「リサ。これ、今日中に対応方針を出してくれ」
理沙は顔を上げた。
目の前に、資料が一つ置かれた。
ダグラス・レーナルト。
このシステムセンターで、理沙たちの作業チームを管理している男だった。
短く整えられた黒髪。
白いビジネスシャツ。
首から下げたIDカード。
いつも落ち着いた表情をしているが、目つきは少し鋭い。
理沙は資料を開いた。
何ページにもわたって、細かな要求事項が並んでいる。
「……今日中ですか?」
「そうだ。明日には実装作業に入りたい」
「分かりました」
ダグラスは頷いた。
「不明点があれば、午前中に整理しておいてくれ」
それだけ言うと、隣のコンソール席へ向かった。
理沙は資料を見直した。
時計を見る。
午前9時を少し過ぎたところだった。
「……今日中ね」
小さく呟いた。
シアトルで働き始めてから、こうしたことが毎日のように続いていた。
*
理沙が新しく勤務することになったのは、シアトルの金融系システムセンターだった。
ここでは、次世代自動化システムと呼ばれる新しいバンキングシステムの構築が進められていた。
理沙たちの担当は、そのシステムが動くための基盤環境を整えることだった。
サーバー。
ネットワーク。
ストレージ。
セキュリティ。
監視と運用。
それぞれの機能を組み合わせ、銀行側が求める環境を、決められた期日までに提供しなければならない。
しかも、その要求は一度にすべて伝えられるわけではなかった。
毎週のように新しい要件が届く。
以前に決まったはずの仕様が、変更されることもある。
ようやく一つの作業を終えたと思ったら、次の課題が届いている。
そんな職場だった。
理沙は最初の数日間で、ロサンゼルス交通管制センターとの違いを思い知らされていた。
あのころは、作業リーダーから具体的な指示が出ていた。
どの機器を、どこへ運ぶのか。
どのケーブルを、どこへ接続するのか。
どのテストケースを実施するのか。
指示された作業を正確にこなすことが、理沙の役割だった。
しかし、ここでは違った。
*
理沙はダグラスから渡された資料を読み進めた。
今回の課題は、銀行側から新たに提示されたセキュリティ要件だった。
外部から接続するシステムの認証条件を見直し、不正なアクセスを防ぐ。
要求そのものは分かる。
しかし、その先が書かれていなかった。
どの機器の設定を変更するのか。
どのソフトウェアで制御するのか。
既存の運用に、どの程度の影響が出るのか。
理沙は資料を最後まで読んだ。
もう一度、最初から確認する。
具体的な作業手順は、どこにもなかった。
近くを通りかかったダグラスへ声をかけた。
「ダグラス」
「何だ?」
「この要件の具体的な作業手順は、どこにありますか?」
ダグラスは理沙の資料を見た。
「手順?」
「はい。設定変更の対象とか、実施する作業の一覧とか」
「それを考えるのが君の仕事だ」
理沙は一瞬、言葉に詰まった。
「……なるほど」
「要求事項はそこにある。必要な作業を整理して、実施方針を出してくれ」
「分かりました」
「午前中に一度確認する」
ダグラスは自分の席へ戻っていった。
理沙は資料へ視線を戻した。
東京でシステム会社に勤めていたころ、要件や設計についての仕事に関わった経験はある。
何も知らないわけではなかった。
ただ、今回のような大規模金融システムで、与えられた要求から自分で作業方針を決める立場になると、勝手が違った。
何をするべきかは示されている。
どうするかは、自分で考える。
「……そういうことね」
理沙は新しい資料を開いた。
*
まず、現在の構成を確認した。
外部接続を受け付ける機器。
認証処理を行うソフトウェア。
接続先のシステム。
そして、既存の運用条件。
それぞれを画面に並べる。
銀行側の要求と照らし合わせながら、変更が必要な箇所を書き出した。
外部からの不正なアクセスを防ぐ。
ただし、正規の接続まで止めてしまっては意味がない。
理沙はしばらく考えた。
まず、ハードウェア側の制御で接続元を絞る。
そのうえで、ソフトウェア側の認証条件を強化する。
両方を組み合わせれば、かなり厳しい制御ができるはずだった。
理沙は対応方針をまとめた。
変更対象。
実施手順。
必要な作業時間。
想定される影響。
テスト項目。
ようやく一通り書き終えたところで、時計を見る。
午前11時を過ぎていた。
「……まあ、こんなものかな」
理沙はダグラスへ資料を送った。
*
昼前。
ダグラスが理沙の席へやってきた。
「リサ、ちょっといいか」
「はい」
ダグラスは隣の椅子へ座り、理沙の画面を見た。
「この条件だが」
認証設定の一部を指す。
「これだと、正規の利用者まで止めてしまう」
理沙は画面を見た。
「え?」
「銀行側の要求をもう一度確認してくれ。接続元が変わる運用があるだろう」
「あ……」
理沙は要求事項を開いた。
確かに書いてあった。
銀行の関連システムの一部は、運用状況によって接続元が変更される。
理沙の考えた方針では、その接続まで遮断してしまう可能性があった。
「……そうですね」
「セキュリティを厳しくするのはいい。ただし、正規の業務を止めてはいけない」
「はい」
「ハードウェア側とソフトウェア側、それぞれ何を担当させるか、もう一度整理してくれ」
「分かりました」
ダグラスは立ち上がった。
「午後3時までに頼む」
「……3時ですか」
「何か問題があるか?」
「いえ。大丈夫です」
「よろしく」
ダグラスは次の担当者の席へ向かった。
理沙は時計を見た。
昼休みまで、あと少しだった。
「……厳しいなあ」
小さく呟く。
しかし、ダグラスの指摘は間違っていなかった。
理沙は資料を開き直した。
*
午後3時。
理沙は修正した対応方針を提出した。
ハードウェア側では、明らかに不要な接続を制限する。
ソフトウェア側では、接続元の変更にも対応できるよう、認証情報と利用条件を確認する。
それぞれの役割を分け、正規の業務を妨げないようにした。
ダグラスが資料を確認する。
しばらく、何も言わなかった。
理沙はその横顔を見ていた。
「……うん」
ダグラスが頷いた。
「これなら進められる」
「はい」
「明日、実装に入ってくれ。変更前の状態を残して、戻せるようにしておくこと」
「分かりました」
「テスト結果も、銀行側へ報告できる形でまとめてくれ」
「はい」
ダグラスは資料を閉じた。
「よく整理できている」
それだけ言って、席を立った。
理沙は画面へ視線を戻した。
「……どうも」
誰にも聞こえない声で呟いた。
午後3時を少し過ぎていた。
ようやく今日の仕事が一段落した。
そう思ったところで、新しい通知が表示された。
銀行側からの追加要件だった。
「……また?」
理沙は画面を開いた。
*
翌日。
理沙は前日に決めた方針に従い、設定変更の作業を始めた。
変更前の状態を保存する。
作業手順を確認する。
担当者と実施条件を照合する。
そして、一つずつ設定を変更していく。
作業そのものは、難しいことばかりではなかった。
ただ、間違えた場合の影響が大きい。
銀行のシステムである以上、短時間の停止でも、後続の業務に影響が出る可能性がある。
理沙は画面の表示を確認しながら、慎重に作業を進めた。
設定変更が終わる。
接続試験。
正常。
認証試験。
正常。
条件を変えて、もう一度。
正常。
最後に、不正な接続を想定したテストを行う。
接続は拒否された。
「……よし」
理沙は結果を記録した。
銀行側への報告資料をまとめる。
変更内容。
テスト結果。
確認事項。
未解決の課題。
ダグラスへ送る。
しばらくして、返信が届いた。
<確認した。銀行側へ提出してくれ>
理沙は小さく息を吐いた。
ようやく一件、終わった。
*
しかし、翌週には新しい課題が届いた。
前回のセキュリティ要件に、追加条件が付いていた。
理沙は資料を読み直した。
「……そこも変わるの?」
すでに実装した内容の一部を、再検討しなければならなかった。
ダグラスに確認する。
「前回の方針を変更する必要がありますね」
「そうだ」
「どこまで戻しますか?」
「それも含めて考えてくれ」
「……はい」
理沙は自分の席へ戻った。
また資料を開く。
また対応方針を考える。
また設定を変更する。
またテストする。
ようやく作業を終えたころには、別のシステムについての要求が届いていた。
その翌週には、銀行側から新しい仕様が伝えられた。
さらに翌週。
今度は、以前決まったはずの条件が変更された。
「リサ、ここの方針、もう一度見直してくれ」
「はい」
「明日までに」
「……分かりました」
理沙は画面を閉じた。
別の資料を開く。
毎週、同じようなことの繰り返しだった。
次世代自動化システムと呼ばれるだけあって、新しい技術が次々と取り込まれていく。
それに合わせて、要求も変わる。
昨日までの方針が、今日もそのまま使えるとは限らない。
理沙は、少しずつその仕事の進め方を覚え始めていた。
ただし、課題の数が減ることはなかった。
*
昼休み。
理沙は社内の食堂で、簡単な食事をとっていた。
窓の外は曇っている。
シアトルへ来てから、青空を見た記憶があまりなかった。
ロサンゼルスとはずいぶん違う。
雨が降る日も多かった。
その日の朝も、アパートを出たときには細かな雨が降っていた。
理沙は窓の外を眺めた。
昼食を食べ終える。
時計を見る。
休憩時間は、まだ少し残っていた。
スマートフォンを取り出す。
カーリーから、数日前に届いたメッセージを開いた。
<シアトルの生活、どう?>
理沙は返信欄に文字を入力した。
<仕事ばっかり>
少し考える。
<ロサンゼルスより寒い>
送信。
それからスマートフォンをしまった。
午後も、ダグラスからの課題が待っている。
*
帰宅するころには、外はすっかり暗くなっていた。
理沙はアパートのドアを開けた。
バッグを置く。
上着を脱ぐ。
そのままベッドへ倒れ込みたかったが、まずシャワーを浴びることにした。
温かい湯を浴びる。
ようやく肩の力が抜けた。
簡単な食事を作り、食べる。
後片づけを終えると、もう何もする気にはなれなかった。
ベッドに横になる。
「……疲れた」
天井を見上げた。
ロサンゼルスで暮らしていた部屋とは違い、天井のクロスはきれいだった。
空調も、よく効いている。
それでも、今の方がずっと疲れている気がした。
目を閉じる。
ダグラスの声が、頭の中によみがえった。
――この条件だと、正規の利用者まで止めてしまう。
――もう一度整理してくれ。
――明日までに。
「……明日まで、ね」
理沙は小さく呟いた。
厳しい。
確かに厳しい。
ダグラスは、曖昧な説明を認めなかった。
理由を尋ねれば、必ず答えを求められる。
できないと言えば、なぜできないのかを説明しなければならない。
しかも、次の課題が待っている。
最初のころは、その進め方についていくだけで精一杯だった。
しかし、理沙はダグラスのことを理不尽な上司だとは思っていなかった。
彼の指摘には、理由があった。
無理な要求に見えても、考え直してみれば、確かに必要な作業だった。
そして、成果を出せば、きちんと認めてくれる。
感情で叱責することもない。
ただ、必要なことを要求する。
それだけだった。
理沙は目を開けた。
枕元のスマートフォンを手に取る。
今日、修正を求められた資料を開いた。
明日の午前中までに、もう一度方針を出さなければならない。
画面をスクロールする。
銀行側の要求事項。
既存の設定。
ダグラスからの指摘。
理沙は、しばらくそれらを見比べていた。
「……ここか」
小さく呟く。
気になっていた箇所が、一つ見つかった。
明日、最初に確認しておこう。
メモを開く。
短い文章を入力した。
保存。
理沙はスマートフォンを枕元へ戻した。
ようやく、目を閉じる。
身体は疲れ切っていた。
それでも、昼間のダグラスの言葉が、まだ頭の片隅に残っていた。
次は、もう少しうまくやりたい。
次は、最初からそこまで考えておきたい。
誰かに褒められたいわけではなかった。
ただ、あの男に何度も同じことを言われるのは、少し癪だった。
「……次は」
そこまで呟いて、理沙は口を閉じた。
明日も、また要件が届くのだろう。
その次の日も。
そして、またその次の日も。
理沙は布団を引き寄せた。
窓の外では、細かな雨が降り始めていた。
その音を聞きながら、理沙はゆっくりと眠りについていった。
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