
新システムへの移行作業。
大規模ネットワークの運用。
金融系システムセンターの構築支援。
交通インフラの監視業務。
次々と求人情報が表示された。
「……え?」
理沙は画面をスクロールした。
どれも、以前のような販売や一般事務の仕事ではなかった。
募集対象は、システム管理や運用経験を持つ技術者。
勤務地はロサンゼルスだけではない。
シアトル。
テキサス。
フロリダ。
東海岸の都市。
全米各地のシステムセンターから、技術者を募集する案内が届いていた。
「ちょっと待って……」
理沙はベッドから起き上がった。
小さなテーブルへ移動し、椅子に座る。
改めて、求人一覧を開いた。
昨日まで、こんなことはなかった。
応募しても断られる。
面談にすら進めない。
そんな日々が、まだ遠い昔のこととは思えなかった。
それなのに。
「……何これ」
思わず声が出た。
求人情報は、まだ続いていた。
理沙は一つずつ募集条件を確認した。
どれも楽な仕事には見えない。
夜勤。
休日勤務。
短期間でのシステム移行。
現場間の移動。
障害発生時の緊急対応。
ロサンゼルス交通管制センターで経験した仕事と、似たような条件が並んでいる。
ただし、給与は以前と同じか、それ以上だった。
「……すごいね」
理沙は椅子の背にもたれた。
4か月前なら、こんな求人に応募しても、相手にされなかったかもしれない。
何が変わったのだろう。
画面を見つめているうちに、ふと、以前のことを思い出した。
*
交通管制センターで働いていたころ。
深夜の休憩時間に、作業員たちが職探しの話をしていたことがあった。
「今回の企業満足度値、もう出た?」
「まだ。前の現場は結構よかったけどな」
「じゃあ、次もすぐ決まるだろ」
理沙はそのとき、あまり気にしていなかった。
企業満足度値。
技術者を採用した企業が、契約終了後にその働きぶりを評価し、エージェントへフィードバックする仕組みだった。
技術者がエージェントを通して仕事を探すのと同じように、企業側も必要な人材を探している。
経歴。
保有スキル。
これまで担当した業務。
そして、実際に採用した企業からの評価。
それらをもとに、条件の合う人材へ求人情報が届けられる。
もちろん、評価が高ければ必ず採用されるわけではない。
募集する仕事に必要な経験がなければ、意味がない。
ただ、次の仕事を見つけるうえで、有利になることは確かだった。
理沙は、自分の登録情報を開いた。
職歴の一番上には、先日追加したばかりの項目が表示されている。
ロサンゼルス交通管制センター。
新監視制御センター構築支援。
運用テスト。
システム移行。
本番切り替え対応。
その下には、今回の契約についての評価情報が追加されていた。
詳細な評価内容までは見えなかったが、企業側からのフィードバックが反映され、技術職向けの紹介条件が更新されている。
「……これか」
理沙は小さく呟いた。
最終日にベテラン作業員から言われたことを思い出す。
自分が何をやったか、ちゃんと残しておけ。
次の現場で人が足りなくなったとき、名前が出るようにしておけ。
仕事を探すより、仕事の方から声をかけてくるようになれば楽だぞ。
あの男は、こういうことを言っていたのか。
理沙は再び求人一覧へ戻った。
「……なるほどね」
今度は、少しだけ笑った。
*
朝食を作るつもりだったが、すでに昼近くになっていた。
理沙は冷蔵庫から水を取り出し、飲みながら求人情報を眺め続けた。
条件のよさそうなものを保存する。
会社の情報を確認する。
必要なスキルと、自分の経験を照らし合わせる。
ロサンゼルスへ来たばかりのころのように、手当たり次第に応募する必要はなかった。
今回は、選べる。
それが少し不思議だった。
何件目かの求人を開いたところで、理沙の指が止まった。
金融系バンキングシステム。
システム管理・運用担当者募集。
勤務地、シアトル。
欠員発生に伴う、経験者の緊急募集。
「……シアトル」
理沙は募集内容を読み始めた。
大規模金融システムの監視。
サーバーおよびネットワークの運用管理。
システム移行支援。
障害対応。
必要に応じて、関連するシステムセンターへの出張あり。
東京で働いていたころの経験が生かせそうだった。
交通管制センターで担当した仕事とも、共通する部分がある。
給与条件を見る。
「二割増しか……」
悪くない。
もちろん、金融系のシステムだからといって、交通管制センターより楽な仕事だとは限らない。
むしろ、厳しいのかもしれない。
ただ、募集条件を読む限り、自分にできない仕事ではなさそうだった。
理沙は画面の下まで目を通した。
会社の情報を確認する。
募集部署。
雇用条件。
契約期間。
採用窓口。
特に問題は見当たらなかった。
「……まあ、やってみるか」
理沙は応募画面を開いた。
登録済みの職歴情報を確認する。
必要事項を入力する。
送信。
受付完了の表示が現れた。
それだけだった。
以前、ロサンゼルス交通管制センターの求人を見つけたときは、出勤まで15分しかなく、慌てて応募した。
今は、時間ならいくらでもある。
しかも、ほかにも候補はある。
理沙は椅子から立ち上がった。
「さて、昼ご飯」
そう言って、ようやくキッチンへ向かった。
*
食事を終えると、理沙はシアトルの住居情報を調べ始めた。
まだ仕事が決まったわけではない。
面談に進めるかどうかも分からない。
それでも、採用された場合には、すぐに移動できるようにしておきたかった。
シアトルの地図を開く。
勤務地の周辺。
交通機関。
賃貸アパート。
短期滞在できるホテル。
ロサンゼルスで部屋を探したときのことを思い出す。
あのときは、何もかもが初めてだった。
今度は少し違う。
どこを確認すればよいか、ある程度は分かっている。
とはいえ、シアトルには一度も住んだことがない。
冬の気候も、ロサンゼルスとはずいぶん違うらしい。
理沙は賃貸情報をいくつか保存した。
立ち上がり、コーヒーを入れようとした。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
画面を見る。
先ほど応募した、シアトルの会社からだった。
「……もう?」
理沙はメールを開いた。
面談日時についての案内。
翌日の午後に、リモート面談を実施したいという内容だった。
「早いなあ……」
椅子へ戻る。
返信画面を開く。
指定された日時で問題ないことを伝えた。
送信。
理沙はしばらく画面を見つめた。
今日は一日休むつもりだった。
それなのに、気がつけばもう午後になっている。
求人情報を確認し、応募し、住居まで探し始めてしまった。
「……休みじゃなかったっけ」
自分で言って、少し笑った。
*
その日の午後、理沙はカーリーへメッセージを送った。
シアトルで、金融系システムの仕事が見つかりそうなこと。
まだ採用されたわけではないが、翌日に面談があること。
送信してから、少し考える。
もう一言、付け加えた。
<決まったら、ロサンゼルスを離れると思う>
数分後、返信があった。
<シアトル? ずいぶん遠くへ行くのね>
理沙は画面を見ながら返した。
<まだ決まってないけどね>
<決まったら教えてね>
<うん>
それだけのやり取りだった。
カーリーも、今月末で交通管制センターを離れることになっている。
次の仕事は、まだ決まっていないらしい。
少し前までは、二人とも同じ場所で働いていた。
夜勤明けにコーヒーを飲み、どうでもいい話をしていた。
それが、もうすぐできなくなる。
理沙はスマートフォンをテーブルへ置いた。
窓の外は、相変わらず明るかった。
*
翌日の面談は、予定どおり行われた。
理沙はこれまでの職歴について説明した。
東京でのシステム会社勤務。
ロサンゼルス交通管制センターでの構築支援。
監視・運用業務。
システム切り替え時の対応経験。
面接官からは、技術的な質問もいくつかあった。
システム障害が発生したとき、最初に何を確認するか。
運用中のシステムで設定変更が必要になった場合、どのような手順で進めるか。
夜勤や緊急対応に問題はないか。
理沙は、自分が経験した範囲で答えた。
知らないことについては、知らないと答えた。
その代わり、どこから確認し、誰に相談するかを説明した。
面談は一時間ほどで終わった。
結果は、追って連絡するとのことだった。
理沙は接続を切った。
少しだけ背伸びをする。
「……まあ、こんなものか」
手応えはあった。
ただ、採用されるかどうかは分からない。
理沙は別の求人情報を開いた。
ほかにも仕事はある。
そう思えるだけで、以前よりずいぶん気持ちが楽だった。
*
数日後。
シアトルの会社から、採用の連絡が届いた。
理沙は通知を開き、条件を確認した。
勤務地。
給与。
契約期間。
勤務開始日。
事前に聞いていた内容と、大きな違いはなかった。
勤務開始は、翌月の初め。
それまでに、シアトルへ移動する必要がある。
「……決まったか」
理沙は小さく呟いた。
嬉しくないわけではなかった。
ただ、ロサンゼルス交通管制センターから面談の案内が届いたときのように、思わず拳を握ることはなかった。
今度は、採用されたことよりも、その先に必要なことが頭に浮かんだ。
住居。
移動。
荷物。
契約。
勤務開始までの日数。
「忙しくなるな……」
理沙は採用条件への同意を返信した。
そして、保存しておいたシアトルの賃貸情報を開いた。
*
それからの一週間は、慌ただしかった。
ロサンゼルスのアパートの退去手続き。
荷物の整理。
シアトルでの住居の手配。
交通手段の確認。
必要な書類の準備。
日本から持ってきた荷物は、それほど多くない。
ロサンゼルスで買い足したものも、ほとんどが日用品だった。
それでも、いざ引っ越すとなると、片づけるものはいくらでも出てきた。
横浜の部屋は、まだ残してある。
日本へ戻るつもりはない。
けれど、今回はそのことについて考える余裕もなかった。
理沙はロサンゼルスの部屋を片づけ、シアトルでの生活に必要なものを確認した。
数日間は短期滞在用の宿泊施設を利用し、その後、事前に手配したアパートへ入る予定だった。
前回のように、到着してから一から部屋を探す必要はない。
それだけでも、ずいぶん違った。
*
出発の数日前。
理沙はカーリーの家を訪ねた。
娘は、理沙の姿を見るなり玄関まで走ってきた。
「リサ!」
「こんにちは」
理沙が腰をかがめる。
娘は理沙の手を握った。
「今日もご飯食べる?」
「今日はちょっとだけ」
「なんで?」
「お引っ越しするから」
「どこに?」
「シアトル」
娘はカーリーを見上げた。
「シアトルって、どこ?」
「ずいぶん遠いところ」
カーリーが答えた。
「車で行ける?」
「行けるけど、すごく時間かかるよ」
娘は少し考えた。
「じゃあ、飛行機?」
「そうね」
理沙は笑った。
その日は、3人で簡単な食事をした。
前回のように庭でバーベキューをするわけでもなく、特別な料理が用意されているわけでもなかった。
カーリーが作った夕食を食べ、娘の話を聞き、食後にコーヒーを飲んだ。
それだけだった。
娘が寝室へ行ったあと、2人は居間でしばらく話した。
「シアトル、寒そうだね」
カーリーが言った。
「そうらしい」
「ロサンゼルスとは違うよ」
「それは覚悟してる」
「風邪ひかないでね」
「お母さんみたい」
「お母さんだから」
カーリーが笑った。
理沙も笑った。
少し間が空いた。
「カーリーは?」
理沙が聞いた。
「仕事?」
「うん」
「まだ探してる」
「そっか」
「まあ、何とかなるでしょ」
カーリーはいつものように言った。
理沙は、彼女の家の奥にある小さな書斎を思い出した。
法律書。
学習端末。
将来のために勉強を続けているカーリー。
「勉強の方は?」
「続けてるよ」
「そう」
「リサも頑張ってね」
「うん」
カーリーはコーヒーカップをテーブルへ置いた。
「また連絡して」
「もちろん」
「シアトルの写真も送ってね」
「観光写真?」
「何でもいいよ」
「……分かった」
2人は少し笑った。
*
帰り際、カーリーは玄関まで見送ってくれた。
「じゃあ、またね」
「うん。また」
理沙はバッグを肩へ掛け直した。
少し歩いてから振り返る。
カーリーはまだ玄関に立っていた。
軽く手を上げる。
カーリーも同じように返した。
それだけだった。
理沙は再び歩き出した。
ロサンゼルスへ来て、初めてできた友人。
もう、毎朝あの自販機コーナーで会うことはない。
それでも、これで終わりになる気はしなかった。
*
出発の日。
理沙はアパートの部屋を見回した。
ベッドも、テーブルも、必要なものだけを残して片づけてある。
最初にこの部屋へ来たときは、ベッドと少しの家具を置いただけで、部屋がいっぱいになった。
空調の効きが悪く、夏の夜には窓を開けても、隣のビルの室外機から熱風が流れ込んできた。
あれほど暑かった部屋も、今は少し肌寒い。
理沙は窓際へ歩いた。
隣のビルの室外機は、相変わらず並んでいる。
遠くには、高級住宅地の建物が見えた。
初めてこの部屋で眠った夜。
あの灯りを眺めながら、どんな暮らしをしている人たちなのだろうと考えた。
今も、そこには同じように人々が暮らしているのだろう。
理沙は窓を閉めた。
荷物を持つ。
部屋の鍵を確認する。
そして、ドアを閉めた。
*
空港へ向かう車の中で、理沙は窓の外を眺めていた。
青い空。
道路沿いのヤシの木。
乾いた街並み。
ロサンゼルスへ来た最初の日も、こんな空だった。
あのころは、この街で何をすることになるのか分からなかった。
仕事を探し、何度も断られた。
それでも帰国はせず、アルバイトを掛け持ちした。
交通管制センターで働き、新しいシステムを完成させた。
そして、カーリーと出会った。
理沙はスマートフォンを取り出した。
カーリーから、短いメッセージが届いていた。
<気をつけて行ってね。着いたら連絡して>
理沙は返信した。
<ありがとう。着いたら連絡する>
送信。
画面を閉じた。
*
飛行機が滑走路を走り始めた。
機体が加速する。
窓の外の景色が、次第に速く流れていく。
やがて、車輪が地面を離れた。
ロサンゼルスの街が、少しずつ小さくなっていく。
道路。
建物。
住宅地。
海岸線。
その向こうに、青い海が広がっていた。
理沙は窓際の席から、しばらくその景色を眺めていた。
ロサンゼルスでの生活は、思っていたより短かった。
それでも、何も分からないままこの街へ来たころとは、少し違う。
今度は、向かう先に仕事がある。
暮らす場所も、ある程度は決まっている。
そして、遠く離れたこの街には、また会いたいと思える人がいる。
理沙はシートの背にもたれた。
少し眠かった。
昨夜は、引っ越しの準備であまり眠れなかった。
スマートフォンを取り出し、シアトルの天気を確認する。
曇り。
気温は、ロサンゼルスよりずいぶん低い。
「……寒そう」
小さく呟いた。
荷物の中には、冬物の服も入れてある。
それでも、少し心配になった。
理沙はスマートフォンをしまった。
窓の外では、青い海が遠ざかり、雲が少しずつ増えていた。
機体は北へ向かっている。
理沙は目を閉じた。
シアトルでは、どんな仕事が待っているのだろう。
どんな街なのだろう。
どんな人たちと出会うのだろう。
まだ、何も分からなかった。
それでも、ロサンゼルスへ向かったときとは違い、今度はその分からなさを、少しだけ楽しみにしている自分がいた。
飛行機は雲の上へ出た。
窓から差し込む光が、理沙の頬を静かに照らしていた。
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