003_11_シアトルへ

 目覚ましの音がしない朝だった。

 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の壁を明るく照らしている。

 理沙はベッドの中で寝返りを打った。

 時計を見る。

 午前9時を少し過ぎていた。

 いつもなら、もう仕事へ出かける準備をしている時間だった。

 けれど、今日は何も予定がない。

 夜勤もない。

 作業の引き継ぎもない。

 次の勤務時間を確認する必要もない。

「……休みか」

 理沙は再び目を閉じた。

 ロサンゼルス交通管制センターで働いたのは、4か月ほどだった。

 機材の搬入から始まり、設置、接続試験、新しいシステムへの切り替え。

 夜勤が多く、身体を使う仕事も少なくなかった。

 それでも、どうにか最後までやり遂げることができた。

 給与もよかった。

 為替の違いもあるので単純には比較できないが、東京の「Shangri-la」や「Castel」で働いていたころと、ほぼ同じくらいの収入を得られた。

 少なくとも、当面の生活費を心配する必要はなくなっていた。

 今日は一日、ゆっくりしよう。

 明日から、また仕事を探せばいい。

 そう思って、枕に顔を埋めた。

 そのときだった。

 枕元のスマートフォンが鳴った。

 通知音だった。

 理沙は目を開けたが、画面を見る気にはなれなかった。

 どうせ、また職探しエージェントからの求人案内だろう。

 今すぐ見る必要もない。

 布団を肩まで引き上げる。

 数分後。

 また鳴った。

「……」

 理沙は動かなかった。

 さらに数分後。

 また鳴る。

「うるさいなあ……」

 スマートフォンを裏返し、再び目を閉じた。

 今日は休むと決めたのだ。

 しかし、その後も通知音は鳴り続けた。

 結局、一時間ほど経ったところで、理沙は諦めて身体を起こした。

「そんなに何があるのよ」

 寝ぼけた顔のままスマートフォンを手に取った。

 画面を開く。

 通知一覧が表示された。

 10件近くの新着メッセージ。

 ほとんどが職探しエージェントからだった。

「……また求人?」

 理沙は一番上の通知を開いた。

     *

 システム管理。

 新システムへの移行作業。

 大規模ネットワークの運用。

 金融系システムセンターの構築支援。

 交通インフラの監視業務。

 次々と求人情報が表示された。

「……え?」

 理沙は画面をスクロールした。

 どれも、以前のような販売や一般事務の仕事ではなかった。

 募集対象は、システム管理や運用経験を持つ技術者。

 勤務地はロサンゼルスだけではない。

 シアトル。

 テキサス。

 フロリダ。

 東海岸の都市。

 全米各地のシステムセンターから、技術者を募集する案内が届いていた。

「ちょっと待って……」

 理沙はベッドから起き上がった。

 小さなテーブルへ移動し、椅子に座る。

 改めて、求人一覧を開いた。

 昨日まで、こんなことはなかった。

 応募しても断られる。

 面談にすら進めない。

 そんな日々が、まだ遠い昔のこととは思えなかった。

 それなのに。

「……何これ」

 思わず声が出た。

 求人情報は、まだ続いていた。

 理沙は一つずつ募集条件を確認した。

 どれも楽な仕事には見えない。

 夜勤。

 休日勤務。

 短期間でのシステム移行。

 現場間の移動。

 障害発生時の緊急対応。

 ロサンゼルス交通管制センターで経験した仕事と、似たような条件が並んでいる。

 ただし、給与は以前と同じか、それ以上だった。

「……すごいね」

 理沙は椅子の背にもたれた。

 4か月前なら、こんな求人に応募しても、相手にされなかったかもしれない。

 何が変わったのだろう。

 画面を見つめているうちに、ふと、以前のことを思い出した。

     *

 交通管制センターで働いていたころ。

 深夜の休憩時間に、作業員たちが職探しの話をしていたことがあった。

「今回の企業満足度値、もう出た?」

「まだ。前の現場は結構よかったけどな」

「じゃあ、次もすぐ決まるだろ」

 理沙はそのとき、あまり気にしていなかった。

 企業満足度値。

 技術者を採用した企業が、契約終了後にその働きぶりを評価し、エージェントへフィードバックする仕組みだった。

 技術者がエージェントを通して仕事を探すのと同じように、企業側も必要な人材を探している。

 経歴。

 保有スキル。

 これまで担当した業務。

 そして、実際に採用した企業からの評価。

 それらをもとに、条件の合う人材へ求人情報が届けられる。

 もちろん、評価が高ければ必ず採用されるわけではない。

 募集する仕事に必要な経験がなければ、意味がない。

 ただ、次の仕事を見つけるうえで、有利になることは確かだった。

 理沙は、自分の登録情報を開いた。

 職歴の一番上には、先日追加したばかりの項目が表示されている。

 ロサンゼルス交通管制センター。

 新監視制御センター構築支援。

 運用テスト。

 システム移行。

 本番切り替え対応。

 その下には、今回の契約についての評価情報が追加されていた。

 詳細な評価内容までは見えなかったが、企業側からのフィードバックが反映され、技術職向けの紹介条件が更新されている。

「……これか」

 理沙は小さく呟いた。

 最終日にベテラン作業員から言われたことを思い出す。

 自分が何をやったか、ちゃんと残しておけ。

 次の現場で人が足りなくなったとき、名前が出るようにしておけ。

 仕事を探すより、仕事の方から声をかけてくるようになれば楽だぞ。

 あの男は、こういうことを言っていたのか。

 理沙は再び求人一覧へ戻った。

「……なるほどね」

 今度は、少しだけ笑った。

     *

 朝食を作るつもりだったが、すでに昼近くになっていた。

 理沙は冷蔵庫から水を取り出し、飲みながら求人情報を眺め続けた。

 条件のよさそうなものを保存する。

 会社の情報を確認する。

 必要なスキルと、自分の経験を照らし合わせる。

 ロサンゼルスへ来たばかりのころのように、手当たり次第に応募する必要はなかった。

 今回は、選べる。

 それが少し不思議だった。

 何件目かの求人を開いたところで、理沙の指が止まった。

 金融系バンキングシステム。

 システム管理・運用担当者募集。

 勤務地、シアトル。

 欠員発生に伴う、経験者の緊急募集。

「……シアトル」

 理沙は募集内容を読み始めた。

 大規模金融システムの監視。

 サーバーおよびネットワークの運用管理。

 システム移行支援。

 障害対応。

 必要に応じて、関連するシステムセンターへの出張あり。

 東京で働いていたころの経験が生かせそうだった。

 交通管制センターで担当した仕事とも、共通する部分がある。

 給与条件を見る。

「二割増しか……」

 悪くない。

 もちろん、金融系のシステムだからといって、交通管制センターより楽な仕事だとは限らない。

 むしろ、厳しいのかもしれない。

 ただ、募集条件を読む限り、自分にできない仕事ではなさそうだった。

 理沙は画面の下まで目を通した。

 会社の情報を確認する。

 募集部署。

 雇用条件。

 契約期間。

 採用窓口。

 特に問題は見当たらなかった。

「……まあ、やってみるか」

 理沙は応募画面を開いた。

 登録済みの職歴情報を確認する。

 必要事項を入力する。

 送信。

 受付完了の表示が現れた。

 それだけだった。

 以前、ロサンゼルス交通管制センターの求人を見つけたときは、出勤まで15分しかなく、慌てて応募した。

 今は、時間ならいくらでもある。

 しかも、ほかにも候補はある。

 理沙は椅子から立ち上がった。

「さて、昼ご飯」

 そう言って、ようやくキッチンへ向かった。

     *

 食事を終えると、理沙はシアトルの住居情報を調べ始めた。

 まだ仕事が決まったわけではない。

 面談に進めるかどうかも分からない。

 それでも、採用された場合には、すぐに移動できるようにしておきたかった。

 シアトルの地図を開く。

 勤務地の周辺。

 交通機関。

 賃貸アパート。

 短期滞在できるホテル。

 ロサンゼルスで部屋を探したときのことを思い出す。

 あのときは、何もかもが初めてだった。

 今度は少し違う。

 どこを確認すればよいか、ある程度は分かっている。

 とはいえ、シアトルには一度も住んだことがない。

 冬の気候も、ロサンゼルスとはずいぶん違うらしい。

 理沙は賃貸情報をいくつか保存した。

 立ち上がり、コーヒーを入れようとした。

 そのとき。

 スマートフォンが鳴った。

 画面を見る。

 先ほど応募した、シアトルの会社からだった。

「……もう?」

 理沙はメールを開いた。

 面談日時についての案内。

 翌日の午後に、リモート面談を実施したいという内容だった。

「早いなあ……」

 椅子へ戻る。

 返信画面を開く。

 指定された日時で問題ないことを伝えた。

 送信。

 理沙はしばらく画面を見つめた。

 今日は一日休むつもりだった。

 それなのに、気がつけばもう午後になっている。

 求人情報を確認し、応募し、住居まで探し始めてしまった。

「……休みじゃなかったっけ」

 自分で言って、少し笑った。

     *

 その日の午後、理沙はカーリーへメッセージを送った。

 シアトルで、金融系システムの仕事が見つかりそうなこと。

 まだ採用されたわけではないが、翌日に面談があること。

 送信してから、少し考える。

 もう一言、付け加えた。

 <決まったら、ロサンゼルスを離れると思う>

 数分後、返信があった。

 <シアトル? ずいぶん遠くへ行くのね>

 理沙は画面を見ながら返した。

 <まだ決まってないけどね>

 <決まったら教えてね>

 <うん>

 それだけのやり取りだった。

 カーリーも、今月末で交通管制センターを離れることになっている。

 次の仕事は、まだ決まっていないらしい。

 少し前までは、二人とも同じ場所で働いていた。

 夜勤明けにコーヒーを飲み、どうでもいい話をしていた。

 それが、もうすぐできなくなる。

 理沙はスマートフォンをテーブルへ置いた。

 窓の外は、相変わらず明るかった。

     *

 翌日の面談は、予定どおり行われた。

 理沙はこれまでの職歴について説明した。

 東京でのシステム会社勤務。

 ロサンゼルス交通管制センターでの構築支援。

 監視・運用業務。

 システム切り替え時の対応経験。

 面接官からは、技術的な質問もいくつかあった。

 システム障害が発生したとき、最初に何を確認するか。

 運用中のシステムで設定変更が必要になった場合、どのような手順で進めるか。

 夜勤や緊急対応に問題はないか。

 理沙は、自分が経験した範囲で答えた。

 知らないことについては、知らないと答えた。

 その代わり、どこから確認し、誰に相談するかを説明した。

 面談は一時間ほどで終わった。

 結果は、追って連絡するとのことだった。

 理沙は接続を切った。

 少しだけ背伸びをする。

「……まあ、こんなものか」

 手応えはあった。

 ただ、採用されるかどうかは分からない。

 理沙は別の求人情報を開いた。

 ほかにも仕事はある。

 そう思えるだけで、以前よりずいぶん気持ちが楽だった。

     *

 数日後。

 シアトルの会社から、採用の連絡が届いた。

 理沙は通知を開き、条件を確認した。

 勤務地。

 給与。

 契約期間。

 勤務開始日。

 事前に聞いていた内容と、大きな違いはなかった。

 勤務開始は、翌月の初め。

 それまでに、シアトルへ移動する必要がある。

「……決まったか」

 理沙は小さく呟いた。

 嬉しくないわけではなかった。

 ただ、ロサンゼルス交通管制センターから面談の案内が届いたときのように、思わず拳を握ることはなかった。

 今度は、採用されたことよりも、その先に必要なことが頭に浮かんだ。

 住居。

 移動。

 荷物。

 契約。

 勤務開始までの日数。

「忙しくなるな……」

 理沙は採用条件への同意を返信した。

 そして、保存しておいたシアトルの賃貸情報を開いた。

     *

 それからの一週間は、慌ただしかった。

 ロサンゼルスのアパートの退去手続き。

 荷物の整理。

 シアトルでの住居の手配。

 交通手段の確認。

 必要な書類の準備。

 日本から持ってきた荷物は、それほど多くない。

 ロサンゼルスで買い足したものも、ほとんどが日用品だった。

 それでも、いざ引っ越すとなると、片づけるものはいくらでも出てきた。

 横浜の部屋は、まだ残してある。

 日本へ戻るつもりはない。

 けれど、今回はそのことについて考える余裕もなかった。

 理沙はロサンゼルスの部屋を片づけ、シアトルでの生活に必要なものを確認した。

 数日間は短期滞在用の宿泊施設を利用し、その後、事前に手配したアパートへ入る予定だった。

 前回のように、到着してから一から部屋を探す必要はない。

 それだけでも、ずいぶん違った。

     *

 出発の数日前。

 理沙はカーリーの家を訪ねた。

 娘は、理沙の姿を見るなり玄関まで走ってきた。

「リサ!」

「こんにちは」

 理沙が腰をかがめる。

 娘は理沙の手を握った。

「今日もご飯食べる?」

「今日はちょっとだけ」

「なんで?」

「お引っ越しするから」

「どこに?」

「シアトル」

 娘はカーリーを見上げた。

「シアトルって、どこ?」

「ずいぶん遠いところ」

 カーリーが答えた。

「車で行ける?」

「行けるけど、すごく時間かかるよ」

 娘は少し考えた。

「じゃあ、飛行機?」

「そうね」

 理沙は笑った。

 その日は、3人で簡単な食事をした。

 前回のように庭でバーベキューをするわけでもなく、特別な料理が用意されているわけでもなかった。

 カーリーが作った夕食を食べ、娘の話を聞き、食後にコーヒーを飲んだ。

 それだけだった。

 娘が寝室へ行ったあと、2人は居間でしばらく話した。

「シアトル、寒そうだね」

 カーリーが言った。

「そうらしい」

「ロサンゼルスとは違うよ」

「それは覚悟してる」

「風邪ひかないでね」

「お母さんみたい」

「お母さんだから」

 カーリーが笑った。

 理沙も笑った。

 少し間が空いた。

「カーリーは?」

 理沙が聞いた。

「仕事?」

「うん」

「まだ探してる」

「そっか」

「まあ、何とかなるでしょ」

 カーリーはいつものように言った。

 理沙は、彼女の家の奥にある小さな書斎を思い出した。

 法律書。

 学習端末。

 将来のために勉強を続けているカーリー。

「勉強の方は?」

「続けてるよ」

「そう」

「リサも頑張ってね」

「うん」

 カーリーはコーヒーカップをテーブルへ置いた。

「また連絡して」

「もちろん」

「シアトルの写真も送ってね」

「観光写真?」

「何でもいいよ」

「……分かった」

 2人は少し笑った。

     *

 帰り際、カーリーは玄関まで見送ってくれた。

「じゃあ、またね」

「うん。また」

 理沙はバッグを肩へ掛け直した。

 少し歩いてから振り返る。

 カーリーはまだ玄関に立っていた。

 軽く手を上げる。

 カーリーも同じように返した。

 それだけだった。

 理沙は再び歩き出した。

 ロサンゼルスへ来て、初めてできた友人。

 もう、毎朝あの自販機コーナーで会うことはない。

 それでも、これで終わりになる気はしなかった。

     *

 出発の日。

 理沙はアパートの部屋を見回した。

 ベッドも、テーブルも、必要なものだけを残して片づけてある。

 最初にこの部屋へ来たときは、ベッドと少しの家具を置いただけで、部屋がいっぱいになった。

 空調の効きが悪く、夏の夜には窓を開けても、隣のビルの室外機から熱風が流れ込んできた。

 あれほど暑かった部屋も、今は少し肌寒い。

 理沙は窓際へ歩いた。

 隣のビルの室外機は、相変わらず並んでいる。

 遠くには、高級住宅地の建物が見えた。

 初めてこの部屋で眠った夜。

 あの灯りを眺めながら、どんな暮らしをしている人たちなのだろうと考えた。

 今も、そこには同じように人々が暮らしているのだろう。

 理沙は窓を閉めた。

 荷物を持つ。

 部屋の鍵を確認する。

 そして、ドアを閉めた。

     *

 空港へ向かう車の中で、理沙は窓の外を眺めていた。

 青い空。

 道路沿いのヤシの木。

 乾いた街並み。

 ロサンゼルスへ来た最初の日も、こんな空だった。

 あのころは、この街で何をすることになるのか分からなかった。

 仕事を探し、何度も断られた。

 それでも帰国はせず、アルバイトを掛け持ちした。

 交通管制センターで働き、新しいシステムを完成させた。

 そして、カーリーと出会った。

 理沙はスマートフォンを取り出した。

 カーリーから、短いメッセージが届いていた。

 <気をつけて行ってね。着いたら連絡して>

 理沙は返信した。

 <ありがとう。着いたら連絡する>

 送信。

 画面を閉じた。

     *

 飛行機が滑走路を走り始めた。

 機体が加速する。

 窓の外の景色が、次第に速く流れていく。

 やがて、車輪が地面を離れた。

 ロサンゼルスの街が、少しずつ小さくなっていく。

 道路。

 建物。

 住宅地。

 海岸線。

 その向こうに、青い海が広がっていた。

 理沙は窓際の席から、しばらくその景色を眺めていた。

 ロサンゼルスでの生活は、思っていたより短かった。

 それでも、何も分からないままこの街へ来たころとは、少し違う。

 今度は、向かう先に仕事がある。

 暮らす場所も、ある程度は決まっている。

 そして、遠く離れたこの街には、また会いたいと思える人がいる。

 理沙はシートの背にもたれた。

 少し眠かった。

 昨夜は、引っ越しの準備であまり眠れなかった。

 スマートフォンを取り出し、シアトルの天気を確認する。

 曇り。

 気温は、ロサンゼルスよりずいぶん低い。

「……寒そう」

 小さく呟いた。

 荷物の中には、冬物の服も入れてある。

 それでも、少し心配になった。

 理沙はスマートフォンをしまった。

 窓の外では、青い海が遠ざかり、雲が少しずつ増えていた。

 機体は北へ向かっている。

 理沙は目を閉じた。

 シアトルでは、どんな仕事が待っているのだろう。

 どんな街なのだろう。

 どんな人たちと出会うのだろう。

 まだ、何も分からなかった。

 それでも、ロサンゼルスへ向かったときとは違い、今度はその分からなさを、少しだけ楽しみにしている自分がいた。

 飛行機は雲の上へ出た。

 窓から差し込む光が、理沙の頬を静かに照らしていた。



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